宮本省吾(仮名)


南京陥落後一週間企画


収録 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』・・・第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 小野賢二、藤原彰本多勝一 大月書店


所属:歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充
階級:少尉
住所:福島県
職業:農業
入手経路:遺族より 
日記の態様:
 縦9.5センチ×横6センチの手帳。縦書き。
 いくつかの語句の横に傍線がついているが、とくに意味はないので、省略した。
 11月3日までは主としてカタカナ書き、11月4日以降はひらかな書きとなっている。


日記 P133〜134 ※誤字訂正。×は編者による伏字。■は解読不能

十二月十三日
 前夜午后七時俄に命令に接し烏龍山砲台攻撃のため出発、途中大休止をなし午前五時出発前進す、午前十時将校斥候となり烏龍山方面の敵状を捜索に出発、途中敗残兵等に会ひ騎兵隊と共に射殺す。
 敵弾の音の中を一時は潜り烏龍山の近く迄捜索するも敗残兵少々の外陣地に依る兵は見当たらずに帰る。
 本隊に帰るも本隊はすでに前進をなし非常に困難して本隊に追付く。
 夕方烏龍山に攻撃を向ふも敵の陣中にあると■えず、敗残兵を多数捕獲し一部は銃殺す、夜十時野宿につく。


十二月十四日
 午前五時出発、南京近くの敵の残兵を掃蕩すべく出発す、攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る、次々と一兵に血ぬらずして武装を解除し何千に達す、夕方南京に捕虜を引率し来り城外の兵舎に入る無慮万以上に達す、直ちに警備につく、中隊にて八ヶ所の歩哨を立哨せしめ警戒に任ず、捕虜中には空腹にて途中菜を食ふ者もあり、中には二、三日中食を採らぬ者もあり渇を訴へる者あり全く可愛想なるも戦争の上なればある程度迄断乎たる処置をとらねばならぬ、夜半又々衛生隊が二百余の捕虜を引率し来る、巡警二○○余もある隊長もあり相当訓練的にて人員をしらべる等、面白き事である、少佐とか参謀とか云ふ者もあり通訳より「日本軍に皆に対し危害を与へず唯逃ぐる事暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」との事を通じ支那捕虜全員に対し言達せし為一般に平穏であった、唯水と食料の不足で、全く閉口した様である。


十二月十五日
 一昨日来の疲れのため下士官以下に警戒をたのみ睡眠す、本日も出発の様子なく警戒に任ず。
 中隊は衛兵を多数出し又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。
 夕方より一部食事をやる、兵へも食糧配給出来ざる様にて捕虜兵の給食は勿論容易なものでない。


十二月十六日
 警戒の厳重は益々加はりそれでも午前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。


十二月十七日 (小雪)
 本日は一部は南京入城式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入場式に参加、荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。
 中隊死者一傷者二は達す。


十二月十八日 曇
 昨日来の出来事にて暁方漸く寝に就く、起床する間もなく昼食をとる様である。
 午后敵死体の片付をなす、暗くなるも終らず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。


十二月十九日
 昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す、午后四時迄かかる。
 夕方又捕虜の衣類の始末につき火災起る、少しで宿舎に延焼せんとしたが引留む事が出来た、明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かかる、牛肉の油揚迄作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす、風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。