水島監督、北京五輪をDisってみる

Jodorowsky2008-09-12

 
月刊『正論』で人気沸騰中のブル聯隊長水島監督の連載。「 映画『南京の真実』製作日誌 "情報戦"の最前線から 」
第13回においては、予想通りというかお約束というか、北京五輪と出場した日本人選手をDisってます。
ブーメラン具合が奇跡的な感じすらする箇所を以下に抜粋。*1

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 さて、北京オリンピックは、中共政府が国家の威信を賭けて開催した巨大なスポーツ・政治ショーだったが、それ以上に背筋が寒くなるような思いをしたのが、福田首相日本選手団の男性選手たちの有り様だった。彼らの姿には、日本という主語がなく、「公」の意識を失った戦後日本人の成れの果てと、危険な日本の転換点が示されていた。開会式の入場行進で、日本選手団だかが日の丸と中国の「五星紅旗」を持って行進した。この行為は、政治的抑圧や人権弾圧を繰り返している中共政府を是認するばかりか、積極的に彼等の「仲間」であることの表明となる。仲間ならまだいい。卑屈な「子分」の表明であると、支那民衆とアジアと世界の人々は考えたろう。この日本選手団の能天気さ、鈍感さは、戦後日本の恐るべき質的劣化を示す何物でもない。
 その典型例が福田首相だった。日本選手団が入場し、世界のカメラが日本国首相を映しているのに、立ち上がりもせず、手も振らず、見物人の小父さんよろしくニヤついていたのである。福田氏には、あの場が世界的な政治ショー、情報宣伝の熾烈な戦場であるという認識が全く無かったのだ。福田氏は、日本国総理としての自覚の欠如、あるいは希薄な人物であるとの実態を、世界に向けて曝け出した。同様だったのが、日本の男子選手である。特に柔道はひどかった。
 柔道がスポーツJUDOになったと言われて久しいが、日本選手自身が日本人柔道かから単なる個人スポーツマンになり果てた醜態を露呈させたのである。柔道は格闘技であり、同時に、武道でもある。こんな当たり前のことが、今回の日本の柔道選手には自覚されていなかった。勝敗は時の運である(その点については大東亜戦争も同じである)。戦う人間にとって、勝つ事だけを考えるのではなく、常に敗れることも想定し、それを引き受ける覚悟が出来たとき、初めて本物の戦う人間になれるのである(戦争も同じである)。
 また、敗れたときこそ、その人間や国家、国民の「性根」が問われるのである。「平家物語」や「太平記」等を読むとき、私たちは祖先の負けっぷりの見事さ、気高さに感動する。「葉隠」にある「武士道とは死ぬることと見つけたり」の言葉も、敗れて死する事を覚悟し、武士としての節操を貫く大事さを主張している。特定個人を責めたいとは思わないが、あえて具体例を挙げる、日本選手団の主将を務めた柔道百キロ級の鈴木桂治選手である。彼は一回戦でも、敗者復活戦でも一本負けした。それは仕方ない。しかし、試合に敗れたとき、彼は判定が下される前に、四つん這いで突っ伏し、畳に額を擦り付けたまま動かなかった。それも二、三十秒の長い間である。審判に再三促され、やっと立ち上がり、審判の判定を聞き、勝者に気のない礼をした。まことに同じ日本人として恥ずかしい姿だった。この青年には武道家としての意地も誇りも皆無であり、敗北を受け止める覚悟も無く、会場の観客の目を意識する公の意識も無かった。敗北に動転し、自分を見失い、自分が日本代表であり、選手団主将であるとの自覚すら忘れる醜態を演じたのである。まるで大東亜戦争に敗れた戦後日本人のように、茫然自失してしまったのである。
 武道としての柔道は、大相撲の土俵と同じく、試合場を命がけの「戦争=殺し合い」のシミュレーションの場所として神聖視する。だからこそ、対戦相手や場所に対する敬意と礼儀がうるさく言われるのである。殺人(勝利)をして、敗れた者への敬意を忘れ、ガッツポーズするなど論外なのである(乃木希典大将や松井石根大将を見よ)。同時に、敗れた者も敗者への敬意を表すること、敗者ではあっても、堂々と戦った武人としての誇りと名誉を最後まで示す場なのである。男子七十三キロ級の金丸雄介選手も醜態を晒した。敗北した試合が終り、両者が正対し礼を行うとき、茫然としていたのか、両手を帯に掛けて立ったまま、審判が再三注意して、金丸選手はやっと手を下して頭を下げた。また、陸上競技の二百メートル日本記録保持者の末次慎吾選手も、一次予選で敗れると、ショックからか仰向けになって各国選手が通る通路で寝ころび、電光掲示板を見ている姿は、目を覆いたくなる醜態だった。
 日本人としての誇りと公の意識を喪失し単なる個人と化した日本の若者たちの無残な姿である。大東亜戦争に敗れて、茫然自失、戦った名誉も誇りも忘れ果て、金儲けと利己主義に狂奔し、今、また不況に脅える「戦後日本」の行きついた姿そのものではないのか。私は映画の中で、教誨師の台詞で「日本が、消えた・・・」という台詞を終わりに使った。北京オリンピックは、まさに解体消滅せんとする日本の黄昏を私たち国民に示したような気がする。
 ひとつだけ、希望が持てる事実を書いておこう。女性選手陣と金メダルを獲得した北島康介と柔道百キロ超級の石井慧である。彼らは異口同音に、オリンピック競技をスポーツだとは考えず、「戦争」であり「戦い」だと答えていた。きれいごとの建前に逃れることなく、現実を真正面から引き受ける立派な日本人の若者も見られたことにわずかな救いがあった。
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読んだ人誰もが 「オイ、そこのデブ!調子にのんな!」 と突っ込みを入れたくなる秀逸な文章だと思います。
一応、水島監督は高校生の時に柔道に打ち込んでいたそうです。

 
チャンネル桜の番組内でも同様の発言をしております。

今のCh桜の状況を考えると、天に唾するというか、その唾に巨大な毒蛾が引っ掛かって落ちてきた感じですね。
 
 

*1: 『正論』平成20年月10号 P308〜310