斉藤次郎(仮名)


南京陥落後一週間企画


収録 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』・・・第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 小野賢二、藤原彰本多勝一 大月書店


所属:歩兵第65連隊本部通信班小行李・編成
階級:輜重特務兵(1938年1月一等兵に進級)
住所:福島県
職業:農業
入手経路:遺族より
日記の態様:
 縦約11.5センチ×横約7.5センチの「川崎汽船株式会社の社名入り手帳。
 縦書き。欄外にその日の特徴的事項を簡略な見出し風に記しているが、煩雑なため、
 とくに重要な箇所を除いて省略した。またいくつかの語句に傍線がついているが、
 とくに意味はないので、これも省略した。

日記 P36〜39 ※誤字訂正、×は編者による伏字。

十二月十三日 晴
 午前五時起床して朝の礼拝をする、橋頭鎮を出発して南京に向ひ行軍する、今日の行程は十里、途中は山岳地帯で相当に高い山が連なつて居り樹木も松や欅等があり故郷の風光に似て居り懐しい感じがする、トーチカーや塹壕もあり敵が強固に抵抗する準備をする積りだつたらうが我が軍の追撃急だつたので使用せず退却した模様だ、飛行機から通信筒で連絡した、南京の敵は後退しつつあり我が軍の追撃に会ひ混乱の状態との情報だ、夕刻南京東方四里の一寒村に宿営する、夜七時頃大行李二大隊の熊田君他一名が敗残兵一名を捕虜にして来る、捕虜にする際少し負傷して居つた、一将校が軍刀で日本刀の切味を試さんとしたら少しのすきをみて逃げ出したのを自分と××君と二人で追い四、五十間逃げる敵兵を田圃中を追ふ、若松で刃をたてた銃剣を引抜いて満月に近い月光をあびて追跡する様は内地でみる活動写真の映画其のものの感がする、××君より早く追いつき銃剣を以て肩先を力にまかせて一剣あびせかける、手ごたえあり其の場に昏倒してしまふ、ようやく追いついた友軍の人達が集まり先の将校が脳天を真二つに割る、昏倒して居るのを切つたのでくびをはねる積だったのだろうが手元が少し違つたのだろう・・・・・・自分も戦地に来て初めて人に刃を向けてみる、敵兵も年齢廿六七才か、これも妻子を残してやはり我等と同じく生命を賭して国難にあたつて居るかと思へば敵兵をたをした痛快なる反面、一種の悲哀の情が湧いて、めい福せよと頭を下げる・・・・・・其れより夕食をし明朝は四時半出発準備をして五時出発するので朝中食を炊いたりして十二時就寝、今夜は関根平司君と枕を並べる。


十二月十四日 晴
 午前四時起床、朝の礼拝はいつもの通り、五時出発する、初冬朝の五時はまだ暗い、行軍約半里にして手榴弾位の爆音が前方三十間の処で聞える、此の辺は残敵が相当に居るので左側の高い山から敵が投下したか又は道側に仕掛けて居たかして我機関銃隊の戦友五名が重傷した、夜間の行軍は危険だ、途中小銃の音が相当聞える、東も白らんで来た、朝の行軍は晴れ々々する、第一大隊の捕虜にした残敵を見る、其数五六百名はある、前進するに従ひ我が部隊に白旗をかかげて降伏するもの数知れず、午後五時頃まで集結を命ぜられたもの数千名の多数にのぼり大分広い場所を黒山の様に化す、若い者は十二才位より長年者は五十の坂を越したものもあり、服装も種々雑多で此れが兵士かと思はれる、山田旅団内だけの捕虜を合して算すれば一万四千余命が我が軍に降つた、機銃、小銃、拳銃、弾薬も沢山捕獲した、入隊以来本日の様に痛快な感じがした事はない、此辺一帯は幕府山要塞地帯で鉄条網を張り塹壕を掘り南京附近の最後の抵抗線だつたらしい、真紅の太陽が正に西山に沈まんとする頃出発して宿営地に向ふ、吾等小行李一行が十字路を右に折れるのを左に入り十町程も迷って行く、愈く連絡をとり南京市一里半前方の支那海軍の海兵団に到着する、此処が両角本部の宿営地、有我君が一足早かつたので宿舎を見あてて居つた、空いた腹を豚汁に満して就寝する、今夜も南京上空が真赤だ、あちらこちらに火炎が沢山ある、行軍行程は四里程、××の安田亀治、×××、池征二、××の荒牧末吉、×××の青木君等に会ふ、お互い無事を喜ぶ。
[欄外記事]一万四千七百七十七名を捕虜と(十四日)旅団本部調査


十二月十五日 晴
 午前七時起床、朝の礼拝をして武運長久を祈願をする、今日は滞在なのでゆっくり起きる、今日は歩兵は残敵掃討するのに朝九時頃出発して要塞地帯一帯に行く、自分と×××、×××君等三名で馬糧を徴発して来る、午后から馬の治療があるので愛馬泰容の鞍傷を治療する、終つてから青田獣医殿の厚意で砂糖小豆を御馳走になる、今日も残敵五、六百名を捕虜にしたとか、今夜も早く就寝して疲れを医やす。


十二月十六日 晴
 今暁は寒かつたと思つたら真白な霜だ、朝食後××、××君等飯米徴発ながら要塞へ登り砲台を見る、発電機あり探照灯あり砲口八寸位の巨砲や精巧なる高射砲が沢山あり砲弾なども地下室に随分残って居つた、其処に通ずる通路も擬装網で覆ひ我が軍からの発見を防いで居る、午后から休み、実家から東京日日新聞記者托便の葉書が届いた、父と妻と××からの三通、内地は十二月二、三、四日と雪で一寸余も積つたとか、何程か寒い事だらう、南京方面は内地の九月末か十月上旬の気温で霜が降りる位だが家の人達は皆心配して居る、麦蒔きなども内村より二分して××と家に手伝ひに来てくれ稲扱きにも×の義兄、松一君、金一郎君、スヰミ等に手伝ひされたそうだ、斯く銃後の護りが充分なればこそ吾等出征兵士も心をきなく働く事が出来ると思ふ、実家の愛馬も其後変りないそうだ、異郷にあつては何より音信が通じるのが楽しみだが追撃に次ぐ追撃戦なので野戦郵便局の設備も思ふ様でないので十一月十日日に書簡を受けたきりなのでまつたく懐しい、南京落城の報を受けて戦勝気分は何程の事やら、今夜はあちらの部屋こちらの室で戦勝気分で流行歌や俚謡やらで時ならぬ歓楽境が出来る、十時就寝する、演芸会の主催者は××伍長で軍歌露営の歌を合唱する。
 露営の歌
 [以下、歌詞の記載あり--省略]
南京郊外海軍水雷学校々舎にて


十二月十七日 晴
 今日は南京入城式があるので各班は勤務者以外は参列する事にする、小行李では折半して自分と××、武田、岡本の三君が勤務する事にして残の諸君は午前八時出発する、午前中当番を残し馬糧を徴発して来る、我が飛行機十数機が入城式に参加して爆音勇ましく我等の上空を翼を並べて飛んで居る様は勇壮だ、今日は旧の油しめ十五日だとて乗馬の××××君と合して五人が砂糖小豆をしてたべながら「内地に居るとなあ!」と焚火を囲んで雑談に耽ける、我等も近々に揚子江対岸にあがり十余里行軍して守備につくらしい話し向きがある、避難民の有様を見たが実に哀な状態だ、どんな事をしても敗残国になりたくないものと思つた、夕刻補充部隊が百五十名到着した、×の安藤房雄君や橋本佐武郎君に会ひ金吉君の消息なども聴く、残留部隊になつて居るそうだ。


十二月十八日 曇、寒
 午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く、吹いて来る一順(陣?)の風もなまぐさく何んとなく殺気たつて居る、揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する、昨日まで月光コウコウとして居つたのが今夜は曇り、薄明い位、霧の様な雨がチラチラ降つて来た、寒い北風が耳を切る様だ、捕虜銃殺に行つた十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞え悲哀の情がみなぎる、午前三時帰営、就寝、朝はゆつくり起床、朝の礼拝をして朝食用意をして××、岡本、××の三君と南京見学に行く、都市を囲んで居る城壁の構造の広大なるのに一驚する、城壁の高さ約三丈乃四丈幅十四、五間南京市内も焼け又は破壊され見るかげもない惨憺たる有様だ、敵兵の肢体やら武装解除された品々が路傍に沢山ある、帰途は夕刻近く九時就寝する。
[欄外記事]銃殺捕虜の死体処理(十八日○時)


十二月十九日 小晴
 昨夜寒いと思つたら今朝は大分酷い霜だ、氷も張つた、顔を洗ふにもビリビリする、朝食后南京碼頭の野戦郵便局に行き実家、中澤栄次郎、村田元、安田荘作、景山喜治、安藤松一、佐藤金一郎、大森勝次郎、鈴木茂近、山岸栄太郎、×××、道山国治、××村役場、同在郷軍人分会、××村役場、仝在郷軍人分会等へ葉書を出す、南京陥落記念の捺印をしてやる、今夜もゆっくり砲の音も銃声も聞えずゆっくり就寝する、昨朝は初雪が南京近くの山に見たが九時頃消える、泰容も思ふ様でないので大行李の渡辺明君から有我君に渡り再び白玉が自分の手元に来る、何たる奇縁だろう、入隊当時白玉をとり今又白玉が手元に入つた、足がまだ良くならぬが其の内になをるだろうが・・・・・・滞在にでもなつたら良く看護しよう。