元野戦郵便長・佐々木元勝氏に聞く


阿羅健一さんが「畠中秀夫」名義で、
雑誌『世界と日本』*1に発表した、『野戦郵便旗*2の著者、佐々木元勝氏へのインタビューです。
阿羅さんは、この号では他に、石川達三、橋本登美三郎、足立和男らにもインタビューしてますが、この佐々木氏のものだけ何故か、インタビューをまとめた単行本『聞き書 南京事件*3には掲載されませんでした。*4

 健在だった佐々木氏
 南京大虐殺を調べるうえで、佐々木元勝氏の「野戦郵便旗」は貴重な同時代資料であろう。昭和十二年八月から十四年六月までの中国での出来事を、正・続二冊に収めている。日々の出来事の細かい記述でありながら大きな流れがあり、読み物としても面白い。当時の戦場の様子が目の前にあざやかに浮かんでくる。ただし、二冊とはいえ、一日の分量となるとわずかなものになる。南京だけにしぼると、全体の十分の一以下になってしまう。それだけに、もっと詳しかったら、と思わないわけでもない。そんな個所をメモ書きにしているうちに、五十項目ほどになってしまった。佐々木氏が健在なら詳しく聞きたいと思いつつ、時間だけが過ぎてゆく。無理だろうと思いながらも、出版社に問い合わせてみた。「野戦郵便旗」が絶版になっていて、出版社では佐々木氏が健在かどうかわからないという。そこで佐々木氏が雑誌「ゆうびん」を発行していたことを頼りに、「ゆうびん」の発行所を探し出し、そこに往復葉書を出した。思いもかけず、すぐに返事が来た。健在、そして快諾なのである。喜んで会いに行った。
 地下鉄四谷三丁目の駅から歩いて五分ほどのところに、雑誌「ゆうびん」の発行所であり佐々木氏の仕事場である部屋があった。秋晴れの土曜の午後、菓子折りさげて伺うと、七十歳ほどの老人が机に向かい虫メガネで熱心に本を見ている。この人が佐々木氏であった。佐々木氏はすぐ部屋にあるソファをすすめてくれた。断られるのをおそれて、話を伺うのは三十分で結構です、と言ってある。しかし、質問項目は三十分で聞き切れないほどある。無駄に時間は過ごせないと、挨拶もそこそこにして質問に入った。


 戦闘の実像
 −上海から南京に行く途中、「道傍の廃屋に死体が転がっている」と書いてありますが、この死体は?
 「兵士ではなく一般の人の死体です。日本兵によって殺されたのでしょう」
 
 −戦闘で殺されたものですか?
「いや。戦闘によるものではないでしょう」
 
 −敗残兵という言葉から、戦闘で傷つき戦闘意欲を失った兵士を想像しますが、この本ではちょっと違うようですね。どんな意味合いで使いました?
「戦闘で敗れた兵とか逃亡して潜んでいる兵を指して使っています。大体ゲリラ活動をしており、指揮者がいれば再び攻撃してくる兵士たちです」
 
 −敗残兵はいつまでいましたか?
「南京攻略直後はそれほどでもなかったが、時間とともにひどくなって来ました。日本と中国との戦いは続いているのだから当然です」
 
 −本文に「敗残兵二百名の掃蕩が行われた」とありますが、掃蕩とは?
「戦闘で殺したことです。多分機関銃を使ったのでしょう。戦闘だから問題はありません」
 
 −昭和十三年五月頃、「今でも敗残兵が土民になっており、物騒である」と書いてますが?
「百姓の姿をしているが、実際は兵隊なんですよ」
 
 −野戦郵便夫も徴発しているようですが?
戦時国際法上、徴発は許されています。ただし対価を支払う義務があります。私たちも徴発したが、支那を馬鹿にしていたので対価を払わない者も多かった」
 
 −戦時国際公法を皆知っていたのですか?
「兵士や郵便夫は知らなかった。私は東京大学で戦時国際公法、平時国際公法、国際公法を学んでいた。逓信省では、国際都市旧上海で活躍するためにこういう法を知っている人を、ということで私に話があった。当時私は三十三歳だったが、世界を旅行したいと考えていたので逓信省に入った」
 
 −十六日の南京を「軍政部から海軍部にかけ数町の間は、真に驚くべき阿鼻叫喚の跡と思われる」と表現しているが、具体的にはどうだったのですか?
「多くの軍服が乱雑に脱ぎすてられてあった。青い、濃紺の中国兵の軍服です」
 
 −下関にも敗残兵の死体がありましたね?
「これが今言われている虐殺に当たると思う。数から言えば小銃では無理だ。機関銃による射殺だろう。数えたわけではないが、二千人くらいいた。夕方街路で会った俘虜たちだ。揚子江には海軍が軍艦から掃蕩した死体があった」
 
 −ガソリンをかけて焼いたともあるが・・・・・・。
「最初は臭わないが、そのままおけば腐敗するので、ガソリンをかけて焼いたのだろう。それでも焼いたのは三百人か五百人ぐらいで、全部ではなかった」
 
 −翌年二月二日に下関の揚子江岸で二つの死体を見ていますね。
「十二月十六日に見た死体の残りだと思う。大部分は流れていって、その残りだろう。揚子江では、南京あたりでも潮の干満というのか波というのか、そういうのがあって死体は流される。揚子江が満々と流れるというのは嘘で、流れは早く、中ほどでは船から落ちたら助からないという」
 
 −「南京城内外での俘虜はおよそ四万二千と私は聞かされていた」と書いてありますが、どこから聞いたのですか。
「今すぐには思い出せない・・・・・・。南京城に入る時、城門の外に四千人ほどの俘虜を見てるし、そのくらいはいたのじゃないかな」
 
 −同じ日に「江岸に支那兵の殺された無数の跡がある」と記述していますが、死体があったのか、脱ぎすてられた衣服があったのか。
「ここでは戦闘があったのです。その跡です」
 
 −二十一日の南京を「火事で街の空は一面に赤い」と書いていますが、あっちこっちで燃えていたのですか?
「何ヶ所かありました。日本兵が宿営して、火の始末を完全にしていなかったためです。火を使ってそのままにしていたので燃えたのでしょう」
 
 −放火ではありませんか。
「放火ではありません」
 
 −難民区のことは何も出ていないが、知っていましたか?
「知っていた」
 
 −崇善堂は知っていますか?
「知らない」
 
 −慈善団体ですが・・・・・・。
「慈善団体なら紅卍会を知っている」
 
 −紅卍会と崇善堂が死体を埋葬したというのですが・・・・・・。
「紅卍会は有名なので名前は知っているが、南京ではどうだったのか。崇善堂は聞いたことがない」
 
 −本の中にある「敵兵の重傷患者の収容所」はどこにあったのか?
「南京の収容所は小さくてどこにあったのかはっきりしない。外国の記者が取材に来るので見せていたようだ」
 
 −実際、日本軍の暴行、殺人などを見ましたか?
「一度あった。中山陵に行った時、二、三メートルの松の林で将校が一人の敗残兵の首を斬るところを見た。その瞬間をベビー・ミノルタで撮った。カメラは親類の写真屋が出征の祝いにくれたものだ」
 
 −城の郊外に死体はありましたか?
「郵便トラックで何ヶ所か通ったが、なかった」
 
 −ティンパーリーの本について・・・・・・。                          
「記憶にない。読んだこともない。中国にいる間に呼んだのは『麦と兵隊』です」
 
 −南京大虐殺の話はいつ聞きました?
「虐殺という言葉を聞いたのは戦後です。虐殺は明らかに国際法違反ですから、戦前は聞いたことがなかった」
 
 −でも俘虜は殺しているのでしょう・・・・・・。
「俘虜といっても、自分の生命が危険になれば戦時国際法上殺してもいい。銃を持っていても、一人では五人の俘虜にやられる時もある。その時は殺してもいいわけです。二千人の虐殺は、日本軍自体、食べるものもなく困っていた。始末に困ったから、理由をこじつけて殺したのだと思います」
  
 −二千人の虐殺はあったのですね?
「二千人の虐殺はあった。しかし、朝日新聞の本多記者が言っているようなことはない。二千人の虐殺はあった。それを否定してはいけない。そのことははっきり言わなくてはならない。ただ、支那人は万とつくのが好きだから、ああ言っているだけだ。それが朝日新聞に載るもんだから、最近は小学生まで二十万人だとか言っている。そのままにしておくと、歴史的事実になる。否定し、訂正しなければいけない」
  
 −なぜ南京で起きたのか・・・・・・。
「第一次上海事変の時、中国人の爆弾で白川大将が死んだ。重光公使が足をもぎとられ、野村大将が片目になった。多分あれが頭にあったんじゃないかな。轍を踏まないで、ということでやむを得ない。甘く見ると自分たちがやられるからね」
 
 −二千人以外の虐殺は?
「二千人以外は、ほとんど戦時国際公法上適法な行為だと思います。『処刑した』ということは、適法な行為のことです」
 
 −東京裁判では大虐殺と言っていますが・・・・・・。
「あれを聞いた時、松井大将は気の毒だと思った。虐殺を容認した、それが理由で罪になったと言われた」
 
 −ところで、「野戦郵便旗」を書く時、検閲を気にしましたか?
「当然。時代の自己規制はあったよ」
 
 −具体的にはどう自己規制しました?
「日本の悪口は書かない。天皇陛下天皇なんて書かない。婦女暴行もあったが、書かなかった。婦女暴行のことはちょっとあの本の中に書いているが、今でも詳しくは書く気がない」
 
 −日本に持って来る時、検閲されなかったのですか?
「上海だったと思うが、検閲があるので、自己規制はしているが、持って帰れないと思っていた。ところがスタンプや郵便通帳用紙などの公用機材を入れるトランクを持っていた。これはほとんど検閲がなかった。その中に入れてきた」
 
 −その原稿が本になった・・・・・・。
「そうです。逓信大臣の永井柳太郎が表紙を揮亳してくれ、昭和十六年に発表した。下関でのことは『今宵一度きりの大軍よ』としか書けなかった。それを高崎隆治氏が眼光紙背に徹する、というのか見抜いた。すごいね。高崎氏にはこの本を認めてくれて感謝している」
 
 −序文を書いている高崎氏や洞富雄氏は、南京での何十万の虐殺を主張していますが・・・・・・。
「二人には会ったことはない。出版することや序文は出版社にすべてまかせた。本になったから序文を読んで、それなりに参考になった。洞氏は歴史学者だと聞いたが、本と本をつき合わせるのが仕事だから仕方ない。ただ、体験もしていないでああいうことを書いたりするのはどうか。自分は南京ですべてを見たわけでないが、事実だけを書いている。それが解釈によってまちまちだ。歴史はこうだと断定できないむずかしいものだと思った」
 
 −当時の日記に書いてあることはすべて本に書きましたか?
「すべて書いたわけではない」
 
 −南京のことで日記だけに書いてあることもありますか?
「あるかもしれない。しかし重要なことはすべて本に書いた。本に書いてあること以外に知りたければ聞いてください。日記を見て記憶を引き出せば、何か出て来るかもしれない」
 

 「歴史は興味半分で書くものではない」
 またたく間に予定の時間が過ぎてしまった。佐々木氏は疲れもみせずに、答えてくれるので、助かった。もう八十歳と聞いてびっくりした。言葉ははっきりしているし、よく記憶している。七十すぎぐらいにしか見えない。文筆が大好きで、今でも朝から書いたり読んだりしているが、若い頃元気に歩きまわったのが今になってみるとよかった、と述懐している。中国を郵便長として飛び回ったことを指しているのだ。佐々木氏は昭和二十五年に郵政省をやめ、雑誌「ゆうびん」を創刊した。会員制のもので、郵便局でも売った。これが当たって、一時は発行部数四万七千を数え、五、六人のスタッフを雇った。その時の会社が今の部屋である。この成功で財をなしたと言っていた。数年前、四百号を出したので廃刊。現在は中国で体験したことをまとめ、関係者に配りたい。そのために余生を捧げている、と言う。
 結局、インタビューは一度では不充分なので、よくわからなかった点など改めて聞くことになった。二度目の時、心持ちきびしい口調で言われたことが印象的であった。
「歴史は興味半分ですらすら書けるものではない」
南京大虐殺を主張している人たちへの激しい抗議であろう。

 
今回のエントリーのネタ元は『南京事件論争史』P175

*1:じゅん刊 1985年1月5日号 「聞き書き 昭和十二年十二月 南京」

*2:続編:http://www.amazon.co.jp/dp/B000J9D61W

*3:リンク先は2002年に出版された文庫版

*4:きっと編集上のミスか何かでしょう。阿羅さんたらあわてんぼうさんだなー♪