飯沼日記

南京陥落後一週間企画
収録 『南京戦史資料集』 南京戦史編集委員会 偕行社


飯沼守 陸軍少将・上海派遣軍参謀長


日記 P213〜220  ※カタカナ→ひらがな。軍隊符号の読み方→参照

十二月十三日 快晴
 敵の大部は退却し16Dは中山門を入り9Dは光華門より戦果拡張中。敗残兵一中隊許り33iと佐々木支援の中間を東方に退却せりと。
 天谷支隊の先頭部隊は本朝上陸に成功せり。13Dも海軍の協力に依り明日より渡江し得る旨芳村参謀より電報ありしを以て南京に向へる支隊を除き鎮江にて明日より渡江を命せらる。
 午前一一・○○頃出発軍司令官に従ひ高橋門9D長の許に到る。午後一・○○同地発帰部、其直後高橋門西方千メートル許の我砲兵陣地敵に爆撃されたりと。往路敵の敗残兵本道北側高地方面に来りしか此者午後軍司令部北側高地に来り護衛隊之を西方に撃退、小隊長(准尉)一戦死、兵一名負傷、午後五・○○頃再ひ北側高地に現はれ高射砲も射撃して交戦す。敗残兵の他の一団は、東方より13Dの砲台占領部隊、北方より佐々木部隊、南方より騎兵及33iの各一部より包囲され彼我混入して乱闘中なりと。
 集成騎兵は本日午前一・○○頃敵の敗残兵約三千と衝突天明頃迄に撃退、我死傷七○、馬の損害二○四、敵の遺棄死体は七百を下らす鹵獲獲品多数との報あり。
 軍司令部護衛の為9Dに歩一大を要求したるところ19i全部山砲一大隊を派遣すとのことにて夕刻過一部到着せる筈。
 孟塘の照空隊全滅したるが如きも詳細不明(電話にて襲撃されたるを報告し終に天皇陛下万歳と言ひ電話を切りたりと伝ふ)。
  <欄外>歩一分隊を午後増加せり。
 司令部北側高地に於ける二回の戦闘にて戦死一(准尉)<欄外注・誤り戦死二十名許>負傷十四。
 南京攻略後各兵団に南京及其附近に集結すへき命令を下さる。
 列車は機関車一、3、4等客車各二、有蓋貨車七、無蓋十三にて大型不時着飛行機一工兵学校附近に在りと。


十二月十四日 快晴
 照空隊全滅の報を果して虚報、若干の死傷ありたるに過きす。但昨日の司令部附近の戦闘に於ける我死傷は戦死准尉二其他十名許 負傷中隊長一少尉二其他二十名弱なり。
 本朝尚其残敵五百司令部東方側に在るを知り19i主力を以て全く包囲投降せしめつつあり。
 13Dの山田支隊は途中約千の敗残兵を掃蕩し四・三○烏竜山砲台占領、高射砲及重砲十余門を鹵獲せり。
 支那船五を爆沈せりと思惟せし内四隻は米国砲艦なりしとて艦隊長官我司令官に抗議を申込れたりと 尚英船一も砲撃に依り撃沈されたりと言ふ。
 戦車大隊麒麟門附近通過の時敵五百許り南下するに会し通信兵等を指揮し掃蕩せり。又南京東方地区より約一千宛の捕虜二群下関方向に移しあるを飛行機にて視たりと。
 下関に於て独工一は機関車三、客車六、貨車三十八を鹵獲す 完全なり。
 三・○○頃佐々木支隊の一中隊は南京東北方に於て約二万を捕虜とせりと。又別に四列側面縦隊にて長径八キロメートルに亘る捕虜を南京城北側に向ひ護送しあるを飛行機にて視認せりとの報告あり。
 方面軍参謀長より電話にて十七日入城式を為す考にて掃蕩せられたき希望ありしも当軍としては殿下の御意図に依り無理をせさる如く掃蕩中にて現況にては十七日は不可能なる旨返答せり。
 天谷支隊は午後二・○○揚州南門占領、数百の敵は東、北、西の各方面に退却中。山田旅団は午前一一・○○幕府山砲台を占領せり。
 19i軍司令部附近の掃蕩を終り(百数十名を掃滅す)明十五日一大隊と戦車一中隊を残し帰還せしめらる。
 人見大佐掃蕩を終り帰るに方り拝謁、賜物あり。


十二月十五日 霧深し 快晴
 方面軍参謀長来部の話し
  概ね杭州、蕪湖、揚子江右岸地区の安定確保
  一部の兵力を大本営の使用に供し得ること
  航空隊を以てする要地の爆撃
  101Dを以て上海警備(方面軍直轄)
  南翔(含む)以西を派遣軍
 以上の件及方面軍か入場式を十七日と主張しあり 軍としては早くも十八日を希望の旨申上く。
 殿下は入場式に就ては無理をせぬこと、外国人に対し入城式の日時を知らせさること、防空を十分にすへきことを注意せらる。
 野戦建築部長木崎主計大佐来部今回方面軍直轄となる。
 山田支隊の俘虜東部上元門附近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へす16Dに接収せしむ。
 四・○○頃松井方面軍司令官湯水鎮着、殿下に代り報告に行く。此時入城式は十七日に決定された旨聞く。
 13Dの状況、本日二・○○頃先頭の58i主力は揚州西方を前進中、第二梯団は揚州に入らんとするところ、第三梯団は渡江を終り前進中、師団司令部は明日渡江、(電話本日開通)
 六合占領部隊58iの一大 山砲一中基幹は明日小発二十にて出発明日午後六・三○「クリーク」入口に到着「クリーク」を六合に向ふ予定。山田旅団(三大基幹)は十九日南京にて渡江。
 長参謀16Dと連絡した結果同師団にては掃蕩の関係上入城式は二十日以後にせられたき申出ありと重ねて方面軍に事情を説明せしむ。(3D、兵キ、軍イ、獣イ部長天王寺附近にて約五百の敗残兵に襲はれ安否不明とか。草場少将紫金山に登りたる時「トチカ」内より残敵出て来りたるとかの事例あり)。尚一○・三○過方面軍参謀長を訪ひ話したるも頑として変更の意志なし。


十二月十六日
 原田少将来り南京ノ特務機関兼宣撫の為佐方少佐を置くと。
 午後一・○○出発入城式場を一通り巡視三・三○頃帰る。多少懸念もあり、長中佐の帰来報告に依るも16D参謀長は責任を持ち得すとまて言ひ居る由なるも既に命令せられ再三上申するも聴かれす、且断乎として参加を拒絶する程とも考へられさるを以て結局要心しつつ御伴することに決す。
夜複殿下に召され今迄の死傷数の調査を命せられたる以外は所謂雑談に時を過す、毎度光栄に感するのみならす常に多くの教訓を受く。
 北島参謀揚州飛行場に着陸天谷支隊及13Dと連絡す何れも無難に順調に進捗しあり。揚州飛行場は城の西北側に在り九○○と七○○メートル平坦。長中佐夜再ひ来り16Dは掃蕩に困惑しあり、3Dをも掃蕩に使用し名金附近を徹底的にやる必要ありと建言す。


十二月十七日 快晴、夜風強し
 松田海軍参謀の報告、十一戦隊(近藤少将)は十三日某大部を以て南京下流に到着、敵の筏に依て退却する者約一万を撃滅す、南京下流の閉塞は幅約三五○メートルの水路空きあり又機雷なし。靖江下流の視発所は陸海軍協同して占領一昨日掃海終れり。運送船は既に昨日鎮江に来れり、南京も荷役桟橋破壊されあるも二十日頃迄には修繕して使用し得るに至るへし。
 本日の入城式には附近飛行場を爆撃したる後六、七十機にて空中守備状態に入りたる場合の軍命令を下さる。
 午後一・三○より入城式、特に暖き快晴実に麗らかに終了す。代表部隊の堵列閲兵、国民政府に於ける国旗掲揚式、遥拝式、万歳三唱、御賜の御酒にて乾盃、海軍司令長官の発声にて万歳三唱。午後三・三○頃帰る、先つ第一日の無事に済みたるを喜ふ。
芳村参謀より天谷支隊及13D主力の渡江に関する件の報告を受く。
 南京の獲物は相当にあるらしきも未だ調査十分ならす「ガソリン」ドラム缶五○○を見つけたとのことを本日聞く。
 夕食には殿下の台臨を仰き祝盃を挙く、其最後に殿下の御思召し依り戦没将士の英霊に黙祷を捧く。
堵列部隊か或は戦死者の位牌を奉し或は遺骨を胸に下けたること、国民政府の旗竿に大日章旗を掲揚したること、夕食の際「此処は御国を何千里」の軍歌を聞きたるとき自然に涙の落つるを禁する能はさりき。
 今日迄判明せるところに依れば南京附近に在りし敵は約二○コ師一○万人にして派遣軍各師団の撃滅したる数は約五万、海軍及第十軍の撃滅したる数約三万、約二万は散乱したるもの如きも今後尚撃滅数増加の見込。鹵獲品は相当多数の見込なるも未た調査完了せす。
 本夜方面軍にて行ふ参謀長会議の件承知す。其主旨は兼て幕僚間にて聞きたるところに依れは宣伝謀略乃至宣撫工作に関する件にて統帥に触るる如きことは師団長参謀をも同時に集むる会議にては行はすとのことなりしも通牒には明かに「今後の作戦に関し」とあり、又明日の慰霊祭直前方面軍司令官より軍司令官及師団長に訓示ありと。之れに対する態度は明朝殿下に申上けたる後決定すへし。
 夕刻祝宴の際に於ける殿下の御発意に依り上海派遣軍の軍歌を広く将兵より募集することとす。
 本日午後殿下より10Aにては国崎支隊其他に感状を授与したる由当軍にても早くせよとのことに当軍は従来慎重を期しある関係上後れある旨申上く。
 殿下は又13D長を入場式に呼はなかったのは私か悪かった序ての節断て置けとか、松井大将の手柄を横取する様て悪いとか申さる。


十二月十八日
 午前二・○○より首都飯店にて参謀長会同。
 殿下より方面軍参謀長に伝へよとのこと、師団長と共に訓示を与へらる、こと其内容如何に依りては軍司令官の顔立たす。(伝ふ)司令官より老婆心として談話。
 今後更に奥地に敵を窮迫すへきか否やは大本営の指示に依るものにて不明なるも我個人の考にては現在の命令範囲にては不十分。江北、浙江省方面にも軍の地歩を広く獲得するは支那人に新らしき決心を催する必要なりと考へあり故に意見を具申し度思ひあり 故に一時後方に移駐する師団も更に前進する機会あるを考へあるを要す。要は武威に懼服せしむると共に皇軍に心服親和せしめ日支一体の必要を感せしむる以外出征の目的達成の途なし。之か為二、三注意を倍莅し度い。軍紀風紀の粛正。支那人に対する軽侮の念多し之か禍を為し今日の事変を生起したるとも言ひ得、且軍人は満州の又は北支の支那人に対したる観念を以て此地方の漢民族を同一視するは免れさるところなり、漢民族殊に南方の支那人を個人的に観るときは気力、経済力共に侮るへからさる実質を有す。国民性の欠陥は統制と団結力なかりしに在り、故に之を加うれは恐るへき力を成す。而して現今之か実を結ひつつあり、軽侮するは誤りなるを銘心せよ。
 国際関係に対する自分の信念としては支那人には和く親切に英米其他諸外国に対しては正しく言ふに在り、外国人に対し日本か恐れすと認めしむるか支那人を反省せしむる途なりと考へあり、但し徒に感情的に諸外国に不快の観念を与ふるは不可なり。英米政府は極東に於ける日本の勢力を認識しあり。従て彼等は日本と協調的方針を採るへしと見透しあるも彼等の国民に対する政策上其通り実行し得さる点あり。殊に英国政府然り。
 大国の襟度を以て裕々迫らさる態度にて接するを可とす。
 以上将校には伝へられたし。
 次に塚田参謀長より書類の朗読的説明、原田少将より治安及宣撫工作に就て若干の説明ありたり。
 午後二・○○稍々前軍司令官に対し方面軍司令官より訓示あり列席各師団長、軍参謀長陪席。
 二・○○より慰霊祭、場面あまりに広くして感深きを得す、軍にて行ふ時は考慮を要す。
 方面軍司令官の訓示は近く行はるる軍の師団長会同の際軍司令官訓示と共に頒つこととす。又参謀長会同の席にて師団参謀長に方面軍にて示されたることは何れ軍より指示あるへきに依り夫れに依り実施すへき旨方面軍参謀長の前にて明示す。
 本日式後光華門の戦跡御巡視の筈なりしも寒風激しく迷惑すへしとて中止せらる。
 13Dは正午頃?県に近く迫りつあり(水口鎮にて約四○○の敵を撃破して其西方に進出)。
 

十二月十九日 今日は再ひ暖き快晴となる。
 13Dの十二扜に於て押収せる塩は四十二万五千俵(二十二貫入)なり。
 午後「てなか弾」「なすか弾」の実射を見る有効なり。鎮江にては「てなか弾」を敵掩蔽部に投入三名焼死せしむ。光華門にては十三日朝敵の拠れる城内煉瓦家屋を一発にて消却せり。
 二・○○より砲兵学校の野戦予備病院(患者七百名弱)を殿下見舞はせらる、帰途湯水鎮の分院を見舞はる。
 憲兵の報告に依れは十八日中山陵奥の建物に放火し今尚燃へつつあり。又避難民区に将校の率ゆる部隊侵入強姦せりと言ふ。(真偽確かならさるも)其他之に類すること及英、米大使館又は領事館の「トラツク」を押収し或はせんとしたる者ありて注意事項は実行せられあらす。本夜副長より参謀長に電話にて注意を与ふ。
 13Dは?県攻撃の為展開中なるものの如く昨日の位置と大差なし。南京城内には我国の15H四門あり之か為に22Aは二門破壊され彼の一門を破壊せりと。
 迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す。