月刊『正論』 映画「南京の真実」製作日誌 *1

関係箇所を抜粋。掲載連載回を[]内に表記。平成19年10月号(9月1日発売)が連載第1回。
 

七月十四日(土) [1]
台風の影響で終日雨と風。家に居て、南京の脚本直し
 
七月十五日(日) [1]
靖国神社は「みたままつり」、この雨は人出も少ないだろう。撮影も明日に延期した。
 
七月十六日(月) [1]
明日のアメリカ行きについて、製作部と打ち合わせ。
ロサンゼルスのプロデューサーから、ワシントンの国防総省アーカイブにある東京裁判の記録フィルムの南京部分は、約六時間との報告。・・・・・・古い戦争フィルムと東京裁判の記録フィルム、現在、撮影中の生き残り兵士たちの証言、そして研究者たちの解説を加えれば、もう一本の貴重なドキュメンタリー映画となる。
 
七月十七日(火) [1]
午後四時、成田空港に製作スタッフと集合・・・・・・ロスアンゼルスアメリカ時間の七月十七日の昼頃、到着。
(アメリカ側プロデューサー)Sさんのプロダクションスタッフと打ち合わせ兼夕食。
 
七月十八日(水) [1]
十一時、アメリカ側プロダクションの製作陣と製作資金、俳優問題等の打ち合わせ。
七月五日に日系アメリカ人による英字新聞Nichi BeiTimes(日米タイムズ)紙上で、日系米人と称する人物がひどう妨害文書を発表していたことを知る。
午後はスタジオ視察へ。
 
七月十九日(木) [1]
昨日とは別の二つの総合スタジオを視察。最後に見たスタジオが一番今度の映画に適応していると判断し、ここを使おうとみんなに伝える。一同も賛成。一日あたり約六千五百ドル。
ビバリーヒルズの大衆レストランで食事と打ち合わせ。五時間に及んだ。本格的な撮影と製作はこの秋から実行することに決めるが、完成は来年始め頃に延びそうだ。法律的な問題も話し合い、脚本の直しに生かすことにする。
 
七月二十日(金) [1]
午前中、ロスの道路を中心としたロケハン。
午後、撮影監督で監督もするR氏のプロダクションでミーティング、
 
七月二十一日(土) [1]
中華街ロケハン。
ロスガトスのアイリスチャンの住んでいた自宅へ。
アイリスが車で自殺現場へ向かったコースを走る。
サンノゼにあるアイリスの墓のある霊園へ。
アイリスが銃を購入した銃砲店、担当の警察のロケハン。
 
七月二十二日(日) [1]
朝からロスガトスへ向かい、脚本にある車の走りシーンの道路を探す。
サンフランシスコへ戻り、金門橋、その他の市内ロケハン。
 
七月二十四日(火) [1]
南京映画の支援金が一億四千万円を超える
 
七月二十七日(金) [1]
アジア系米国人による雑誌Asian Weekの記事に、フィリップ・W・チョンという韓国系の劇作家が、また「南京の真実」を攻撃する「歴史修正主義に手を貸すな」という文章を発表していた。
 
八月七日(火) [2]
午前中から脚本第三稿直し。
熊本ロケ、アメリカロケハンを打ち合わせ。
記録写真の撮影追加分を指示。
 
八月八日(水) [2]
本直し。ほぼ前面直しの前半部分が終わる。
 
八月九日(水) [2]
午前中、南京脚本直し
 
八月十四日(火) [2]
十五時半、熱海のU氏来社。F・キャプラ監督の「バトルオブチャイナ」の翻訳、字幕スーパーの打ち合わせ。
 
八月十七日(金) [2]
監査役Sさんを交え経営会議。チャンネル桜友の会加入者が伸び悩み、動画配信のSO-TVも苦戦、ユーチューブへのアップを黙認しているせいか、赤字体質変わらず。来週、持ち株会社の口座から、経営資金三千万円をチャンネル桜の口座に移動することを了承。厳しい。
夕方、南京の撮影済みインタビューの粗編集の一部をチェック。
夜、演出部、製作部で脚本の打ち合わせ。主役の母親像のディスカッション。
 
八月十八日(土) [2]
後半部分の脚本直し
 
八月十九日(日) [2]
終日、脚本直し
 
八月二十日(月) [2]
直し脚本を井上Pに送る。そのままアメリカに送り、翻訳させる。
南京の記録編集部分の試写を見る。
製作部と熊本ロケについての打ち合わせ。
 
八月二十一日(火) [2]
井上Pから電話。アメリカのプロダクションから連絡があり、こちらの映画制作に関われないと通告してきたという。
善後策は、もう一度考え直し、体制を立て直すとして、明日からの熊本ロケの準備をする。
 
八月二十二日(水) [2]
熊本ロケ。
 
九月三日(月) [3]
南京の記録写真とフィルムの粗編集を製作主任、助監督達と見る。
先日の南京攻略戦参加兵士のインタビューの粗編集も見る。
 
九月四日(火) [3]
これまでのロケテープのチェック
 
九月五日(月) [3]
南京問題で、俺も小説を書こうかなと、ちらりと考える。
 
九月七日(金) [3]
米国ワシントンから送付された東京裁判(南京部分)のフィルムを見る。まだ半分だとは言え、関係ないものや足りないものも多い。
 
九月十一日(火) [3]
アメリカ撮影が不調な場合に備えてのプラン作成。
 
九月十二日(月) [3]
夕方、SQ12便にてロスアンゼルスへ・・・・・・十二時五十分、ロスアンゼルス到着
銃砲店候補地ロケハン
 
十月十八日(月) [4]
映画ポスターに、少女が草原の彼方を見ているような西原理恵子のやさしいイラストが使えないかと提案がある。
夜、キャスティングの打ち合わせ。ほとんど全滅。
 
十月十九日(金) [4]
製作部、演出部全員で、キャスティングのやり直しのミーティング。何とか、そんなにスターでなくても、演技力がある、やる気のある、キャラクターの面白い人間を揃えるように指示する。
 
十月二十日(土) [4]
インターネットに流れる南京関連文書の整理をする。
靖国神社へロケハンをかねて、秋季例大祭に参拝。
 
十月二十二日(月) [3]
映画の一部で、いわゆるA級戦犯と呼ばれる松井石根大将や東条英機大将ら、東京裁判で絞首刑の判決を受けた七人の死刑囚が登場する。
 
十月二十二日(月) [4]
キャスティングの打ち合わせ。うまくいかない。ここまで役者の世界が左翼イデオロギーにどっつり浸かっていたのかと驚く。他の準備は進んでいるのに、かなりまずい状況だ。
 
十月二十三日(火) [4]
助監督と小道具の打ち合わせ
井上Pから「南京の真実」第三部アメリカ編のプロダクション提携に関する報告を受ける。
製作とキャスティングの打ち合わせ。
東京裁判における南京部分の試写。松井大将の尋問部分はあるが、個人立証の演説部分がない。もう一度、発注のやり直し。
 
十月二十四日(水) [4]
撮影用の「能」関係の本と能面についての資料調べ。
古美術商「伊勢屋」のI氏を訪問、能面を二面お借りすることになる。
 
十月二十五日(木) [4]
渥美国泰さん来社、顔合わせ。
製作打ち合わせ。
助監督と小道具関係の打ち合わせ。
キャスティング打ち合わせ。
記録のTさんと脚本の時間等の打ち合わせ。
 
十月二十六日(金) [4]
成城の東宝撮影所に。途中、緑山スタジオが突然、オープンセットロケをキャンセルできないかと申し入れてきたことを聞く。
松井石根役の浜畑賢吉さんと顔合わせ。
続いて久保明さんと打ち合わせ。
 
十月二十七日(土) [4]
南京の真実:第一部である「七人の『死刑囚』の脚本直し
映画用の資料として、いろんな能の謡曲集を読む。「鵺」「頼政」「守久」「景清」等々。
 
十月二十八日(日) [4]
「七人の『死刑囚』」脚本直し
 
十月二十九日(月) [4]
東宝撮影所で寺田農さん、三上寛さん、十貫寺梅軒さんと顔合わせ打ち合わせ。
夕方から緑山スタジオのオープンセットの立て込み具合を視察。
デザイナーと日活スタジオのセット打ち合わせ。
東條英機役が藤巻潤さんに決まる。
 
十月三十日(火) [5]
靖国神社広報課宮澤氏を井上Pと訪問。大鳥居前での撮影許可を申請。前向きに検討と返事をいただく。
東條由布子さん来社、資料提供と協力を約束してくれる。
上田さんが、古本屋でやっと手に入れた「東京裁判全速記録十巻」を届けてくれる。約二十四万円。
青山、観世流鉄扇会の能役者西村高夫氏を井上P、社員Hと訪問し、撮影協力を依頼。
 
十月三十一日(水) [5]
俳優の藤巻潤さん来社、打ち合わせ。
 
十一月一日(木) [5]
熱海の興亜観音へロケハン。ご住職の歓迎を受け、お茶やお菓子でもてなしていただき、映画出演についても快諾をいただく。
緑山のオープンセットへ。処刑場のセットもほぼ完成していた。
美術とカメラの打ち合わせ。「時間」を意識したドラマだと伝える。
 
十一月ニ日(金) [5]
靖国神社。「南京の真実」スタッフ、昇殿参拝。約三十名。役者も浜畑賢吉藤巻潤さん他五名参加。
靖国会館にてオールスタッフ、撮影前の総合打ち合わせ、約二時間。
製作進行のナベさんから、やはり緑山スタジオが、役者の控え室に貼るタイトルから「南京の真実」を外してくれと丁寧に頼んできたこと、また映画の協力テロップに緑山スタジオを入れないで欲しいと頼んでいたことを報らされる。
池袋サンシャインシティ前の中央公園「巣鴨プリズン処刑場所跡」の石碑に御参り。
 
十一月三日(土) [5]
資料調べ。
製作打ち合わせ、予算の詰め。
上田さんが新たな巣鴨プリズンの資料本を持ってきてくれた。
上田さんから電話。巣鴨プリズンの図鑑本を発見して持ってきてくれる。美術セットの小さな間違いが分かり、デザイナーと電話で打ち合わせ。
ナベさんから緑山スタジオからの再度の協力テロップはやめてくれとの伝言。
 
十一月四日(日) [5]
近くの喫茶店で昼食兼絵コンテ描き。
 
十一月五日(月) [5]
オープンセットでのロケ撮影初日。
絵コンテの続きを描く。
田園都市線青葉台、タクシーで緑山スタジオへ。
六メートルの日の丸を処刑場のオープンセットの壁に飾る。
編集マンと粗編集の打ち合わせ。
十四時より実景撮影開始。
ほとんど実物大で作った処刑場のオープンセットも、撮影終了後、壊してしまうのが惜しい気がする。
夜本降りになったものの、強引に撮影続行。
子供が能面をつけて動作するオープニングのシーンを撮影。
能面は借りものなので、汚したら弁償しなければならない(後に実際にそうなった)。
撮り終えると零時を回っていた。
  
十一月六日(火) [5]
ナベさんが迎えに来て日活撮影所。スタッフルームへ。
夕方から撮影準備。
処刑直前の松井石根東條英機、土肥原賢治、武藤章被告のシーンを集中的に撮る。
朝焼けが見えてきた五時終了。
 
十一月七日(水) [6]
(緑山スタジオ・オープンセット撮影 十一月五日〜八日)
前日から、朝六時まで撮影
再び十四時頃から撮影準備開始
十七時には暗くなってきているので、撮影に入る。
広田弘毅(寺田農)、板垣征四郎(山本昌平)、木村兵太郎(久保明)、三人の処刑場までの徒歩移動と処刑場入り口で教誨師花山(三上寛)との最後の別れのシーン。
撮影はやはり朝までかかり、三日連続の徹夜となった。
 
十一月八日(木) [6]
オープンセットロケ撮影終了日。
ケンタッキーフライドチキンに立ち寄り、スタッフ用に差し入れを買う。
十四時から昼間の処刑準備シーンを撮影。
夕方から、クレーンショット中心の撮影を続ける。
イメージ用の様々な情景も撮影。
夜は能関係の役者七人が来て、幻想シーンの撮影。
二十一時頃、幽霊約の烏丸せつこ到着、衣装合わせの後、撮影。
花山のラストシーン等を撮影しているうちに夜が明け始め、ばたばたと急いだ撮影に。
 
十一月九日(金) [6]
朝六時半オープンセットの全ての撮影終了。
夜明けの処刑場全景や朝風景などが撮れてよかった。
それにしても何十カット撮ったか分からないくらい撮りに撮った。
高校時代の同級生で音楽家のKと久しぶりに会い、映画音楽の製作を依頼する。
 
十一月十日(土) [6]
スターチャンネルで「フィラデルフィア」をやっていた。・・・・・・「七人の『死刑囚』」の参考にと再度見た。
助監督の本間から電話があり、小道具の仏像についての相談、美術が間に合いそうもないので、私の持っている仏像を使うことにする。
井上Pからも電話。東京裁判の実写フィルム収集の現状報告。苦戦中。
古本屋「時代屋」で能関係の本を購入。
夜は能関係の本を読む。朝まで止まらない。
 
十一月十一日(日) [6]
世田谷特攻観音に御参り。
調布の日活撮影所へ。
親友の古美術商池田に電話して、もう一体必要なので立像の仏像を貸してくれと頼む。
セットの立て込み具合を見る。処刑場セットは第七スタジオの天井まで作られた本物と変わらぬ立派なものだった。
本邦初の事実に基づいたリアルで厳粛な処刑シーンとなるだろう。
 
十一月十二日(月) [6]
スタッフからチャンネル桜掲示板の報告。「七人の『死刑囚』という題名に文句をつけてくる人がいるらしい。
音響効果の橋本氏来社、イメージを話す。
製作スタッフが能のセンセイから「鵺」(ぬえ)の謡いの部分を貰ってくる。これに合わせて編集する。
オフライン試写をビデオフォーカスにて。
 
十一月十三日(金) [6]
助監督の本間から電話で仏像、囚人部屋割りの問い合わせ。
監督補の河原君と自宅近くの喫茶店でスケジュール打ち合わせ。
武藤章中将の辞世の小唄の指導テープも届き、それを聞く。・・・・・・これを十貫寺さんに渡す。
明日の音楽打ち合わせ用のレコードを準備する。やはり、バッハとヘンデルが中心となる。
 
十一月十六日(金) [7]
日活撮影所スタジオ、第七ステージの撮影クランクイン。
絵コンテの確認と暖かいコーヒーを飲む。
まず靖国神社からお出でいただいた神官に、セットとスタッフへの御祓いをしていただく。・・・・・・その後、招魂の降霊の声も録音させていただく。
松井石根(浜畑賢吉)、東條英機(藤巻潤)両大将と武藤章(十貫寺梅軒)中将への死刑執行宣告シーン。
独房前廊下シーン。
今日はここまでとしたのが翌日の午前四時。
 
十一月十七日(土) [7]
処刑場へ向かう直前の松井、東條、武藤、土肥原賢二(渥美國泰)らの最後の仏間前廊下セレモニー。ここで仏像に礼拝し、ブドウ酒を飲み。署名し、水杯を交わすシーンである。・・・・・・ドラマとしては冗長になるが、七人の取った行動はひとつひとつをきちんと再現しようと、演技させ、撮影する。
二十一時にて終了。
  
十一月十八日(日) [7]
処刑前後の仏間のある廊下と処刑場の準備シーン。今日は花山信勝教誨師(三上寛)のシーンが中心。
十九時で撮影を終え、その後子役等の録音。
製作控え室で製作陣とスケジュールの打ち合わせ
 
十一月十九日(月) [7]
撮り残した処刑前の廊下のシーン。
手錠のままの一同による「天皇陛下万歳」と「大日本帝国万歳」の三唱。
チャンプレンスルームでの、それぞれの述懐シーン。
撮影終了二十八時。
 
十一月二十日(火) [7]
三十年前と変わらず撮影所の食堂で、藤巻さんたち役者と一緒に食事。
処刑シーン。クレーンでワンシーン・ワンカットの撮影。
昨日撮り残したチャンプレンスルームの告白シーンの撮影。
二十四時終了。
 
十一月二十一日(水) [7]
チャンプレンスルームと独房棟廊下、最後の聴聞室のシーンで、役者もほぼ全員の出演となる。
撮影終了は二十二日の午前六時。
私だけが元気だが、その様子を見せないようにする。
 
十一月二十二日(木) [7]