松井日記


南京陥落後一週間企画
収録 『南京戦史資料集』 南京戦史編集委員会 偕行社


松井石根 陸軍大将・中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官


日記 P17〜19  ※カタカナ→ひらがな。(欄外)は日記上欄外に書かれた記述。

十二月十一日、十二日、十三日 晴
 軍は右より第十六、第九、第百十四、第六師団を以て今朝より南京城の攻撃を開始す。城兵の抵抗相当強靭にして、我砲兵の推進未及の為め、此攻撃に二、三日を要する見込なりしか、第九師団は既に敵を追撃して光華門を占領す、屡々敵の逆襲に遭ひつ、同門の占領を保持す。
 国崎支隊は烏江附近に上陸し、浦口に向ひ、南京の退路を遮断する如く行動しつつあり。
  十三日、南京城占領(欄外)
 十三日朝、第百十四、第六の両師団は中華門及水西門を占領入場し、同日夕迄に第十六師団は太平門、共和門を占領。第三師団の一部は通済門を占領し、此に全く南京城を攻略す。
  英艦船損害事件(欄外)
 去る五日、我航空隊は蕪湖附近に於ける敗敵を爆撃中同地にありし英国船に損害を与へたる事件あり、又十日朝橋本大佐の率ゆる重砲兵隊か江を渡りて退却中なる敵を砲撃する際、附近にありし英国商船及英国砲艦乗員に小損害を与へたる事件あり。是れ慰留民避難保護に任したるものにて、中に英独領事館員、武官等もあり、将来多少の問題を惹起すへきも、此は危険区域に残存する第三国民と其艦船か多少の側杖を蒙るは已むなき事なり。况や我方へ既に此方面に於る戦場の危険を列国に予告し置きたるおや。


十二月十四日、十五日 晴
 十四日予は湯水鎮に前進の筈なりしか、準備未完了の為め、十五日に延期し、午後一・○○発、蘇州飛行場より飛行機にて句容飛行場に飛翔し、夫れより自動車にて午後三・○○湯水鎮軍司令部に安着す。
 南京入城の両軍師団は、城内外の残敵を清掃す。敗残兵の各所に彷徨するもの数万に達すとの事なるも未詳。
 第十一師団天谷支隊は、十四日夕揚州を占領す。(鎮江より十三日渡江)
 又第十三師団の主力は十四日鎮江より渡江、十五日揚州に入り、続て儀徴に向ひ前進中なり。
 国崎支隊は十四日浦口を占領す。
  南京占領御語下賜。(欄外)
 十四日、大元帥陛下より参謀総長を経て、軍将兵南京攻略に関し御語を賜ふ。一同感泣、直に全軍に令達すると共に奉答の辞を電奏す。
 十五日、蘇州自治委員会長陳某を召致し、皇軍の本領及予の大東亜主義精神に付説明し、公明なる自治の発展を希望す。此男一昨年天津にて予の亜細亜運動に付知る処あり、能く予の意を諒す。但し人民尚日本軍を恐怖すると、地方の荒廃の為、急遽なる自治の実行困難なる旨を語る。聞く、近時毎日四五千の避難民帰宅しあるも、尚多くは貧民にして、財あるものは未た帰らすと。


十二月十六日 晴
 蕪湖英艦事件
 去十二日、蕪湖に於ける英国軍艦、商船被害事件に関し、我政府は実相を極めす、英国の抗議に対し直に陳謝の措置を取りたる由、聊か周章気味なれと、既に実行したる上は詮なし、予は事実を調査したる結果、決して責任者を処分なとする必要なき意見を東京に電報しせむ。
 (欄外)
 湯水鎮に在り。此地は蒋介石別荘のありし有名なる温泉場なり、同別荘は焼失して跡なきも倶楽部の建物残存し、一同久振に入湯して気分を能くす。
 南京城内外掃蕩未了。殊に城外、紫金山附近にあるもの相当の数らしく、捕虜の数既に二万を超ゆ。此くて明日予定の入城式は尚時日過早の感なきにしあらさるも、余り入城を遷延するも面白からされは、断然明日入城式を挙行する事に決す。
 第十三師団の一部は、鎮江より幕府山附近を経て南京城外に来着す。
  南京攻略後の軍の態勢に関する命令下達(欄外)
 此日南京攻略後の全軍の態勢并に爾後の作戦準備に関する命令を下す。是れ蓋し直後の配置と整理にして、将来の情勢に応しては、更に浙江省は勿論、江北地方に軍の占領地域を拡大する事、諸般の関係上必要なりと認むるも、曩に伝宣命令により、兎に角長江右岸、杭州、蕪湖、南京以東の地区に集結を命せられあるに依り、不取敢前記の如く処置したる次第なり。今後情勢に応し更に意見を具申し、所要の配置に就く考なり。


十二月十七日 晴朗
  南京入場式(欄外)
 此日南京入場式。
 午後○・三○自動車にて出発、一・二五中山門外に着。両軍司令官以下幕僚の出迎を受け一・三○乗馬にて入城式を施行す。
 中山門より国民政府に至る間両側には両軍代表部隊、各師団長の指揮の下に堵列。予は之を閲兵しつつ馬を進め、両軍司令官以下随行す。未曾有の盛事、感慨無量なり。午後二・○○過き国民政府に着。下関より入城先着せる長谷川海軍長官と会し、祝詞を交換したる後、一同前庭に集合、国旗掲揚式に続て、東方に対し遥拝式を行ひ、予の発声にて大元帥陛下の万歳を三唱す。感慨愈々迫り、遂に第二声を発するを得す。更に勇気を鼓舞して明朗大声に第三声を揚け、一同之に和し、以て歴史的祝典を終了す。
 右終て師団長以上撮影の後、参列各隊長以上一室に会堂し御賜の清酒の杯を挙け、海軍長官の発声にて再び大元帥陛下の万歳を三唱し、本日の式を終る。
  此日第十三師団は六合を占領し、更に滁県に向ひ前進中。十二扞に於て塩三十万俵を押入す。(欄外)
 朝香軍司令官電化最も御健祥に、御機嫌亦極めて麗はしく、殊に予の部下として軍司令官の職に励み玉ふ聖旨の程感激に堪へす。
 終て首都飯店の宿舎に入る。沿道市中未た各戸閉門し、居住民は未た城の西北部避難地区に集合しありて路上支那人極めて稀なるも、幸に市中公私の建物は殆と全く兵火に罹りあらす、旧体を維持しあるは万幸なり。


十二月十八日 曇
  忠霊祭(欄外)
 今暁降雪少許あり、天気陰鬱にして恰も本日の忠霊祭に適する天気にて、天も亦吾等と共に泣けるものと思はる。
  此朝各軍、師団参謀長を会し軍参謀長より詳細なる指示及打合を行はしめ、予は特に一同に対し
 一、軍紀、風紀の振粛
 二、支那人軽侮思想の排除
 三、国際関係の要領に付
 訓示を与へたり。(欄外)
 午後一・○○宿舎を発し、城内飛行場に準備せる忠霊祭に参列し、祭典前参集せる両軍司令官、師団長に対し訓示を与へ、終て祭典に列す。
 予は祭主として陣没霊前に進み、祭文を朗読し、万感胸に迫りたるも、往時の如く声詰り、涕位禁し能はさる如き事なく、何たか一層の勇気と発奮心起り、朗々祭文を読み、忠霊に告くるを得たり、蓋英霊此く予を激励するものか感亦無量なり。
 参列両軍及ひ海軍将兵万を超へ、式は簡単なるも甚荘厳々粛以て聊か英霊を慰むるを得ん。予は此朝大帛に左の二詩を謹書し霊前に餞けたり。曰く

  南京城攻略感(欄外)
 
   奉祝南京攻略
  燦矣旭旗紫淦城
  江南風邪色愈清々
  豼貅百万旌旗粛
  仰見皇威耀八紘
     方面軍司令官 松井石根
 
   又南京入場式有感
  紫金陵在否幽魂
  来去妖氛野色昏
  径会沙場感慨切
  低徊駐馬中山門
            松井大将
 之れにて上陸戦斗以来の一段落を終へ、此夜は早くより安眠す。万感交々到る。
  又此夜軍報導部長を招き、南京攻略後の軍の態度に関する予の所感を述へ、司令官談として発表せしむる事とせり。(欄外)  


十二月十九日 晴
 休息第一日なり。尚今後諸般の対策に関し万感禁せさるも先つ暫時心神を休め、徐ろに爾後の方策を練るを可とす。
 此日午後幕僚数名を従へ、清涼山及北極閣に登り、南京城内外の形勢を看望す。城内数ヶ所に尚兵燹の揚れるを見るは遺憾なれと、左したる大火にはあらす、概して城内は殆と兵火を免れ市民亦安堵の色深し。
 各処より祝電来る。夫々重要の人には返電を出す事とするも一々答ふるに遑あらす。
 近衛首相以下各閣僚の祝電に対し返電を出す。


解説*1

松井 石根(まつい いわね、明治11年1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、ハルピン特務機関長、陸軍大将。正三位勲一等功一級。ポツダム宣言受諾後、南京大虐殺の責任を問われて極東国際軍事裁判東京裁判)にて死刑判決を受け、処刑された。現在は靖国神社に合祀されている。
松井石根大将の陣中日誌のうち第壱巻(上陸作戦一ヶ月間)第弐巻(九月二十三日〜十月三十一日)は戦後失われ、現存するものは、後半の昭和十二年十一月一日(蘇州河の戦闘)から同十三年二月二十八日(凱旋)までである

*1:参考:Wikipedia&南京戦史資料集 P3