北山日記


南京陥落後一週間企画
収録 『南京事件 京都師団関係資料集』 井口和起・木坂順一郎・下里正樹 青木書店


北山与・・・第十六師団歩兵第二十聯隊第三機関銃中隊


日記 P70〜73  ※誤字修正

十二月十三日
昨夜、夜通し砲撃の音がしてゐる。朝方から砲銃声の音が絶へる。さてはと想ってゐると前進命令。
"中山門ニ向ッテ前進スベシ"さあ入城だ。直に整列、出発。前進して政治学校までくるとこゝで大休止だとの話しである。
円ピ、十字鍬*1、巻脚絆、弾薬、防毒面、靴、雑嚢、毛布、随分ほってある。西山を一廻りして下りて来ると、壕内に敗残兵がいたと大勢の人達が集ってヤイヤイ云ってゐる。
紅顔の美少年である。シャツは抗日救国聯合会*2の署名入のものを着てゐる。祖国中華民国を守れと随分苦労したらう。余り皆んなが惨酷な殺し方をし様とするので見るに忍びず僕が銃殺し様とするが、皆が承知しない。
戦友が無残な死に方をしたので唯の殺し方では虫で納まらぬのだと云ってゐる。無理からぬこと。
だが余りに感情的ではないだらうか。日本軍は正義の軍であり、同時に文化の軍でなければならない。同じ人を殺すにしてなるだけ苦しめずに一思いにバサリ殺ってやるのが、日本の武士道ではないだらうか。
少しの抵抗もせず、こヽを撃って殺して呉れと喉を示して哀願するのを、寄ってたかって虐殺するのは、日本兵の恥である。
大隊長代理森尾大尉*3の労苦を謝すの簡単な挨拶の後、附近の民家に宿営。中隊は観音堂に入る。
観音様も兵隊様の御詣りには閉口だらう。
遂々一番乗りは第一大隊らしい。


十二月十四日
今日は入城だらう。三時頃から起きてワイワイ騒いで準備する。
何時迄経っても命令が来ない。
昼食後、山本、田辺と一緒に城内へ入って見る。
中山門相当に砲撃が加へてある。鉄の扉に記された"十二月十三日午前三時四十分大野部隊*4占領"の文字。手を握って喜合ふ。
未だ城内は残敵掃蕩の最中らしい。
徴発は一切厳禁。仕方なく引き返す。
新聞社通信社の自動車が幾十台となく城内へ入る。空軍も掃蕩に協力。市の上空を旋回してゐる。午後二時戦銃隊は紫金山の残敵掃蕩に行く。
午後十二時過ぎ相当から皈る。八百名程武装解除したらしい。皆んな一人残らず殺すらしい。敵兵もよもや殺されるなぞと想ってゐまい。学生が主力らしく大学生なぞ沢山居たと云ふ。生かして置けば随分世界文化の発展に貢献する人も有るだらうが惜しいものだ。尊い生命が何の(チュウチョ)もなく失はれて行く。戦争の酷烈な姿をつくづく感じる。


十二月十五日
愈々南京入場である。前線も銃後もいかに今日の日を待った事か。今日のため、今日のよろこびのため皆んなすべてを犠牲にし、いかなる苦しみも堪え忍んで来たのだ。
さあ皆んな出す出す。勝利の時振って喜べと背嚢の国旗が小銃の先頭に、馬の背中に、車輌にハタハタと飜ってゐる。軍装も完全。午後二時三十分、道路上に整列。軍司令官閣下を迎へ、閣下を先頭に入城。入城近く大津新聞の記者が来る。余り苦しそうなので背負袋を車輌に積んでやる。大変よろこんでバットを拾個くれる。重宝な煙草である。皆んなに分配してやる。三時堂々入城。新聞社のカメラマンが活躍してゐる。国民政府、参謀本部、中央医院どれもこれも堂々たる建物である。未だ二日前には党や政府の要人達がこの辺りを忙しく右往左往したことだらう。
小憩後宿舎に入る。宿舎は医者の別荘風な上品な構の家である。長い間使役に従事したイ尓等が解放され喜しそうに皈ってゐく。
 はらからの 待つこと久し 今日の日の
  この喜ぞ 響け 銃後に


十二月十六日
戦銃隊は城内敗残兵掃蕩に行く。炊事場、入浴場、廐舎なぞ設備する。国際委員会管理下に避難民区と云ふ特別な地域が定めてある。入って見る。随分収容してゐる。皈る途中北洋飲食店と書いた店屋がある。入って見るとサイダーが山程積んである。一本抜いて見る。甘いなんとも云ひ得ない美食い味だ。早速附近で人力車を一台徴発し、イ尓公に一ぱい載せて曳いて皈る。
外の者も寝台、家具、酒、砂糖、飴、蓄音機なぞ沢山もって皈ってゐる。ストーブをゴンゴンたいて、ビール、サイダーを呑み乍ら十二時近く迄話す。


十二月十七日
小隊の連中が是非教へて来れと云ふので各分隊から二名づゝ連れて朝食後サイダー取りに車輌を曳いて行く。
昨日から早や大分減してゐる。車に二台、二ダース箱を六十近く持って皈る。鉛筆、石鹸、銀製のフォークなぞ徴発してゐる。
午後城内を見て廻る。美しい衣服の家を見付ける。


十二月十八日
今日は中隊の慰霊祭が行はれる。隊長以下七名の位牌が悲しく並ぶ。
ボチボチ雪が降り出す。与謝群養老村*5の従軍僧の読経がある。
一同拳で涙をはらふ。
夕食はゼンザイ、とてもうまい。


十二月十九日
今日は底冷へする寒い日だ。初めて入浴に入る。朝食後避難民区*6へ散髪に行く。皈ってから一日暖爐の口でサイダーを呑み乍ら話し合ふ。片山が一ぱい機嫌で遊に出たきり皈らない。皆んなで探して廻るが居ない。稲生と一緒に米国人の家へ徴発に行くが何もない。


解説 P504〜505

南京攻略における機関銃中隊(MG)の実相を記したもので、牧原日記とあわせて、戦後はじめて南京事件関連で世に出たMG部隊員の陣中日記である。
北山与氏は一九○九年四月二十日生れ、京都府福知山市在住。尋常小学校卒。以前に一年八ヶ月にわたる現役兵体験がある。一九三七年八月、二十聯隊に応召、同日第三機関銃中隊に編入されて以後の戦歴は日記冒頭にみられるとおりである。*7


北山氏はいずれも縦ニ○○ミリ・横一五○ミリの大学ノート全九冊に記されたもので、戦地で書かれた原本を除隊後に生h蘇したもの二冊がその中に含まれている。本書に収録されたのは、そのうちの一部である。

*1:「円ピ」は円匙で、土を掘るスコップのこと。歩兵の携帯した柄の部分の短い小型のものを小円匙といい、大型で柄の長いものを円匙といった。「十字鍬」は「じゅうじしゅう」と呼び、固い土地や岩石を打ち砕き塹壕などを掘るのに使用する「とび口」形の器具。

*2:満州事変と第一次上海事変の勃発によって日本の中国に対する武力侵略が本格化しはじめた時、上海ではストライキ、日貨排斥がおこなわれるなかで、抗日救国会が組織されて国民政府に武力抗戦を要求した。この運動は国民政府の抑圧にもかかわらず全国に波及・発展し、一九三五年十二月の北京学生の一ニ・九運動以降知識人を中心に一団と高揚し、三六年五月には上海で文化救国会・婦女救国会など六十余の救国団体の代表が参加して全国各界救国連合会が結成された。

*3:歩兵第二十聯隊第三大隊長青木国男少佐の戦死によりその代理となった第九中隊長長森王琢大尉の誤記だと思われる。

*4:聯隊長大野宣明大佐の率いる歩兵第二十聯隊(福知山)のこと。

*5:京都府与謝野群養老村。里波見・中波見・長江・岩ヶ鼻・外垣・大島・田原の八か村を合併して成立した。旧村名は大字として継承。一九五四(昭和二十九)年の町村合併で宮津市編入。養老村は解消し大字は宮津市の大字に継承。

*6:日本軍の南京占領時、四○人ばかりの外国人がここにとどまっていたが、このうち一五名の居留民が国際委員会をつくり、市民を保護・救済しようとして設けたのが、南京安全区すなわち難民区(避難民区)で、城内の西北部寄りに設けられたほぼニマイル平方の地区であった。

*7:引用書籍内P41〜42