元同盟上海支社長・松本重治氏に聞く


前エントリーに引続き、阿羅健一さんが「畠中秀夫」名義で
雑誌『世界と日本』*1に発表した記事から、『上海時代』の著者である松本重治に対するインタビュー部分を抜粋してみます。
松本氏のインタビューは、阿羅さんが1987年に出した単行本『聞き書 南京事件*2には掲載されていたのですが、
2002年にこの本が文庫本化された時は、何故か掲載されませんでした。*3

 「上海時代」の人間臭さ

 松本重治氏の『上海時代』は臨場感あふれるドキュメントである。そして松本氏の人間臭さが良く出ている本である。世に回想録はたくさんあるが、これほど人間臭さの出ている回想録は少ない。その人間臭さとは、良く言えば松本氏の人の良さ、悪く言えば青年っぽさである。読み始めると人間臭さが気になってやめられない。川越駐華大使をして、実の大使は松本君、と言わせた人物が果たして青年っぽさなんかを持っているものだろうか、と思ってなかなか止まらない。
 それはともあれ、昭和十二年当時、松本氏は同盟通信社の上海支社長であった。上海でかのティンパーレーを知るようになり、ティンパーレーをして松本氏を、情操才智はきわめて高邁で、なかなか得難い人で尊敬している、と言わせている。ティンパーレーは『戦争とは何か』を上梓した際、松本氏に贈っている。また松本氏は十二月十八日に南京に行き、慰霊祭に出席し、その時の模様を直接みている。一度ティンパーレーの人となりと南京の慰霊祭の模様を聞きたいと思っていた。
 昨年、十二月も押し迫った二十日、松本氏を六本木の国際文化会館に訪れた。いつもは十時には出ているということなので、十時半に伺った。喧騒の六本木も一歩はずれるとまるで雰囲気が違う。鳥居坂には教会、女学校が並び、そして落ち着いた国際文化会館が続く。国際文化会館に入ると、さっそく女性秘書が理事長室に通してくれた。大きい窓のついている広い部屋である。何度も写真で見た松本重治がそこにいる。百八十センチもある長身である。名刺を出しながら「松本重治」ですと丁寧に挨拶される。ソファをすすめてくれた。松本氏はゆっくり座り、膝掛けを掛けながらこちらに目を向ける。そこで今日伺った主旨を述べて。松本氏が答えた。
 「南京について知っていることはすべて『上海時代』に書きました。書いてあること以外は知りません」
 いとも簡単な答である。これでは松本氏の方からの積極的な話は聞けないと思った。そこで、前もって用意してきたメモを参考にしながら具体的な事柄を質問することにした。
 
 −十二月十八日に南京にいらしてますね。
「十八日の朝、南京に着きました。南京の街の人通りが少なく、静まりかえっていました。それが印象的です。支社に行きましたが、記者は取材に出かけていて、誰もいなかった」
 
 −慰霊祭の松井大将の訓示に、ある師団長はせせら笑った、と言ってますが、その師団長は中島今朝吾中将ですか?
「慰霊祭の時ではありません。慰霊祭はせせら笑うというようなものではなかった。非常に厳粛でした。そこで松井大将は居並ぶ将兵をきびしく叱った。誰も黙ったままでした。宮様をも叱っていた。それはすさまじいもので、誰も口をはさめなかった。その時、松井大将は皇后陛下からいただいたという襟巻きをしていたと思う。
 中島師団長が笑ったというのは、十六師団だけの慰霊祭の時と言われている」
 
 −松井大将は何かを見たのでしょうか。
「部下から報告を受けたのでしょう。それで叱ったのだと思います」
  

 「捕虜はせぬ方針」とは?
 −中島師団長は陸大も出た教養のある人ですが、どうしたのでしょう。
「私も疑問に思っていた。先日、当時の日記が発見されて、その時の方針に『捕虜はせぬ方針』とある。今まで中島師団長がそう考えているとは思ってもみなかった」
 
 −「捕虜はせぬ方針」とは抽象的でいろいろ解釈できると思います。敵を撃退しろというのか、つかまえた捕虜は処刑しろというのか、捕虜の一部は解放しろというのか、どうなのでしょう。
「追っ払ったこともずいぶんあったでしょう。捕虜にして殺したことは若干あったことも前田君や深沢君が目撃しています。十六師団は捕えた数千人の捕虜をその後解放した、とも聞いてます。どのようにもとれるのではないでしょうか」
 
 −「捕虜はせぬ方針」を捕虜を殺すととるなら、松井大将の言動からみてそれは中島師団長の考え、命令となりますね。
「松井大将や宮様から出た命令ではありません。中島師団長の命令になるでしょう」
 
 −同盟通信は慰霊祭の松井大将の訓示を海外に流していますね。
「東京にも流しました。中国の新聞にも海外の新聞にも載りました」
 
 −松本さん自身、南京で日本軍の残虐行為を見ていますか。
「私はなにも見ていない。南京の様子は『上海時代』に書いてある通り、南京を取材していた前田、深沢、新井の三人の同盟通信の記者に聞いて確かめたことを書いたのです。書いてある以上のことはわかりません」
 ここでしばらく南京の様子の話になるが、その話は『上海時代』に書いてあることの繰り返しである。
「万を単位とする虐殺はあり得ないということだ。慰霊祭が終ったあと、十九日か二十日に十六師団が南京に残留師団となり残敵掃蕩をやったが、この時、民家を掠奪したり、女の子まで強姦したりしたという。この時、数十人か数百人かのそういうものがあったと聞いています。
難民区には便衣の者のほか中国の将校が服のまま逃げ込んで、協定違反で難民区委員会が困っているという話を聞いた。兵士はいくら便衣になってもわかるということです」
 
 −難民区委員会のベイソ*4氏はどんな人ですか。
「金陵大学の教授をやっていましたが、普通の大学教授です。金陵女子大学に日本の将校が来て、収容されている女の子を出せと言った。それを学長の呉胎芳が断ったら、彼女がなぐられた、とベイソ教授が言っていました。呉胎芳は私もよく知っている人です」
 
 −ベイソ教授は極東軍事裁判で証言をしていますが、証言の信憑性は?
「ベイソ教授が自分で見たと言っていることは本当でしょう」
 
 −ティンパーレーの『戦争とは何か』を読むと、南京の日本軍の暴行を上海からマンチェスター・ガーディアン紙に打電しようとしたが日本側に止められたなどと書いてあり、非常に意図的なものを感じますが・・・・・・
「ティンパーレーは年齢は私より少し上ですが、本当に良心的な人です。学者肌の人でした」
 
 −例えば南京の難民委員会に参加できず、腹いせにああいう本を出したとか。
「そういうことはないと思います。ベイソ教授は普通の大学教授ですが、ティンパーレーはまれにみる良心的な新聞記者です」
 
 −当時ティンパーレーはどこにいましたか?
「上海の記者でしたから、上海にいたと思います」
 
 −ニューヨーク・タイムズのアーベント記者をご存知ですか。
「アーベント君も私の友達です。仲良しで、よくゴルフをしました。最初はそうでもなかったが一九三三年頃から反日的になり、宋美齢とは特に親しくなっていた。いつかもゴルフをやろうとしていたら、宋美齢からお茶の会に呼ばれていると言って、ゴルフをやらずに行ったこともありました」
 
 −南京には何日いましたか。
「一日泊まったような気もします。十九日には上海に帰りました」
 松本氏に聞くことはこれ以上なかった。自分の見たことだけ話す、ということなのでそれは当然であった。礼を述べて帰ろうとすると、わざわざエレベーターまで送ってくれた。 
「畠中君、今日はわざわざ来てくれたのに充分話もできないですみません」とねぎらってくれる。本当に『上海時代』に現れる、人が良く青年っぽい人であった。『上海時代』はまさしく松本氏の人柄そのままを飾ることもなく表したものであることがわかる。
 訪れてから数日後、夜九時すぎ、私の家の電話が鳴った。受話器をとると「畠中君ですか」と、あの松本氏である。先日の話で間違いやすい言い方をしたので確認のため電話したという。夜遅くでないと帰らない僕のため、多分何度も電話をしてくれたのであろう。八十五歳という老齢ながら誠意をつくすというその人間性。私はひたすら電話に頭を下げるだけであった。

松本重治氏の証言についての詳細は→ココ

*1:じゅん刊 1985年3月15日号 「聞き書き 昭和十二年十二月 南京(続)」

*2:リンク先は2002年に出版された文庫版

*3:きっと編集上のミスか何かでしょう。阿羅さんたらあわてんぼうさんだなー♪

*4:原文ママ。ベイツのこと