ジョン・ラーベ


南京陥落後一週間企画


南京の真実単行本文庫本 ジョンラーベ著/エルヴィン・ヴィッケルト編/平野 卿子 訳


日記 P121-147 ※写真省略。編者により引用・再構成されたもの含む。編者による強調を省略。

十二月十三日
日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領しただけで、まだ内部には踏み込んでいない。


 本部に着くとすぐ、我々はたちどころに国際赤十字協会をつくりあげ、私が役員として加わった。ここしばらくこの件を担当していた盟友マギーが会長だ。
 委員会のメンバー三人で野戦病院に行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよくわかった。砲撃が激しくなったときに医者も看護人も患者をほうりだして逃げてしまったのだ。我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、みな再び勇気をとりもどした。
 外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。入口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。


 我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を轢いたら最後、ふっとんでしまう。上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は二日後にくるといった。日本軍は北へむかうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で六百人。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が侵入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。
 私ともう一人の仲間はそのまま車に乗っていき、鉄道部のあたりでもう一部隊、四百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるように指示した。
 どこからかいきなり弾が飛んできた。音が聞こえたが、どこから撃っているのかわからない。やがて一人の中国人将校が馬に乗ってカービン銃をふりまわしているのを見つけた。おそらく我々がしたことが納得できなかったのだろう。たしかに彼の立場からすれば、無理もないのだろうが、こっちとしてもほかにどうすることもできなかったのだ!ここで、安全区の境で、市街戦が始まりでもしたら、逃げている中国軍が、安全区に戻ってくるのは火を見るより明らかだ。そうなったら安全区は非武装地帯ではなくなり、壊滅とまではいかなくても徹底的に攻撃されてしまうことになる。
 我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜になるかもしれないが、それ以上の危険はないだろう、と。我々に銃口を向けた将校がそれからどうなったか知らない。ただ、仲間のハッツが彼からカービン銃を奪うのを見届けただけだ。


 本部に戻ると、入り口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江をわたって逃げようとして、逃げ遅れたのにちがいない。我々に武器を渡たしたあと、かれらは安全区のどこかに姿を消した。シュペアリングは非常に厳しい固い表情で正面玄関にたち、モーゼル拳銃を手に、といっても弾は入っていなかったが、武器をきれいに積み上げさせ、ひとつひとつ数えさせていた。あとで日本軍に引き渡さなければならない。
 町を見まわってはじめて被害の大きさがよくわかった。百から二百メートルおきに死体が転がっている。調べてみると、市民の死体は背中を撃たれていた。多分逃げようとして後ろから射たれたのだろう。
 日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目でみなかったら、とうて信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。ドイツ人のパン屋、キースリングのカフェもおそわれた。また、福昌飯店もこじ開けられた。中山路と太平路の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた。
 我々はフォスターといっしょに太平路にある英国教会にいってみた。ここはフォスターの伝道団の教会だ。手榴弾が二発、隣の家に撃ちこまれていた。近所の家もみなこじ開けられ、略奪されていた。フォスターは、日本兵が数人で自分の自転車を盗もうとしているのを見つけた。我々を見ると日本兵はすぐに逃げ去った。日本のパトロール隊を呼び止め、この土地はアメリカのものだからと、略奪兵を追い払うようにと頼んだが、相手は笑うだけでとりあおうとしなかった。


 二百人ほどの中国労働者の一団に出会った。安全区で集められ、しばられ、連行されたのだ。我々がなにをいってもしょせんむだなのだ。
 元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、四百ないし五百人がしばられて連行された。機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたにちがいない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。
 負傷した兵士を収容した外交部のなかの病院に入れてもらえない。中国人の医師や看護人はかんづめにされている。


 日本軍につかまらないうちにと、難民を百二十五人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は、近所の家から、十四歳から十五歳の娘が三人さらわれたといってきた。ベイツは、安全区の難民たちがわずかばかりの持ち物を奪われたと報告してきた。日本兵は私の家にも何度もやってきたが、ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出ていった。アメリカの国旗は尊重されていないようだ。仲間のソーンの車からアメリカ国旗が盗まれた。


 被害を報告するため、今朝六時からずっと出歩いていた。韓は家から出ようとしない。日本人将校はみな多かれ少なかれ、ていねいで礼儀正しいが、兵隊のなかには乱暴なものも大ぜいいる。そのくせ飛行機から宣伝ビラをまいているのだ。日本軍は中国人をひどい目にあわせはしないなどと書いて。


 絶望し、疲れきって我々は寧海路五号の本部へ戻った。あちこちで人々が苦しんでいる。我々はめいめいの車で裁判所へ米袋を運んだ。ここでは数百人が飢えている。外交部の病院にいる医者や患者の食料はいったいどうなっているのだろうか。本部の中庭には、何時間も前から重傷者が七人横たえられている。いずれも救急車で鼓楼病院に運ぶことができるだろう。なかに、脚を撃たれた十歳くらいの少年がいた。この子は気丈にも一度も痛みを訴えなかった。



十二月十五日
 朝の十時、関口鉱造少尉来訪。少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。
 十一時には日本大使館官補の福田篤泰氏。作業計画についての詳しい話し合い。電気、水道、電話をできるだけはやく復旧させることは、双方にとってプラスだ。このへん、氏はよく承知している。この問題に関しては我々、もしくは私が役に立てるだろう。韓と私は事情がよくわかっているから、技師や作業員に指示できる。
 交通銀行におかれた日本軍司令部で、もう一度福田氏に会う。この人は司令官を訪ねる際に、通訳として大いに役に立つだろう。


 昨日、十二月十四日、司令官と連絡がとれなかったので、武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に次のような手紙を渡した。

 南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国軍兵士の悲運を知り、大きな衝撃をうけております。本委員会は、この地区から中国軍を退去させるよう、当初から努力を重ねてきました。月曜日の午後、すなわち十二月十三日まで、この点に関してはかなりの成果を収めたものと考えております。ちょうどこの時、これら数百人の中国人兵士たちが、絶望的な状況の中で我々に助けを求めてきたのです。
 我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。我々は保護してはやれない。けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、日本から寛大な処置を期待できるだろう、と。
 捕虜に対する標準的な法規に鑑み、ならびに人道的理由から、これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。捕虜は労働者として役に立つと思われます。できるだけはやくかれらを元の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。
 敬具
ジョン・ラーベ、代表


この手紙と司令官にあてた十二月十四日の手紙に対する司令官からの返事は、次の議事録に記されている。

議事録
南京における日本軍特務機関長との話し合いについて(交通銀行にて)
一九三七年十二月十五日 正午


通訳:福田氏
出席者
ジョン・ラーベ氏・代表
スマイス博士・事務局長
シュペアリング氏・監査役


一、南京市においては中国軍兵士を徹底的に捜索する。
ニ、安全区の入り口には、日本軍の歩哨が立つ。
三、避難した住民はすみやかに家に戻ること。日本軍は安全区をも厳重に調査する予定である。
四、武装解除した中国人兵士は我々は人道的立場に立って扱うつもりである。その件は我軍に一任するよう希望する。
五、中国警察による安全区の巡回を認める。ただし、完全に武装解除すること。警防の携帯も認めない。
六、委員会によって安全区内に貯蔵された一万担の米は、難民のために使用してもよいが、われわれ日本軍にとっても必要である。したがって米を買う許可を求める(地区の外にある我々の備蓄米に関する回答は要領を得なかった)。
七、電話、電気、水道は復旧が必要である。今日の午後、ラーベ氏とともにこれらの設備の視察を行い、その後具体的な措置を取る。
八、早急に作業員を求む。明日より町を整備する予定であり、それにつき、委員会に援助を要請する。明日、百人から二百人の作業員が必要である。賃金は支払う。


司令官と福田氏に別れを告げようとしているところへ、日本軍特務部長の原田熊吉少将がやってきた。ぜひ安全区を見たいというので、さっそく案内した。午後、いっしょに下関の発電所にいくことになった。


 残念ながら、午後の約束は果たせなかった。日本軍が、武器を投げ捨てて逃げこんできた元中国兵を連行しようとしたからだ。この兵士たちは二度と武器を取ることはない。我々がそう請け合うと、ようやく開放された。ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。さっきの部隊が戻ってきて、今度は千三百人も捕まえたというのだ。スマイスとミルズと私の三人でなんとかして助けようとしたが聞き入られなかった。およそ百人の武装した日本兵に取り囲まれ、とうとう連れていかれてしまった。射殺されるにちがいない。
 スマイスは私ともう一度福田氏に会い、命乞いをした。氏はできるだけのことをしようといってはくれたが、望みは薄い。私は、もしかれらを処刑してしまったら、中国人がおびえ、作業員を集めるのは困難になるといっておいた。福田氏はうなずき、明日になれば事態は変わるかもしれないと言って慰めた。この惨めな気持ちはたえられない。人々が獣のように追い立てられていくのを見るのは身が切られるようにつらい。だが、中国軍のほうも、済南で日本人捕虜を二千人射殺したという話だ。
 日本海軍から聞いたのだが、アメリカ大使館員を避難させる途中、アメリカの砲艦パナイが日本軍の間違いから爆撃され、沈没したそうだ。死者二人。イタリア人新聞記者のサンドリと梅平(メイピン)号の船長カールソンのふたりだ。アメリカ大使館のパクストン氏は肩と膝に傷を負った。スクワイヤーズも肩をやられた。ガシーは足を折り、アンドリューズ少尉は重傷だ、ヒューズ海軍少佐も足を折ったらしい。
 そうこうするうちに、我々のなかからもけが人が出た。クレーガーが両手をやけどしたのだ。ガソリンの缶のすぐそばで火を使ったりするからだ。いくらもうほとんど入っていないからといって、うかつすぎる。彼は私からたっぷり油を絞られた。経営しているホテル(福昌飯店)が日本軍にめちゃくちゃにされたといってヘンペル氏がかけこんできた。カフェ・キースリングも、あらかたやられたらしい。

スミス氏(ロイター通信社)講演
 十二月十三日の朝、通りにはまだ日本軍の姿はありませんでした。町の南部は依然として中国軍の支配下にあったのです。中華門のあたりでは、夜、すさまじい戦闘がくりひろげられました。戦死した中国人は千人以上にのぼります。
 十二月十三日の夜になると、中国兵や民間人が略奪を始めました。まず襲われたのは食料品店です。一般の民家からも、兵士が食料を持って出てくる光景がみられました。しかし、中国軍が組織的に略奪行為をもくろんだというのは正しくありません。
 とくに印象的だったのは、中国人の衣料品店前の光景です。何百人もの兵士たちが店の前におしよせ、ありとあらゆる種類の服が、飛ぶように売れていきました。有り金はたいて服を手に入れ、その場で着替えると、兵士たちは軍服を投げ捨て、市民のなかにまぎれこんでいきました。これら何百人もの元兵士は、そのあと士官学校や国際クラブに集りました。昼ごろになってはじめて、記者仲間のマクダニエル氏が、日本軍のパトロール隊を見かけました。かれらは六人から十二人ぐらいで一団となり、メインストリートをゆっくりと注意深く進んで行きました。ときたま銃声が鳴り響き、あちこちに市民が倒れていました。日本軍にいわせると、逃げようとして撃たれたというのです。ただ、日本軍の姿をみると、一般市民の間にはある種の安堵感がただよったように思えました。もし人間らしいふるまいをしてくれるなら、日本人を受け入れよう、という気持ちがあったのです。

例の安全区でも、誤って飛んできた弾や榴弾に当たって、約百人もの中国人が死に、さらにもう百人ほど負傷しました。夜にはこの安全区にも日本軍が侵入してきました。警備のため、約七千人の中国人兵士がいましたが、すべて武装解除していました。その兵士たちは士官学校などの建物に収容されていました。なお町の南部から中国人警官が数百人逃げてきたため、安全区の警察は増員されていました。
 十二月十四日の朝になっても、日本兵は市民に危害を加えませんでした。しかし昼頃になると、六人から十人ぐらいで徒党を組んだ日本兵の姿があちこちで見られるようになりました。彼らは連隊徽
章をはずしていて、家から家へと略奪をくり返しました。中国兵の略奪は主に食料に限られていましたが、日本兵の場合は見境なしでした。彼らは組織的に、徹底的に略奪したのです。

 私は十二月十五日に南京を後にしましたが、それまでに私をはじめ、ほかのヨーロッパ人のみたところによれば、中国人の家はすべて、ヨーロッパ人の家はその大部分が、日本兵によって略奪しつくされていました。屋根にはためくヨーロッパの国旗も引きずりおろされました。日本兵の一団が家財道具を取っていく姿も見られました。とくに好まれたのは壁掛け時計だったようです。

 まだ南京に残っていた外国の車は、徴発される前に国旗を引き裂かれました。安全区国際委員会からも、乗用車二台とトラック数台が押収されました。カフェ・キースリングの前で、私はたまたまラーベ氏に出会いました。氏は店主と力をあわせ、日本兵を次から次へと追い払っていました。かれらは店のドイツ国旗を外して食べ物を奪おうとしたのです。下関では、四、五百人の中国人が連れ去られました。ヨーロッパ人が後で追おうとしたのですが、日本軍におしとどめられて果たせませんでした。
 十二月十五日、外国の記者団が、南京から上海に向う日本の軍艦に乗せてもらうことになりました。ところがそのあとで、イギリスの軍艦でいけることになり、桟橋に集合するように指示がありました。出発までに予想以上に時間がかかったので、偵察をかねて、あたりを少し歩くことにしました。そこでわれわれが見たものは、広場で日本軍が中国人を縛り上げ、立たせている光景でした。順次、引たてられ、銃殺されました。ひざまずいて、後頭部から銃弾を撃ちこまれるのです。このような処刑を百例ほど見たとき、指揮をとっていた日本人将校に気づかれ、すぐに立ち去るように命じられました。ほかの中国人がどうなったのかはわかりません。

(この講演でスミス氏は、南京に残ったドイツ人の活躍、すなわち中国人難民保護につくしたラーベ、クレーガー、シュペアリング各氏の隣人愛と努力にたいし、最大の賛辞を寄せた)

十二月十六日
 朝、八時四十五分、菊池氏から手紙。菊池氏は控え目で感じの良い通訳だ。今日の九時から、「安全区」で中国兵の捜索が行われると伝えてきた。
 いまここで味わっている恐怖に比べれば、いままでの爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。安全区の外にある店で略奪を受けなかった店は一軒もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区のなかにもおよんできている。外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことどとくこじ開けられ、荒らされた。福田氏にあてた次の手紙から、そのときの情況がおおよそうかがえる。ただし、この手紙に記されているのは、無数の事件のうち、我々が知ったごくわずかな例にすぎない。

 在南京日本大使館 福田篤泰
 拝啓
 安全区における昨日の日本軍の不法行為は、難民の間にパニックを引き起こし、その恐怖感はいまだに募る一方です。多くの難民は、宿泊所から離れるのを恐れるあまり、米飯の支給を受けたくとも、近くの給食所にさえ行けないありさまです。そのため宿泊所まで運ばなければならなくなり、大ぜいの人々に食料をいきわたらせることは、大変むずかしくなっています。給食所に米と石炭を運びこむ苦力を十分に集めることすらできませんでした。その結果、何千人もの避難民は今朝、何も口にしていません。
 国際委員会のメンバーである外国人が数人、なんとかして難民に食事を与えようと、今朝がたトラックを手配しようとしましたが、日本軍のパトロール隊に阻止されました。昨日は委員会のメンバー数人が、私用の乗用車を日本軍兵士に奪われました。ここに日本兵不法行為リストを同封します。(ただし、ここにはリストは掲載されていない)


 この情況が改善されない限り、いかなる通常の業務も不可能です。電話や電気、水道などの修復、店舗の修繕をする作業員はおろか、通りの清掃をする労働者を調達することすらできません。
 ・・・・・・私たちは昨日は苦情を申し立てませんでした。日本軍最高司令官が到着すれば、街はふたたび落ちつきと秩序を取り戻すと考えていたからです。ところが昨晩は、残念ながらさらにひどい情況になりました。このままではもうどうにも耐えられません。よって日本帝国軍に実情をお伝えすることにした次第です。この不法行為が、よもや軍最高司令部によって是認されているはずはないと信じているからです。
 敬具
 代表 ジョン・ラーベ
 事務局長 ルイス・S・C・スマイス


 ドイツ人軍事顧問の家は、片端から日本兵によって荒らされた。中国人はだれひとり、家から出ようとしない! 私はすでに百人以上、極貧の難民を受け入れていたが、車を出そうと門を開けると、婦人や子どもが押しあいへしあいしていた。ひざまずいて、頭を地面にすりつけ、どうか庭にいれてください、とせがんでいる。この悲惨な光景は想像に絶する。
 菊池氏と車で下関に行って、発電所と米の在庫を調べた。発電所は見たところ損傷なく、もし作業員がきちんと保護されれば、おそらく数日中に稼動できるだろう。手を貸したい気持ちはやまやまだが、日本軍のあの信じられない行為を考えると、四十ないし四十五人もの労働者をかき集めるのはむずかしい。それに、こんななかで、日本当局を通じてわが社のドイツ人技術者をこちらに呼ぶような危険なことはごめんだ。


 たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出されたという。銃殺されるのだ。そのうち、五十人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されるという。
 下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通部は中国人の手で焼きはらわれていた。ゆう江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯は文字どおり死屍累々だ。日本軍がすこしも片づけようとしない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間の宗教的慈善団体)が手を出すことは禁止されている。
 銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された人たちもいる。


 晩に岡崎勝男上海総領事が訪ねてきた。彼の話では、銃殺された兵士が何人かいたはたしかだが、残りは揚子江にある島の強制収容所に送られるという。
 以前うちの学校で働いていた中国人が撃たれて鼓楼病院に入っていた。強制労働にかり出されたのだ。仕事を終えた旨の証明書をうけとったあと、家に帰る途中、なんの理由もなくいきなり後ろから二発の銃弾を受けたという。かつて彼がドイツ大使館からもらった身分証明書が、血で真っ赤に染まっていま私の目の前にある。
 いま、これを書いている間にも、日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。ボーイが開けないでいると、塀から頭がいくつもにゅっとつきでた。小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に消えていった。その側溝にも、この三日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ。ぞっとする。
 女の人や子どもたちが大ぜい、庭の芝生にうずくまっている。目を大きく見開き、恐怖のあまり口もきけない。そして、互いによりそって体を温めたり、はげましあったりしている。この人たちの最大の希望は、「異人」である私が日本兵という悪霊を追い払うことなのだ。



十二月十七日
 二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出ていくと「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」とかなんとか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。


 塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。運良く救急車を呼ぶことができ、鼓楼病院へ運んだ。いま、庭には全部で約二百人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざまずく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人のだれかがこんなふうに言った。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」
 当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。
 オーストリア人の自動車整備工、仲間のハッツがひとりの日本兵と争いになった。その日本兵は銃剣を抜いたが、アッパーカットを食らい、吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。そして完全武装した二人の仲間といっしょに逃げていった。


 きのう、岡崎総領事から、難民はできるだけ早く安全区を出て家へ戻り、店を開くように、との指示があった。店? 店なんてとっくに開いてるじゃないか。こじ開けられ、ものをとられていない店なんかないんだからな。驚いたことに、ドイツ大使トラウトマンの家は無事だった。


 クレーガーといっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。きのう日本軍将校数人とホテルにいたとき、日本兵に盗まれたものだ。クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。ついに、乗っていた三人の日本兵は、"We friend ・・・ you go!"(俺たち友達ね・・・・・・さあ行けよ!)と言って返してよこしたのだった。
 このときの日本兵は午後にまたやって来て、私の留守をいいことに、今度はローレンツの車を持っていってしまった。私は以前韓に言ったことがある。「『お客』を追っ払えないときには、せめて受け取りをもらっておくように」なんと韓は本当にもらっておいたのだ。"I thank your present! Nippon Army, K. Sato."(プレゼントどうも!日本軍、K・サトウ)
 ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!
 軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている。きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部までは道をすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げこまれている。


 午後六時、庭にいる難民たちに莚を六十枚持っていった。みな大喜びだった。日本兵が四人、またしても塀をよじ登って入ってきた。三人はすぐにとっつかまえて追い返した。四人目は難民の間をぬって正門へやってきたところをつかまえ、丁重に出口までお送りした。やつらは外へでたとたん、駆け出した。ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。
 アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合は、たいていは、「ドイツ人だぞ!」あるいは「ヒトラー!」と叫ぶだけでよかった。すると日本兵はおとなしくなるからだ。きょう、日本大使館に抗議の手紙を出した。それを読んだ福井淳書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。いずれにせよ福井氏はさっそくこの書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。私、スマイス、福井氏の三人が日本大使館で話し合っていると、リッグズが呼びに来て、すぐ本部に戻るようにとのこと。行ってみると、福田氏が待っていた。発電所の復旧について話したいという。私は上海に電報を打った。

 ジーメンス・中国本社 御中。上海氏南京路二四四号。「日本当局は当地の発電所の復旧に関し、ドイツ人技術者をさしむけてほしいとのこと。戦闘による設備の損傷はない模様。回答は日本当局を介してお願いしたい」ラーベ


 日本軍は本当はわれわれの委員会を認めたくないのだが、ここはひとつ、円満にことを進んでおく方がいいということだけはわかっているようだ。私は最高司令官に、次のようにことづけた。「『市長』の地位にはうんざりしており、喜んで辞任したいと思っています」



十二月十八日
 最高司令官がくれば治安がよくなるかもしれない。そんな期待を抱いていたが、残念ながらはずれたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。塀を乗り越えてやってきた兵士たちを、朝っぱらから追っ払わなければならない有様だ。なかの一人が銃剣を抜いて向ってきたが、私を見るとすぐにさやにおさめた。
 私が家にいるかぎり、問題はなかった。やつらはヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いている。だが、中国人に対してはそうではなかった。兵士が押し入ってきた、といっては、絶えず本部に呼び出しがある。そのたびに近所の家に駆けつけた。日本兵を二人、奥の部屋から引きずり出したこともあった。その家はすでに根こそぎ略奪されていた。日本人将校と発電所の復旧について話し合っていたとき、目と鼻の先で車が盗まれたこともあった。何とか苦労して取り戻すことができたが。将校の言うことなど、兵士たちはほとんど耳を貸さないのだ。


 中国人が一人、本部に飛びこんできた。押し入ってきた日本兵に弟が射殺されたという。言われたとおりシガレットケースを渡さなかったから、というだけで!
 私は発電所の復旧で話し合っている将校に、なんとかしてくれと申し入れた。するとその将校は日本語で書かれた札をくれた。さっそくそれをドアに貼ることにして一緒に家に戻った。


 家に着くと、ちょうど日本兵が一人押し入ろうとしているところだった。すぐに彼は将校に追い払われた。そのとき近所の中国人が駆けこんできた。妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で四人だということだった。われわれはただちに駆けつけ、危ないところで取り押さえることができた。将校はその兵に平手打ちを食らわせ、それから放免した。
 ふたたび車で家に戻ろうとすると、韓がやってきた。私の留守に押し入られ、物をとられたという。私は身体中の力がぬけた。車から降りて、私はその将校にいった。「一人で先にいってください」。次から次へと起こる不愉快な出来事に、実際に気分が悪くなってしまったのだ。
 しかし将校はそうはしなかった。私にあやまり、きっぱりといった。「今日のことで、あなたがたの言うことが誇張ではないということがよくわかりました。一日も早くこの事態を改善するよう、精一杯努力します」


 十八時
 危機一髪。日本兵が数人、塀を乗り越えて入りこんでいた。なかの一人はすでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣をほうり出し、難民の少女におそいかかっていた。私はこいつをただちにつまみ出した。逃げようとして塀をまたいでいたやつは、軽く突くだけで用は足りた。
 夜八時にハッツがきた。日本の警部といっしょだ。かなりの数の警察をトラックにのせてつれてきている。金陵大学にある難民収容所を夜間見張るためだという。日本大使館での抗議が早速いくらか役に立ったようだ。
 寧海路五号にある委員会本部の門を開けて、大ぜいの女の人や子どもを庭に入れた。この人たちの泣き叫ぶ声がその後何時間も耳について離れない。わが家のたった五百平方メートルほどの庭や裏庭にも難民は増えるいっぽうだ。三百人くらいいるだろうか。私の家が一番安全だということになっているらしい。私が家にいるかぎり、確かにそういえるだろう。そのたびに日本兵を追い払うからだ。だが留守のときはけっして安全ではなかった。もらった貼り紙はあまり役に立たない。兵士たちはほとんど気にしないのだ。彼らはたいてい塀を乗り越えてやってくる。張のかみさんの容態が夜に悪くなり、今朝もういちど鼓楼病院へ連れていかなければならなかった。悲しいことに、鼓楼病院でも看護婦が何人か暴行にあっていた。



十二月十九日
 わが家では静かに夜が更けていった。寧海路にある本部の隣の建物には防空壕があって、二十人ほどの女性がいたが、ここへ日本兵が数人暴行しに侵入してきた。ハッツは塀を乗り越え、やつらを追い払った。広州路八十三〜八十五号の難民収容所からは助けを求める請願書が来た。

 南京安全区国際委員会 御中
 ここに署名しました五百四十人の難民は、広州路八十三〜八十五号の建物の中にぎゅうぎゅうに押しこまれて収容されています。
 今月の十三日から十八日にかけて、この建物は三人から五人の日本兵のグループに何度も押し入られ、略奪されました。今日もまたひっきりなしに日本兵がやってきました。装飾品はもとより、現金、時計、服という服、何もかもあらいざらいもっていかれました。比較的若い女性たちは毎夜連れ去られます。トラックにのせられ、翌朝になってようやく帰されるのです。これまで三十人以上が暴行されました。女性や子どもたちの悲鳴が夜昼となく響き渡っています。この悲惨なありさまはなんともいいようがありません!
 どうか、われわれをお助けください!
   南京にて、一九三七年十二月十八日
                            難民一同


いったいどうやってこの人たちを守ったらいいのだろう。日本兵は野放し状態だ。これでは発電所も復旧しようにも、とうてい人手が集まらない。今日そのことでまた菊池氏がやってきた。私はいってやった。「作業員は逃げてしまいましたよ。そりゃそうでしょう、私たちヨーロッパ人さえひどい目にあっているというのに、自分たちが安全なわけがないと思ってるんですよ」
 すると菊池氏はいった。
 「ベルギーでもまったくおなじ状態でした!」


 十八時
 日本兵が六人、塀を乗り越えて庭に入っていた。門扉を内側から開けようとしている。なかのひとりを懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。だが、大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると、すぐにひっこめた。全員また塀を乗り越えて戻っていくことになった。おまえらにはなにも扉を開けてやることはない。


 わが家の南も北も大火事になった。水道はとまっているし、消防隊は連れていかれてしまったのだから、手の打ちようがない。国府路でもどうやら一ブロックがそっくり燃えているようだ。空は真昼のように明るい。庭の難民は、三百人だか四百人だか正確にはわからないのだが、莚や古いドア、ブリキ板で掘ったて小屋をつくって、少しでも雪と寒さを防ごうとしていた。だがこまったことに、なかで料理をはじめてしまったのだ。火事が心配だ。禁止しなければ。大きい石油缶が六十四個もおいてあるので、気が気ではない。けっきょく二ヶ所だけ、料理をしてもよい場所をきめることにした。