戦史叢書における南京事件の記述


防衛研修所戦史室*1が編纂し、朝雲新聞社が出版している戦史叢書
南京事件に関する記述があるのは、第86巻『支那事変陸軍作戦(1)昭和十三年一月まで』で出版は昭和50年7月
事件に関する記述と、その参考文献を抜粋します。 


南京事件について*2 

 南京は外国権益が多く、また多数の非戦闘員や住民がいる関係上、方面軍司令官は、とくに軍紀風紀を厳守するよう指導していたが、遺憾ながら同攻略戦において略奪、婦女暴行、放火等の事犯がひん発した。これに対し軍は法に照らし厳重な処分をした(14,15)。
 ところが当時同地にとどまっていた諸外国特派員が生々しい戦禍の状況を世界に報道し喧伝した。たとえば英国マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員H・Jティンパーレンが、昭和十三年七月「中国における日本軍の残虐行為」を編集発行し、米国のジャーナリスト、エドガー・スノウはその著「アジアの戦争」(昭和十六年発行)のなかでこれを紹介し「軍国主義日本の狂暴」を全世界の人々に印象づけようとした。そのなかで最も強調しているのは、日本軍が何十万という捕虜や住民を虐殺したということである(121,122,123,124)。
 これが事件として取り上げられたのは、終戦後の極東国際軍事裁判及び南京の特別軍事裁判であった。南京の裁判では処刑そのものを必要とする政略的理由から、約三○万の軍民が虐殺されたとして、谷壽夫中将以下四人の軍人が処刑された。東京の裁判では、南京占領から一ヶ月の間に男女子供を含む非戦闘員一・二万、掃蕩戦の犠牲者二万、捕虜三万以上、計六・二万以上が殺害され、さらに近郊に避難していた市民五・七万以上が餓死あるいは虐殺されたという判決を下した(122,124)。
 しかし、その証拠を些細に検討すると、これらの数字は全く信じられない。
 一方、当時の日本軍は、南京付近防衛の中国軍を約一○万と判断し、昭和十二年十二月十八日「敵の遺棄屍体は八、九万を下らず、捕虜数千に達す」と発表したが、翌年一月「敵の損害[死傷者]は約八万、うち遺棄屍体は約五万三、八七四」と算定した(83,121,122,127)。しかし、日本軍の戦果発表が過大であるのは常例であったことを思えば、この数字も疑わしい。
 しかし、これが事件として取り上げられたのは、若干の事実があったからであり、これが誤解、曲解され、さらに誇大宣伝されたためであろう。以下、諸資料を総合すると次のように考えられる(32,102,121,131)。
 作戦地域は、中国防衛軍の手によって「空室清野」戦術がとられたため、一般住民の被害は大であったろう(83,125,127,128,129)。
 また南京攻略戦は完全包囲殲滅戦であったから、戦闘行動による中国軍の損害の多かったのは当然である(127)。
 
 問題は、
(一) 占領直後の敗残兵掃蕩戦において、多数の非戦闘員や住民が巻き添えをくらって死亡したこと、とくに中国軍後退部隊と避難民が混淆した南京北方及び西方地区で大であった。ただし、非武装住民であっても、軍に協力し、あるいは遊撃戦に関与して敵対行動をとったものは戦闘員と見なさざるをえない。
 
(ニ) 南京の人口は、平時約一○○万、南京攻略戦開始当初約三○万、そのうち数万が作戦間に退避し、日本軍占領時には、そのうち二十数万がおおむね難民区に集っていた。しかし南京陥落直後は完全な無政府状態で混乱を極めていた。(日高信六郎参事官談) ところが敗残兵の多くのものは、武器を捨てるか陰匿して住民に変装し、いわゆる便衣隊となって潜伏した。この便衣隊を住民のなかから摘出検挙することは非常に困難であるが、この際にも無抵抗の住民に若干の犠牲があったと考えられる。
 
(三) 投降者を捕虜と認めず、従って捕虜として取り扱われぬことが少なくなかった。日本軍の攻撃舞台は、中国軍側に比べ兵力が僅少であったので、戦闘行動中に投降する者があっても捕虜として監視する兵力がなく、足手まといとなるばかりであり、偽装投降の前例も多かったことや、真に中国兵が戦意を喪失しているのかどうかの判別が困難であったこと、日本兵の恐怖心や敵愾心が強く、殺すか殺されるかという切迫した状況下では冷静な判断ができ難いこと、それに捕虜として遇するための設備や補給能力がなかったためである。これらは作戦が猛烈な追撃戦に次ぐ激烈な堅陣攻撃及び市街戦であった特性上からくるものであり、日本軍の第一線部隊のみを責めることはできない。
 
(四) 南京占領後の捕虜の処遇も十分とは言いがたい。これは激戦直後の将兵の敵愾心、捕虜収容設備の不備などによるものであるが、捕虜殺害の数はさほど大ではないようである。第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは十五日、山田旅団が幕府山砲台付近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、休養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約一、○○○名が射殺され、他に逃亡し、日本軍も将校以下七名が戦死した。なお第十六師団においては、数千名の捕虜を陸軍刑務所跡に収容している。
 
 以上、各項目について具体的に正確な数字を挙げることは不可能であるが、南京付近の死体は戦闘行動の結果によるものが大部であり、これをもって計画的組織的な「虐殺」とは言いがたい。しかしたとえ少数であったとしても無辜の住民が殺傷され、捕虜の処遇に適切を欠いたことは遺憾である。
 当時、外務省東亜局長であった「石射猪太郎回想録」によれば、昭和十二年十二月下旬から翌年一月にかけて、現地総領事から日本軍の不軍規に関する報告があり、石射局長は陸海外三省局長会議で陸軍側の反省を求め、廣田外相も杉山陸相に警告したと述べている(103)。陸軍では、一月七日、参謀総長が出征軍隊の軍紀風紀の緊粛について異例の「訓示」を発し、陸軍退陣も一〜ニ月の間、軍紀風紀振作対策を講じた(40)。

 
参考文献*3

14 「満州事変史」第一巻、第十三巻 参謀本部
15 「支那事変陸戦概史」上篇 参謀本部
32 「在支列国権益概説」植田捷雄 昭14・6 巌松堂刊 
40 「業務日誌及び機密作戦日誌」 昭12・7〜13・5 参謀本部第二課(のち戦争指導班)
83 「飯沼守中将日記」(上海派遣軍参謀長時代)
102 「廣田弘毅」 昭41・12 廣田弘毅伝記刊行会
103 「外交官の一生」 石射猪太郎著 昭25・11 読売新聞社
121 「南京大虐殺まぼろし」 鈴木明著 昭38・3 文芸春秋社
122 「南京事件」洞富雄著 昭47・4 新人物往来社
123 「外国人の見た日本人の暴行」 ティン・パーリー著 龍渓書舎刊
124 「日中戦争史資料」 第八・第九巻 洞富雄編 昭48・11 河出書房新社
125 「ニューヨーク・タイムズ」 昭13・1・9掲載 J・ダーディン記者レポート
126 「南京作戦の真相」 元毎日新聞特派員五島廣作編
127  第十六師団参謀長中澤三夫大佐(のち中将)関連資料
128  「支那事変・佐々木到一少将私記」 昭13 (当時、歩兵第三十旅団長)
129  歩兵第三十三聯隊長助川静ニ大佐(のち少将)関係資料
131 「郷土部隊戦記」 昭39・5 福島民友新聞社編集発行

*1:防衛省防衛研究所戦史部

*2:本文:P436〜438

*3:参考文献:P505〜509