中島日記

南京陥落後一週間企画
収録 『南京戦史資料集』 南京戦史編集委員会 偕行社


中島今朝吾 第十六師団長・陸軍中将


日記 P322〜333  ※カタカナ→ひらがな。漢字等一部改変。軍隊符号の読み方→参照

十二月十三日 天気晴朗
 早朝20iの将校斥候は中山門に入りて敵兵なきを発見しここに南京は全く解放せられたりと知る
一、33iは第一峯を下りて午前八時天文台を占領し次で各隊は逐次城壁に迫りたり於[ここ]砲兵をして万一に備へしめ歩兵工兵協同機堂[動]の上万全を帰[期]して徐々に城内の清掃に任ずべく処置す
 又昨日来佐々木支隊方向に於ては南京より脱出したる敵と鎮江方面より退却したる敗残兵とに会して進行遅延すると共に後方に相当の掩護兵を残置しあり
 下関に進出の時機を失するの憂あり依りて33iには速に大[太]平門に下りたる後主力を以て直に玄武湖東北側を経て旅団に追及するを命ず
 (昨日既に一大隊を分派せり)
 又前方を追究せんとする野砲二中隊軽榴一中隊を反転せしめて直に佐々木支隊を追及せしむ
一、騎兵聯隊は午後一時頃始めて下麒麟門に到着したれば直に佐々木支隊を追及せしむ
一、昼間に於て敗残兵は仙鶴門附近より概して紫金山東側林道に進出して我後方部隊を騒擾せしむるものあり依りて予備一中隊をして之を掃蕩せしめ紫金山西南南側は片桐部隊をして掃蕩せしむ
一、正午過20iの先要[発]の大隊は城内に入りて掃蕩を開始す
○予は第九師団の先を争ふて入城せんとする当初よりの面白からざる心に不快を感じ居るものなれば中山門よりの入場を止めて彼等百姓根性の奴に譲り、旁々下関方面の戦闘の進捗を指導する為め該方面に転進するに決し
 中沢大佐を草場少将の許に出し中山門方面の状況を確むると共に其後の処置を一任したる上出発することとしたる処紫金山東方道路は敗残兵に遭遇する公算多く富貴山附近すら安全となれば此方面より転進するを可とするを以て之を待ちたるが
 午後一時中沢大佐の報告に依り大[太]平門は之を占領し富貴山の清掃に付いて此方面より転進するを可とする意見に同意し直に西山戦闘司令所に移転するに決す
  此日戦闘指導の為此地に躍進する為既に通信設備を感性しありたり
 一、天文台附近の戦闘に於て工兵学校教官工兵少佐を捕へ彼が地雷の位置を知り居たることを承知したれば彼を尋問して全般の地雷布設位置を知らんとせしが、歩兵は既に之を斬殺せり、兵隊君にはかなわぬかなわぬ
一、斯くて西山郵便局に於て爾後処理中午後六時に達したれば今夜ここに宿営す
一、午後三時半佐々木支隊は下関を占領すとの報あり
一、正午前後の敵爆撃機は南京市内を爆撃す
◎昨夜33iが第一峯を占領するや軍司令官宮殿下より賞詞あり酒一樽ウヰスキー三、果物を賜りたれば之を33iと之に協力せし砲兵隊に分贈せり
○一昨夜第一線各隊の奮闘に対し聊か謝意を表する為南京攻略後の祝酒として携行せし酒を第一線に追送分配したり
一、本日正午高山剣士来着す
  捕虜七名あり直に試斬りを為さしむ
  時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頸二つを見込[事]斬りたり
一、午後司令部は躍進して西山の麓にある郵便局に移り此処にて事後処理を為す
一、閑を得て西山の古戦場を視察す
  東側に鉢巻したる散兵壕陣地にして概して応急施設に属す 之に依りて見れば支那側も南京迄が攻撃せらるるものとは考へあらざりしならん後に至りて聞く処に依れば南京の電灯会社も十三日朝迄運行しありたりとも云ふ

一、陣地内に猟用12番の弾薬あり収集し帰る銃を探したるも見当らず後兵キ[器]部員大中少佐が12番のブローニングを発見し呉たり
 之れは近接防禦の為兵が携行したか将又銃砲店主が自主的に戦線に参加したるか何れにしても近迫戦に散弾を使用したる考案は予の天津、大連にて自衛用として猟銃を探したると相似たる点あり
一、夕刻附近の独立家屋(医者の別邸らしきもの)に宿泊す
◎捕虜掃蕩
一、十二日夜仙鶴門堯化門附近の砲兵及騎兵を夜襲して尽[甚]大の損害を与へたる頃は敵も亦相当の戦意を有したるが如きも其後漸次戦意を失ひ投降するに至れり
一、十二日夜湯水鎮附近にも敗残兵の衝突ありたりとて軍司令部衛兵、警備中隊が戦闘したりとて師団輜重の通行中、弾薬補給を要求せられたりと云ふ
一、宮殿下の御身辺を護衛するの必要を感じたるを以て参謀長は一−二中隊を増派せんとして之を軍参謀長に打合せしめたるに既に
*第九師団より歩兵一コ聯隊を出したりと云ふことを聞けり
 己れの作戦地境内にはあらず又第九の隊は第十六の隊より近きにあらず敗残兵に対する目的を以て歩兵一コ聯隊を派遣したる人の心の底は真に同情に値するものあり依りて我方は手を引きたり
一、此日城内の掃蕩は大体佐々木部隊を以て作戦地境内の城門を監守せしめ草場部隊の二大隊を以て南京旧市より下関に向つて一方的圧迫を以て掃蕩せしむることとせり
一、然るに城内には殆んど敵兵を見ず唯第九師団の区域内に避難所なるものあり老幼婦女多きも此内に便衣になりたる敗兵多きことは想察するに難からず
一、中央大学、外交部及陸軍部の建築内には支那軍の病院様のものあり支那人は軍医も看病人も全部逃げたらしきも 一部の外人が居りて辛ふじて面倒を見あり
  出入禁止しある為物資に欠乏しあるが如く何れ兵は自然に死して往くならん
  此建築を利用せるは恐くは外人(数人あり)と支那中央部要人との談合の結果なるべし
  依りて師団は 使用の目的あれば何れへなりと立除[退]くことを要求せり
  又日本軍が手当することは自軍の傷者多き為手がまわり兼ぬるとして断りたり
一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見到底其始末に堪へざる程なり
一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くること、なしたる[れ]共千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一旦?[騒]擾せば始末に困るので
 部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ
 十三日夕はトラックの大活動を要したり乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速には出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり
一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大[太]平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三○○其仙鶴附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る
一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のケ[カ]処に誘きて処理する予定なり
一、此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く、従つて師団は入城だ投宿だなど云ふ暇なくして東奔西走しつつあり
一、兵を相当すると共に一方に危険なる地雷を発見し処理し又残棄兵キ[器]の収集も之を為さざるべからず兵キ[器]弾薬の如き相当額のものあるらし
  之が整理の為には爾後数日を要するならん


十二月十四日 西山高地野滞在
一、此日尚城内の掃蕩未完
 加之城外に分散したる部隊の集結、敗残兵の処理等に大多忙を極む
一、花岡より中山陵視察を進められたるも地雷の尚未だ整理出来ざる時万一の事でもあつた時師団長は見物に出て地雷で怪我したとありては武士の面目丸潰れなれば一切他出せぬこととせり
一、入城式の件、
 予は中山門より入場を肯んせず
 その功名を争ふ奴隷あり之等と共に行動するを恥辱とすればなり
 十二月九日十日歩兵第三十五聯隊[第九師団]の一大隊は柴金山を占領せりとの報告せるものあり
 次いで此聯隊は我作戦地境内に侵入して十日-十一日突撃路を開きたる中山門の方向より一番乗りを企図したること是なり
 師団の正面は柴金山より流れたる併行せる稜[稜線]を越へ谷地攻撃に抱[掛]りて谷地攻撃を以てすると此攻撃は是非高き方より進まざるべからず 然るに第九師団正面は平地にして又敵の主防正面にあらざるを以て速に光華門に近[づ]き且其扉の破壊せられたるをのぞきはしたれども入城する能はず戦況発展せず加之護城河の障碍ありて進み難きを以て敢て他師団の区域に侵入し来りたるは背徳行為も亦甚し
 十三日朝我方20の一中隊が午前三時半突入するや引続き第35の件の大隊が侵入せりとて20iにては大に憤慨しありたり
 次て十三日夜湯水鎮にありたる軍司令部附近敗残兵の攻撃を受けたるとき第九師団は速に歩兵一聯隊を護衛の為に派遣したるが如きは第十六師団の作戦地境を無視し、たかが残兵に対して歩兵一聯隊を出すなり之を巧言令色的行動と見ずして何ぞや 以上の如き奴の団隊と共に南京に入城することは予は肯んずる処にあらず依りて予は南京入城を彼等に譲りて下関に向つて転入せんとせり
 然るに幕僚間には異議ありたるものの如く師団長は屈して師団将兵の名誉の為に先登に立ちて中山門より斉〃堂〃入城すべしとの意見ありたれば是も尤のことなれば予はここに中山門より入場するに決せり


十二月十五日 晴天にして暖、中央飯店
一、既に一部掃蕩隊が入城しありたるも此日新たに入城式の形式を以て南京占領の一段落をつくることとせり
一、各隊は事後処理の任務遂行に差支なき範囲に於て代表部隊を堵列せり師団司令部各部隊長培[陪]従の上午後一時三十分中山門より入城し
 国民政府庁舎を師団司令部に充当しありたれば同庁舎に入り国旗を掲揚し各部隊長及将校の参列の上大元帥陛下の万歳を三唱し 今日こそ真に樽酒に口つけ飲[ま]んといふことにして祝盃を挙げたり
一、次で午後四時頃師団司令部宿舎に充当したる中央飯店に入り宿泊す
一、敗残兵掃蕩
 十三日夜より各方面を掃蕩するの必要を感じ軍より各師団に区域を配当して之を行ふことなれり
一、十五日より直に実行すべきも一と先入城の上各隊の宿舎に落付かせ爾後軽装して全員を以て之を実行することとし十五日は宿営の応急設備とせり
一、十六日十七日二日間を以て掃蕩することとし両旅団に区域を配当し各隊は各併行路に一部隊を進ましめて隘路の出口に至りて一泊し翌日又同様にして宿営地に帰還せしむることとす
 爾後は両旅団より各一警備大隊を出ささしめ他の二大隊宛は城内外に近く宿営し何時たりとも一大隊の増援をなし得る如くして待機姿勢に移る



十二月十六日
 [記事なし]



十二月十七日 晴天寒くなる 中央飯店
一、此日午後一時三十分よい方面群司令官各軍司令官の中山門より入城式あり、各師団其他の部隊は代表部隊を堵列せしめ次で予め準備せる式場たる国民政府に至りて国旗掲揚式、
 大元帥陛下の万歳三唱 次で祝宴を設け式を終る
 海軍側よりは司令官長谷川[清]中将参加す
一、当日まで南京附近は殊の外暖かなりしが午後より寒気頓に加はり夜に入り小雪降りたり


十二月十八日 晴天寒し 中央飯店
 城内飛行場を慰霊祭場とし第十六、第九、第六、第十八、第百十四[師団]其他砲兵旅団外独立部隊全員集合の上壮厳なる慰霊祭を行ふ
一、予は兼てより考案しありたる宿舎を軍官学校内校長官舎として蒋介石の為に建てたる家に引移り
 一は中央飯店の煩を避け一は部下をしてのんびりせしめんとしたるが帰途立寄りて下検査せり
一、南京入城前後の往来
 (1) 西本願寺法王大谷光照慰問の為来訪
 (2) 青木亮貫一行が留守宅より預り来りたる「ルユクサツク」を受取る中に手紙と鹿皮シヤツと沢山の褌とありたり
 (3)
  於常州
上陸直進軍攻略常熟無錫常州更占領丹陽城 整軍容 準備南京攻略
泥濘連雨行路難
車普通歩行不易
大道橋壊修復進
集舟進軍正南船
常熟攻撃我砲無 
熟果落砕僅拾片
無錫攻略何譲也
勿言火砲僅三門
敢以機動進又勝
常州奪取勢所然
江上風荒楊?滞
行李輜重在上海
前後相距八十里
集結不成機難逸
更進鋒屠丹陽城
休兵準備南京攻
 
第九聯隊大原隊第四中隊第三小隊一等兵松村清太郎
塘沽碇泊大隆丸古川虎三郎天津丸
 
 昭和十二年十二月中旬
  支那事変第三号
   南京以降[以上、日記帳表題]
 済南をぶなんに過ぎて
さいなんをよけて通れば
  養安大安の
   除 愁(徐州)
  かなしみよけの銅山の空
 かたくともすかたやさしく
(蘭)    すくな葉に
  こころの花のかほり
       ゆかしき
 
一、昭和十二年十二月十五日第十六師団南京中山門より入城式を行ひ 同十七日方面軍司令官松井石根大将、上海派遣軍司令官 朝香宮殿下 第十軍司令官柳川平助中将らは又中山門より入城式を行ふ
一、第十六師団は将来南京附近第一線警備に任ずる為でもあろうが其にしても軍司令部が南京に来るに係らず国民政府庁舎を第十六師団に充当したるは師団としての名誉なり
一、十八日兎も角方面軍としての慰霊祭を行ふ師団に在りては遺骨整理も未だ出来ず何れ其内改めて内[地?]向に懇親的に慰霊祭を行ふ筈なるも全軍主力の集結したる時の催しとして真に機宜に適したるものなり
 之を以て一応南京占領の儀式は終りたるものなるも然し此後に残されたる実際的整理は是からなり
 以下南京占領後処理次で南京警備日誌に移る 


十二月十九日 薄曇り
一、此日中央飯店より軍官学校内校長(蒋介石)官舎に移る警備の為の歩兵一小隊あり
 別に趣味生活の相手として天竜寺村上和尚、花岡萬舟、高山剣士、浄土宗黒谷本山派遣白崎軍僧と映画班の二名と当番及宮本副官と共にす
一、戦勝後のかっぱらい心理
 我々が入るときは支那兵が既に速くより占拠したる処である彼等には遺棄書類によつて見れば大体四、五月以降給料は払ふてない其代りかつぱらい御免というので如何なる家屋も徹底的に引かきまはしてあるから日本軍の入るときは何ものもなく整頓しては居らぬ
一、そこに日本軍が又我先きにと進入し他の区域であろうとなかろうと御構ひなしに強奪して往く此は地方民家屋につきては真に徹底して居る 結極[局]ずふずふしい奴が得といふのである
 其一番好適例としては
 我ら占領せる国民政府は中にある既に第十六師団は十三日兵を入れて掃蕩を始め十四日早朝より管理部をして偵察し配宿計画を建て師団司令部と表札を揚げあるに係らず中に入りて見れば政府主席の室から何からすつかり引かきまわして目星のつくものは陳列古物だろうと何だろうと皆持つて往く
 予は十五日入城後残物を集めて一の戸棚に入れ封印してあつたが駄目である翌々日入て見れば其内の是はと思ふたものは皆無くなりて居る金庫の中でも入れねば駄目といふことになる
一、日本人は物好きである国民政府といふのでわざわざ見物に来る唯見物丈ならば可ナルも何か目につけば直にかつは[ぱ]らつて行く兵卒の監督位では何にもならぬ堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである
 自己の勢力範囲内に於て物を探して往くといふならばせめても戦場心理の表現として背徳とも思はぬでもよかろうが他人の勢力範囲に入り然も既に司令部と銘打ちたる建築物の中に入りて平気でかつは[ぱ]らうといふのは余程下等と見ねばならぬ
一、中央飯店内に古器物の展覧会跡あり相当のものがあつて之を監視したが矢張りやられたとうとう師団長が一度点検した上錠をかけて漸く喰止めた位である
一、軍官学校校長官舎は蒋介石が居たとのことで予が占拠する筈にしてあつた 第九聯隊を出してまで取りて置いたのに自己の宿営区域にもあらざる内山旅団[野戦重砲兵第五旅団]司令部が侵入して之も亦遺憾なく荒して仕舞つた
 とうとう中央飯店の家具を持ち運びてやつと住へる様にしたのである
一、戦場には所有権否定案が如実に表現して居る我々も支那人に対しては怖られて居るが日本人仲間の間所有権否認は之れ亦功利主義利己主義個人[主義]の発達した一大現象と見ることが出来るだろう
一、軍隊で自動車を捕獲して検査小修理を兵卒がやつて居る
 通りかかりたる将校が一寸見せろとのぞき込む つづくつて其儘乗り逃げして往く
一、最も悪質のものは貨幣掠奪である中央銀行の紙幣を目がけ到る処の銀行の金庫破り専問のものがあるそしてそれは弗に対して中央銀行のものが日本紙幣より高値なるが故に上海に送りて日本紙幣に交換する此中(仲)介者は新聞記者と自動車の運転手に多い上海では又之が中買者がありて暴利をとりて居る者がある
 第九師団と内山旅団に此疾病が流行して張本人中には輜重特務兵が多いそして金が出来た為逃亡するものが続出するといふことになる 中山旅団の兵隊で四口、計三、○○○円送金したもの其他三○○、四○○、五○○円宛送りたるものは四五十名もある 誠に不吉なことである