上羽日記


南京陥落後一週間企画
収録 『南京事件 京都師団関係資料集』 井口和起・木坂順一郎・下里正樹 青木書店


上羽武一郎・・・第十六師団歩兵第十六師団衛生隊


日記 P29〜31  ※誤字修正

十二月十三日 日本晴
飛行キの活躍ばかり。
小銃の音はたと止み、銃砲のみ南京城内のつるべ打ち。
中山陵園患者収容。
午前十一時南京入場したそうな。


十二月十四日
飛行キ残敵掃とう。
患者第二病院、南京中国病院へ運ぶ。
城へき、中山門の砲の弾こん物すごし。門は土のうをつんで入口を閉してあったらしい。
十二月十三日 午前三時十分
大野部隊*1占領、意気高し。午前二時半、工兵今中隊爆やくでとつげき路を開き、三時十分吾福知山二○の大野隊が一番に占領したと太々と記してあるを見た時、ほんとにうれしかった。
無錫
大江貞美君が戦死したそうな。実におしい人をなくした。
夕七時我々一車輌病院へ行く途中敵しうに合ひ生きた気持ちせず、どんどんぱちぱち。歩兵がトラック、ダットサンに分乗、早速かけつけて何なくげきたいする。話しに依れば、三百人程の兵を武装解除して倉庫に入れ、十人ずつ出して殺して居る時、此を見た中のやつがあばれ出し、七、八人で守って居た我兵の内三八の銃*2をもぎとられ交戦し、其れがにげて来たらしい。彼等は武装解除して使役にでも使はれると思ったらしい。


十二月十五日 南京滞在
中山陵出発、病院横に宿る。
各部隊の入城*3花々しい。タンク、砲車、海軍の陸戦隊、そうこう車等市内を大行進。さすが首都だけの名にはじず道路はアスハルト、街路樹等、烏丸*4等より以上だ。
家屋も大きな建物が一ぱいだ。中にも戸をしめた各種の銀行等、平井、吉岡に市内残てきそうとうのかへりに出会ふ。


十二月十五日
話に依れば、城内北方に敵武装解除したる兵一万五千人居て、此れを機関銃で囲んでゐるそうな。又紫金山のトーチカ内に一ヶ師団程居て、此れも囲んで守って居るそうな。ちょう発に行く。面白い、何もかも引ぱり出してさがして行く。


十二月十六日 八時起床
病院横を出発、二粁ある。
市内に宿る。しばらく滞在するそうな。今度はほんとにがいせんじゅん備になるらしい。


十二月十七日
朝より風呂を沸してせんだくするやら、残して行ったちくおんキをならすやら。本日手紙貰ふ。京都宿舎、婦人会長宇野きみ枝。なけばつばさもままならぬ*5


十二月十八日 初雪、五日
夜明前そこ冷えする。
起きて見ると、屋根の上に白く雪が積って居る。なんと南京でもこんな事があるものかと驚ゐた。初雪々なり。ちょう発に出る。面白し。洋服を着るやら、トランクさげるやら、種々様々な服装でもはやがいせん気分一ぱいだ。


十二月十九日
勿たいない話ではあるが、朝八時迄寝とると、ねむたくない。
食事すまして今日もちょう発かな。


解説 P503

 日記者の上羽武一郎は一九一五年七月十八日生れ。京都府警察官教習所卒。京都府竹野郡丹後町在住。農業。
 一九三七年(昭和十二)八月二十五日、第十六師団衛生隊入隊、奥野(中隊)、森(小隊)、第二分隊所属衛生兵として塘沽上陸、以後、子牙河沿岸戦、南京攻略戦、黄河以北残敵戦参加、徐州戦、漢口攻略戦、安陸攻略戦に参加、
 上羽陣中日記は、縦一ニ八ミリ・横七五ミリの市販小型手帳に戦地において記されたもので、一日数行の簡潔な記述に終始している。

*1:歩兵第二十聯隊のこと。聯隊長は大野宣明大佐。

*2:三八歩兵銃のこと。

*3:第十六師団独自でおこなった南京入場式。

*4:烏丸通のこと。JR京都駅から北大路通まで京都市の中心部を南北に貫いている幹線道路で、両側に歩道があり、片側ニないし三車線の大通りである。

*5:「泣けば翼もままならぬ」。流行歌「涙の渡り鳥」(西条八十作詩、佐々木俊一作曲)の一番の歌詞の最後の部分。