南京陥落後一週間


南京事件に関しては少なくない数の日記が残され、書籍に収められております。
そこで思いつき企画ですが、それらの日記から南京陥落後一週間(1937年12月13日〜19日)の
部分を抜粋していこうと思います。
 ※数が増えたらカテゴリ分けする予定です。


■松井石根 陸軍大将・中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官
■飯沼守 陸軍少将・上海派遣軍参謀
■中島今朝吾 第十六師団長・陸軍中将
■増田六助 第十六師団歩兵第二十聯隊
■上羽武一郎 第十六師団歩兵第二十聯隊
■北山与 第十六師団歩兵第二十聯隊
■牧原信夫 第十六師団歩兵第二十聯隊
■第四中隊陣中日誌 第十六師団歩兵第二十聯隊
■斎藤次郎 歩兵第65連隊本部通信班小行李
■堀越文雄 歩兵第65連隊本部通信班(有線分隊長)
■伊藤喜八 歩兵第65連隊第Ⅰ中隊
■中野政夫 歩兵第65連隊第1中隊・第3次補充
■宮本省吾 歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充
■杉内俊雄 歩兵第65連隊第7中隊
■柳沼和也 歩兵第65連隊第7中隊
■新妻富雄 歩兵第65連隊第7中隊・第2次補充
■大寺隆 歩兵第65連隊第7中隊・第4次補充
■遠藤高明 歩兵第65連隊第8中隊・第3次補充
■本間正勝 歩兵第65連隊第9中隊
■大内利己 歩兵第65連隊第9中隊・第3次補充
■高橋光夫 歩兵第65連隊第11中隊・第4次補充
■菅野嘉雄 歩兵第65連隊連隊砲中隊
■近藤栄四郎 山砲兵第19連隊第8中隊
■黒須忠信 山砲兵第19連隊第Ⅲ大隊大隊段列
■目黒福治 山砲兵第19連隊第Ⅲ大隊大隊段列
■ジョン・ラーベ 南京安全区国際委員会委員長、独ジーメンス社の社員
■ミニー・ヴォートリン 金陵女子文理学院の教師

 
参考 部隊符号の読み方
 
秦郁彦著『南京事件』の年表によりますと該当期間は以下のように記載されております。

13日 南京陥落 
    浦口占領
 
14日 山田支隊、幕府山を占領
    揚州占領
    日本外交団第一陣南京へ入る
 
15日 ダーディン記者ら南京を去る
    松井大将、湯水鎮へ飛来
 
16日 歩七連隊の全力による難民区掃蕩
 
17日 南京入場式
 
18日 慰霊祭


増田日記

収録 『南京事件 京都師団関係資料集』 井口和起・木坂順一郎・下里正樹 青木書店


増田六助・・・第十六師団歩兵第二十聯隊第四中隊


日記 P7〜8  ※カタカナ→ひらがな。誤字修正。

十二月十三日 入城
未明に山を下りて南京に向ふ。聞けば今朝三時半第二大隊全軍に魁けて南京中山門を占領せりと。午後二時我大隊及び聯隊旗も晴の入城。
全軍の将士は勿論故国の官民等しく今日の入場をどの位待った事か。其の一番乗をせるは其の功云ふべからす。引続き城内掃討す。夜は宿舎に就き大いに祝福す。手近に酒有りミルク在り。呑んだ呑んだ唄った。大隊副官の注意を受くる迄多く戦友を犠牲にし数ヶ月の労苦は今日晴れて忘れんとす。ああ思へは尊し犠牲の英霊を弔ふ。命を全し此の栄ある入城せし我等の幸福又之に過ぐるものなし。


十二月十四日 掃討
外国租界に入り避難民中に混ざりて居る敗残兵を掃討す。第四中隊のみにても五百人を下らす。玄武門側にて銃殺せり。各隊にても同しと云ふ。


十二月十五日
中嶋部隊は本日午後二時より四時迄入城式(中山門)を行ふと云ふに、一大隊は市内の掃討を変更して城外馬群に警戒勤務に就く事となり出発す。第一番乗の勲功の待遇として城外の掃討警備としては余りなり。夜は馬屋位のところにどし込で宿営。*1


十二月十六日
あの山城で山々の要点各所に警戒兵を出して警備に就く。
午後目的地に着く。夜山上下士哨に服務。


十二月十七日
出発し白水橋に帰り一週間の予定にて駐屯勤務。
敗残兵の掃討を行ふ。
多数の捕虜広場に居るを見る。


十二月十八日 日直服務
書翰が出せるので皆書く書く。而して自分は書けぬ。坂田勝、岡田半之助、役場(三平、田中、三之)氏の便あり。松井芳之助氏の死あり。木村準病院にて死亡との報あり。あの時の苦労も個人への餞となりたるか。


十二月十九日
日直下番。分隊の兵皆営兵勤む。白須、辻は南京に設営に出る。
一人残りて衛兵の世話す。
夜王の奇術に興ず。


解説 P502

 増田六助氏は一九○九年七月ニ日生まれ 京都府竹野郡丹後町在住。尋常小学校卒。農業。
 その戦歴は次のとおりである。
 第十六師団第二十聯隊が満州に駐箚した際、一九三○年(昭和五)一月から翌三一年五月まで現役の上等兵として第一大隊第三中隊に属し遼陽に駐屯。一九三七年(昭和十二)八月臨時召集により再び第二十聯隊入隊、九月に第一大隊(西崎部隊)第四中隊(坂隊)第二小隊所属として塘沽上陸、以後、子牙河戦、南京攻略戦、北支那戡定戦、徐州大会戦、漢口戦、京山攻撃戦、安陸攻略戦、襄東会戦に参加、三九年(昭和十四)七月、歩兵伍長として帰還。のち四五年(昭和二十)三月にも臨時召集を受け、同年十一月解除、歩兵軍曹として帰郷することになる。
 増田日記はニ・五ミリ方眼紙を断裁した市販小型手帳(縦八ニミリ・横一三○ミリ)に記され、戦地で書かれたものである。

*1:押し入っての意。丹後地方の方言。