野中広務さんといえば...

Jodorowsky2008-09-03

 
福田さんが燃え尽きてしまったようで*1、俄然麻生太郎さんが次期総理になる可能性が高まってきました。
個人的に麻生さんというと常軌を逸した部落差別発言問題の真相が気になってしかたがないわけですが...
そういえば10日くらい前のTBS「時事放談」に、野中広務さんと亀井静香さん*2が出演されたのを二日酔いに苦しみながら観ていたところ、野中さんが「麻生は実力阻止」的なことを言っていてオオッと思いました。
改めて調べてみると、こちらのブログにその発言が取り上げられてました。以下抜粋。
 
「麻生さんではダメです。もしそのようなことがあったら、私自身のことに関してでも、国民の皆さんに明らかにするつもりです」
 
まさに、例の問題に関してガチンコを仕掛けると宣言してるようにも受け取れます。これは要注目ですね。
 
野中広務さんの持つ複雑な側面に関しては、魚住昭著『野中広務 差別と権力』に詳しいですが。その中でも軽く触れられてる終戦時の印象的な出来事について、ご自身が文藝春秋に寄せている文章を以下に引用してみます。
 
文藝春秋』2005年9月号
「運命の八月十五日」 P276

切腹を止めさせた大西少尉  野中広務(元衆議院議員・当時19歳)
 
 日本の敗戦を知ったのは、玉音放送から丸二日過ぎてのことだ。だから私の敗戦記念日は八月十七日になる。
 昭和二十年三月に大阪鉄道管理局から応召された私は、敗戦を高知の護土二二七五六部隊の幹部候補生として迎えた。国土防衛の幹部生教育といえば聞こえはいいが、当時は巨大な木材を運搬するなど四国の山中を転々として、民家や学校に分宿していたから通信手段を持たなかった。
 十七日、トラックで小隊全員の食料を連隊本部に取りにいった帰りのことだ。一ヵ月間ほどお世話になっていた高知県山北村の一軒に立ち寄ると、その家のおばあさんが「兵隊さん、くつろいだですね」と言う。何のことかわからずに問い返すと、天皇陛下が戦争を止めるとおっしゃって、村人がみなラジオの前で涙したんだと教えてくれた。私たちは敗戦の報に半ばやけくそになり、トラックに積んであった砂糖などの食料品をすべてその家に降ろして、小隊へと戻った。今から思えば、上官は知っていたのかもしれないが、なぜか私たちには知らされなかった。
 当時は模範的な軍国青年だったから、戦争に負けたのは、それは大変ショックだった。軍隊に取られた時は、これで天皇陛下の御楯となれる、男児の本懐だと素直に思ったし、満州から引き揚げてきた古参兵の醜いしごきにも耐えてきた。だから、突然の敗戦に我を失っていたのだと思う。そのうちに誰からともなく、米軍が高知に上陸すれば、殺されるか、捕虜となって辱めを受けるのか、どちらかだ。そんなことなら、自ら腹を切った命を絶とうという声が澎湃と上がった。今では考えられないが、それが仲間たちと五人ほどで桂浜に集まり、本当に切腹して果てようということになってしまった。
 午後二時か三時ごろだったと思う。車座になって、さあ、これから、という時だ。上官の大西清美少尉が馬に乗って駆けつけ、私の顔をバシーッと殴り、腰を蹴り上げた。他の四人の顔も次々と殴りつけた上で、私たちを地べたに座らせた。
「お前たち、何を考えているんだ!こんなところで自分の腹を掻き割って死ぬ勇気があるのなら、東京へ行ってこの戦争を始めた東條英樹をブッ殺して来い。それでなお命残ったら、この国の再建のために力を尽くせ」
 少尉はこう怒鳴りつけた。このひと言で、ハッと目が覚めた。もしあの時に、大西少尉が来てくれなければ、私はもうこの世にいなかったかもしれない。
 大西少尉には強烈な思い出がある。私たちが入隊したばかりの頃、幹部候補生が集められ、「お前たちのなかで、『戦陣訓』を持っているものは、俺の目の前に出せ」と命じられた。私たちはてっきり褒めてもらえるものと思って、競って戦陣訓を積み上げた。すると大西少尉は、「軍人には天皇陛下から賜った『軍人勅論』があるのに、東條英樹ごときが、それを上回る『戦陣訓』などというものを作って、わが国の行方を誤らせた。そんなものを持つことはまかりならん」
 と、上からガソリンを振りかけ、すべて燃やしてしまったのだ。私たちは、ひと言も声がなかった。少尉は現実的な人だったから、当時の日本の上層部のご都合主義を痛感していたのかもしれない。
 私が大阪鉄道管理局に復員したのは、八月二十日のことだ。京都駅に降り立つと、駅前に浮浪者の群れが一面に野宿していた。後から知ったのだが、「一緒に東條を殺しにいこう」という仲間の檄文が、生家に電報で届いていたそうだ。父親がひた隠しにしていたのを、私は近年までまったく知らなかった。仲間を裏切ったのではないかと、いまも心苦しく思う。
 戦後、大西少尉にひとことお礼が言いたかったが、そのまま消息は不明になってしまった。福岡の出身であると聞いた記憶があり、地元の代議士にも探してもらった行方は杳としてしれない。それが昨年、あるテレビ番組で大西少尉の話をしたところ、愛媛県に住む甥御さんが連絡をくれた。高知の隣県の出身だったのである。少尉はすでに亡くなっておられたが、服を切ろうとした若者たちを叱りつけた逸話を家族に語ったことがあったそうだ。五月八日、私は四国中央市の大西少尉の実家を訪ねて、ご仏前と墓前で手を合わせて語りかけた。
「今日まで六十年、あなたのお蔭で生かさせていただきました」
 戦後六十年の重い荷物を、ようやく一つ下ろしたような気がした。

 
 
追記(20080919)
こんなブログを発見しました。
麻生ネガキャンのウソを暴く「麻生ネガキャン検証その1 いわゆる「部落」ネタ」
この中で、コメント欄でも取り上げた藤本純一さんが、『週刊文春 2008年3月27日号』に今回と同様の「曲解」説を記事にされていたことが説明されております。以下抜粋。

 事の発端はこの一週間前、河野グループの例会で麻生が行った講演だった。この中に有力幹部を誹謗中傷する内容が含まれてたというのである。しかし、実際の講演内容は石炭六法の旧産炭地行政の歴史と現状に触れただけで、幹部を誹謗中傷した箇所はどこにもなかった。
 有力幹部はある通信社の宏池会担当記者からこのときの発言メモを入手していた。ところがこのメモは、麻生との後継者争いに敗れて河野グループを離脱したベテラン議員が、麻生憎しででっち上げたものだったことが、後に明らかになっている。

有力幹部は野中さんとして、でっち上げたベテラン議員とは、野中さんが確認したとされる三人のうちの一人でしょうか?後継者争いですから河野洋平さんということは有り得ないと思いますが...とりあえずこの文春記事は要チェキってことで宿題ですね。ただもしこれが事実だとするなら、「麻生憎しででっち上げ」た議員は正体を晒され。その責任を問われて然るべきだと思いますが。どうなんでしょ?
因みに上杉隆さんの藤本順一さん評

麻生氏にもっとも肉薄しているジャーナリストですね。
なにしろ……。秘(*^・ェ・)ノ

最後の一行は意味深ですねw
 

*1:最初から火がついてたか疑問ですが

*2:自公連立の立役者の二人ですね