水島監督、秋葉原連続殺傷事件について考える

Jodorowsky2008-08-05

 
月刊『正論』で人気沸騰中のブル聯隊長水島監督の連載。「 映画『南京の真実』製作日誌 "情報戦"の最前線から 」
第11回においては、6月に起きた秋葉原連続殺傷事件について「易姓革命」を連呼しながら解説しております。
「時間的空間的に孤立したコスモポリタン的自我の持ち主は、いつでも、無差別殺人犯や「南京大虐殺」を主張する人々になり得る」そうです。
そのうち南京事件を肯定するのも法律で規制される時代がくるのかも知れません(適当)。ま、とりあえず抜粋しておきます。*1
 
面白いんだけど長いくて恐ろしく無内容なんで...

映画「南京の真実」製作日誌
"情報戦"の最前線から(第11回)
 
六月二十日(金)「南京」月報
「大虐殺と秋葉原七人の殺人犯」
 先日、東京・秋葉原の十七人殺傷事件(七人死亡)が起きたとき、頭に浮かんだのは「虐殺」という言葉だった。まるで殺すことだけを目的にしているような殺人を見たとき、「虐殺」行為は特定個人への憎しみや怒りなどで行われないことを、改めて納得した。
 南京大虐殺があったと主張する国内の人々は、一体、「虐殺」という行為を人間の精神状態として、どのように考えているのだろうか。多分、軍事と戦争の現実を知らぬまま、戦争という異常事態は人を悪魔か野獣のごとく変貌させるので「大虐殺」はあったはずだと、素朴に考えているだけなのではないか。天変地異の異常事態である四川大地震の死者は、おおよそ七万数千人といわれている。しかし、あれだけ大規模な自然災害でも「殺せた」のは七万人なのである。あの恐るべき合理的殺戮施設のアウシュビッツさえ、一日の最大殺人数は、千人だった。つまり、三十万人を殺害するには、休みなしに虐殺を繰り返して十ヶ月以上かかる。日本軍の火器やガソリン等の装備を考えるだけでも、三十万人虐殺がいかに非現実的な数字か、今ある現実と比較すればよく理解できるはずである。
 虐殺派の人々は、昭和十二年十二月十三日の南京陥落から、日本軍がまるで七人殺しの犯人のように、次々と南京市民を殺しまくったのだと想像しているのだろう。しかし、戦争になった時、指導層も一般大衆も「愛国的熱情」はあったとしても、ほとんどの人間は精神的に「狂う」事などなかった。さまざまな戦記や記録を見れば分かるように、戦争に対する認識と感情は様々である。しかし、人間としての認識力や信念を持って、ほとんどの人々は敵と「人間同士の殺し合い」(戦争)をしたのだ。
 古今より、戦争が国際紛争の最も合理的な解決方法であったことは、事の善悪とは関係なく、戦争を考える人間にとっては当たり前の認識である。戦争指導者も国民も、様々な思いを抱きながら、懸命に戦争とその時代を生きたのだ。
 それにしても、戦争という「異常事態」になると、人間が三十万の人々を六週間で殺すなどという認識や感情は、人間存在に対するあまりの無知であり、ニヒリズムでもある。つまり、状況によって、人間は悪魔にも野獣にもなるという浅薄な認識は、人間に対する恐ろしい不信表明でもある。確かに中国共産党は、建国以来、七千万人という自国民を死に追いやった。その中には、侵略され、虐殺されたチベット人百二十万人も含まれている。文化大革命でも数百万の人々が虐殺され、毛沢東思想の影響を受けたカンボジアの赤色クメールは三百万人といわれる自国民を虐殺した。そのことを考えるとき、一体、彼らは人間として「狂って」、野獣や悪魔と化したからだと考えるべきなのだろうか。否である。彼らは抹殺すべき「敵」をただ冷徹に抹殺し、虐殺しただけなのである。
 大量虐殺を生み出したのは、彼らが信奉した共産主義イデオロギー(スターリン主義)だったが、同時に、大虐殺があったと主張する人々の考え方、つまり状況(環境)によって人間は悪魔や野獣と化すのだと考える認識(イデオロギー)こそ、悪魔や野獣(動物)と化した相手なら、敵として抹殺しても良いという大量虐殺イデオロギーに通じているのである。南京大虐殺を主張する人々の考え方は、基底の部分で、虐殺を行う人々の考え方と共通しているのだ。実際、彼らには中共北朝鮮へのシンパシーを持つ者や同調者が多い。それは共産主義イデオロギーだけに限らない。ナチスユダヤ人を大量虐殺し、アメリカやネイティブアメリカン(インディアン)を大量虐殺し、原爆や大空襲で日本の非戦闘員を大虐殺したのも、敵であるユダヤ人や日本人を人間以下の野蛮人(動物)のごとく見なす人種差別イデオロギーによっても実行されたのである。つまり他の人種を同じ「人間」と見ずに、「抹殺すべき敵」とだけ見るイデオロギーや意識がない限り、大量虐殺行為は生まれないのである。支那事変における日本軍の敵は、あくまで国民党軍だったのであり、支那民衆ではなかった。日本人は支那人を(軽蔑していたかもしれないが)人間以下の悪魔や動物などと見なす精神的土壌やイデオロギーはなかった。したがって、大量虐殺など起こり得なかったと断言できるのである。そうでなければ、中国の歴史が常にそうであったように、支那全土で「易姓革命」時のごとき大量虐殺事件が起きているはずである。
 あの秋葉原の七人殺しの犯人の「虐殺」行為について、私は一種の「易姓革命」行為なのだと感じた。犯人の風貌や発言に、日本人としてのナショナリティが全く感じられぬ無国籍性を見たのである。彼は日本社会から完全に断絶し、疎外され、孤立した存在として、周りの世界を自分とは異質な敵だと見ていた。しかし、もっと重要なことは、犯人が空間的に日本社会から断絶、孤立していただけでなく、日本の歴史的時間からも、断絶、孤立していたことである。つまり、彼は空間的に日本の戦後社会から孤立し、時間的に日本の過去からも現在、未来からも孤絶していたのだ。つまり犯人は日本人なのに、日本人であることが全く意識できない「人間」だったのである。犯人には、家族や先祖、あるいは故郷などへの郷愁やつながりが全く感じられない。恐るべき完璧な孤独である。
 だから、彼の敵は政治家や経済人ではなかった。刃は日本社会を構成する一般の人々に向けられた。かつて、山口ニ矢氏が社会党委員長浅沼稲次郎氏を殺害した政治テロとは全く異なっているのだ。山口氏の「テロ」は、日本の歴史的な時間的連続性の意識によって行われた行為であり、逮捕後「七生報国」と書いて自決した行為も、その延長である。彼は歴史的時間の中で孤独ではなかったのだ。一方、犯人は逮捕前、警官から銃を向けられ、ナイフを捨てて手を挙げたそうである。犯人が自棄で自殺しようとする気持ちなど全くなかったことを示している。彼はただ反日易姓革命」を欲していたのだ。時間的にも、空間的にも、自分と隔絶した戦後日本社会を「易姓革命」的な衝動で、ひっくり返したかったのだろう。このように、時間的空間的に孤立したコスモポリタン的自我の持ち主は、いつでも、無差別殺人犯や「南京大虐殺」を主張する人々になり得る。つまりは、ほとんどの戦後日本人が、秋葉原七人殺しの犯人になりうつ可能性を秘めているのだ。
 こういう事態を救う方策は果たしてあるのだろうか。ある評論家が「徹底的な対話が必要」(産経新聞)などとコメントしていたが、見当外れもはなはだしい。今、必要なのは、現代日本人を空間的、時間的な孤独に追い込まず、我が国の歴史的連続性の中に救い出してやることである。日本人としての国柄や自覚や地域社会や家族との共同体意識、先祖と子孫との時間的連続性を意識させるよう、教育をはじめとするあらゆる分野での取り組みが必要なのである。特に強調したいのは、社会的孤立よりも、歴史的時間からの断絶と孤立こそが、仇敵皆殺しの「易姓革命」(大虐殺イデオロギー)を生み出す温床なのである。
 私達の日本は、アメリカや中共のように、自由・平等・博愛などの近代主義的理念(イデオロギー)で建国された実験国家ではない。二千六百年以上の歴史を誇る世界最古の自然国家である。この道に、粛々と立ち帰ることだけが、私達日本人を救う唯一の道だと考える。
 さてサミットが開始される。北海道に集まる各国の首脳と福田首相に、拉致被害者の奪還を訴えるため、洞爺湖付近の上空に一万個以上の「青い風船」を浮かべようと計画している。賛同してくれる方は参加していただきたい。
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テレビで「処刑宣告」する歴史修正主義者のほうが、「易姓革命」という言葉が相応しい気もしますが...
 
 

*1: 『正論』平成20年月8号 P318〜320