保守論壇は、内部に敵がいる!

 
今年の2月15日二階堂.comにアップされた 水間政憲氏「保守論壇は、内部に敵がいる!」 というエントリー。
文章は全てスキャン画像だったので、ブックマークだけして読まないでいたのですが、
最近、百人斬り訴訟の経緯に興味がもったので読んでみたところ、これが面白い!
ということでテキストに起こしてみました。*1
この文書が出されたのは2005年4月で、地裁判決が出た2005年8月23日の少し前になります。
基本的には百人斬り訴訟支援組織内での主導権争いのようですが、なんとも陰謀渦巻く、というか陰謀論渦巻く状態になっていたようですね。
既に判決確定後だから強く抱く印象かも知れませんが、どうも支援者、とくに水間さんや阿羅さんは、「百人斬り」や「南京事件」を否定することで本訴訟に勝つつもりだったようですね。とくに佐藤振壽証言に関する認識のズレっぷりは、喜劇的というか気の毒になってしまいます。
 
個人的に興味深かった箇所を抜粋しておきます。

東中野氏は阿羅氏と畠中氏が同一人物であったことを知りませんでした。そして同著四版で高橋氏の文章を畠中氏(阿羅氏)の月曜評論に掲載されたものに差し替えることになりました。

近現史研究家で本多勝一氏を攻撃できる旧知の田辺敏雄氏が来てくれましたので、会議メンバーに参加していただこうと入室をもとめたところ、奈良保男訴訟委員長は田辺氏の存在を知らなかったということで、唖然とさせられました。田辺氏は、仮に野田、向井両少尉が知人などに「百人斬り」を実行したとの手紙を出していたとしても反証できると申されておりました。

溝口氏(新日鉄社員、郷田氏の側近)が選りに選って専門家の田辺氏に「佐藤振寿元東京日々新聞カメラマンは常州で向井、野田両少尉に会っていない」と執拗に申し入れて来たとのことです。

私が百人斬り支援の会に参加した当初より心配していたことは、事実審議に於いて敵が勝訴する確立は非常に低いことからくる策略です。

現在、阿羅会長を解任しようと、郷田氏と一体となって行動している郷田氏の側近・茂木弘道なる人物は小林よしのり氏が「新しい歴史教科書をつくる会」から飛び出す切っ掛けを作った張本人です。

 
 
水間政憲氏「保守論壇は、内部に敵がいる!」
 
 謹啓          (秘文書)
 時下、貴殿におかれましては益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
 さて百人斬り訴訟を支援する会も本来の姿に戻り、私としても阿羅会長を排斥しようとする動きは、断固封じたいと考えております。(資料1参照
 私が南京攻略戦問題に深く係わるようになりましたのは、昭和が終わる頃のことでありました。それは田中正明先生の知遇を得て先生の自宅にて時々、南京戦に関する様々な教示を受けたことが始まりです。その当時の"南京大虐殺否定派"は、大虐殺肯定派の大御所洞富雄氏が一九八六年に出版した「南京大虐殺の証明」の中で、「虚構を唱える論者」と批判した「田中正明、板倉由明、畝本正巳、渡部昇一山本七平、畠中秀夫、阿羅健一」の七氏でありました。
 現在、まだ保守言論人の間でもあまり知られていませんが、洞氏が敵として評価した七名中二氏は阿羅健一氏なのであります。畠中秀夫氏は、阿羅氏のサラリーマン時代のペンネームであります。
 今、話題になっている東中野修道共著『南京事件証拠写真」を検証する』の先鞭は、昭和五十九年十月二十九日、畠中氏が月曜評論に発表した「重慶での圧死」の写真であります。それは、同著二二一頁で高橋史郎氏が検証したことになっていますが、東中野氏に指摘してあげたところ、東中野氏は阿羅氏と畠中氏が同一人物であったことを知りませんでした。そして同著四版で高橋氏の文章を畠中氏(阿羅氏)の月曜評論に掲載されたものに差し替えることになりました。
 また畠中氏はロンドン・タイムズの昭和十二年十二月から同十三年一月の中国関係の記事も検証し、南京虐殺の記事が無いこと、また、南京場内の写真が一枚も掲載されていないことも明らかにしています。これらのことでおわかりになると思われますが、阿羅健一氏は、大虐殺肯定派も認める我が国における南京大虐殺を否定する象徴的存在なのであります。
 この度の「百人斬り訴訟を支援するの会」の混乱は、門外漢の郷田豊氏が裁判を妨害しようと企画した様々な策略に原因があったのです。今回この様な手紙を書くにあたって、某有名オピニオン誌のデスクから、郷田氏の妨害を阻止しようと行動した我々にたいするデマが、広がっているのことを聞き、このまま見過ごすことはデマを認めることになると判断したからであります。デマは、平成十六年七月十二日の佐藤振寿証言を前後してからのことになっていますが、重要な問題は、郷田氏が多数発信した文章に全然書かれていない同七月十二日以前にあったのであります。
 そこで、順次解説いたしますが、そもそも、「百人斬り訴訟を支援する会」は、平成四年に東京地裁に提訴した「郵便袋虐殺事件」の時に組織された南京裁判支援の会が母体となっています。その会には戦後生まれとして唯一人私も参加させていただき今日にいたっています。そこには、専門家として板倉由明氏、田辺敏雄氏もおりましたが、南京戦を戦った旧軍人さんに絶大な信頼のあった阿羅健一氏が纏め役として就任したのであります。
 平成十五年四月二十八日に「百人斬り事件」が東京地裁に提訴されました。そして、当然その提訴された時点では、「郵便袋虐殺事件」の時からの支援体制が継承されていたのであり、その時点では提訴することにたいして一切、郷田氏には相談されておりません。郷田氏は、新聞報道で提訴した事実を知って、倉林氏を通して支援活動を手伝うことを申し入れて来たとのことです。それは、郷田氏主催の中国ツアーに稲田弁護士が参加していたことが主な理由のようであります。そして、郷田氏の不思議な行動は、ここから始まります。
 支援体制はすでに継続して来たものがあるにもかかわらず、支援する会を発足するとの運動を郷田氏が始め、自分が運営委員長として、企画、訴訟支援など全てを指揮できる体制を作ったことに、不可解な目的があったと思われます。
 まず、仮事務所として、日本橋の郷田氏の事務所がなんとなく決まりました。家賃は、最初タダとのことでしたが、企画会議の中でなんとなく月壱万円になり、同事務所を共同で使用していた女性が転出した時期に女性の分を補填するかたちで、それ以後ほぼ家賃の全額を支援の会から支出させていたのです。加えて光熱費、電気代、複写機レンタルも全額支援する会の支払でした。最近、郷田氏は宮内事務局長の会計のことを問題にしていますが、"支援する会"発足後、宮内氏は月一回の定例の企画会議で、阿羅会長、郷田運営委員長、国安副運営委員長など同席のもとでそのつきの収支報告をして、その都度承認されていたのであります。また、平成十六年の一月には宮内氏は委員全員に会の一年分の会計報告をし、必要な説明をしています。そして、平成十六年の一月には宮内氏は委員全員に会の一年分の会計報告をし、必要な説明をしています。そして、平成十六年八月七日に、顧問と運営委員に発送された阿羅会長の文書でも「会計事務は七月分までは私が検分して、問題なく終了」となっています。現在、郷田氏が宮内元事務局長の会計を問題にしているのは、その後宮内元事務局長を貶める姑息な陰謀を企て、それが平成十六年七月十日に発覚したことで、宮内氏が事務局長の権限で事務処理に必要な事務用品を日本橋の仮事務所から移転したことに対する腹いせによるものです。
 その後、当然日本橋の郷田事務所の家賃は、昨年七月以降は支払われておりません。この件に関して郷田氏は、昨年暮れに「百人斬り訴訟を支援する会」の事務所を正式に郷田事務所にし家賃を払うことと、名簿の管理の二つを認めてくれれば、支援する会から手を引いてもいいなどと高池弁護士に申し入れて来たとのことです。これらの事実は、郷田氏が百人斬り訴訟支援の会に入って来た目的の一端を如実に現しています。
 さて平成十五年七月七日の公判後の第一回の訴訟支援の会議に、近現史研究家で本多勝一氏を攻撃できる旧知の田辺敏雄氏が来てくれましたので、会議メンバーに参加していただこうと入室をもとめたところ、奈良保男訴訟委員長は田辺氏の存在を知らなかったということで、唖然とさせられました。田辺氏は、仮に野田、向井両少尉が知人などに「百人斬り」を実行したとの手紙を出していたとしても反証できると申されておりました。郷田氏が指名した訴訟委員長は、南京戦研究に関して、全くの素人だったのです。これでは裁判ゴッコをしているようなものでした。そのような状態でしたから、訴訟支援は遅々として進みませんでした。
 そして、平成十五年初冬、月一回の運営委員会(企画)のメンバー、「阿羅会長、郷田運営委員長、国安副運営委員長、宮内事務局長、倉林氏、佐藤博志氏、奈良氏、殿岡氏、溝口氏、水間」の一部自宅の電話が盗聴されている様な状況の中、向井千恵子さんの自宅であやしげな人物が目撃されたりしていました。それと時を同じくして、郷田氏が定例会議の後、日本橋地下鉄の駅まで行く時、たまたま私も同行したのですが、その時「中国で通訳してくれた中国人が来日していた、これからホテルニューオータニに呼出去れていくところ・・・」とのことでした。その時の郷田氏は、旧知の友人に会うのを楽しみにしている様子ではなく、不安と心配が入り混じった顔をしておりました。因みに郷田氏は、「人民解放軍防大学」など七回も訪中しております。
 その後郷田氏は、同年十二月の定例会議の席上で唐突に、世界三十五ヵ国の専門家に招待状をだして、翌年夏頃に世界で前例のないB・C級戦犯の大シンポジュームを開催するとの企画を出して来たのです。その企画は、百人斬り裁判と直接関係ないこと、また準備など大変なこと、そしてなにより貴重な浄財を裁判に関係ないところで使用するというあまりにも荒唐無稽な企画にたいして会計責任者の宮内事務局長が強硬に反対し、私も宮内氏の意見に賛成して、その企画を葬りました。しかし、郷田氏は三十五ヵ国からの招請をあきらめたものの、翌十六年、今度は歴史シンポジューム「南京軍事裁判」の企画を持ち出したのです。それは、地裁公判が山場をむかえる時期の七月開催でした。(資料2参照)
 また郷田氏は、企画会議にかけることなく、独断で稲田弁護士に平成十六年三月末までに二百数十枚の百人斬りに関する原稿を依頼して本に出版しようと工作していたことが、同三月十五日の定例会議で発覚しました。その企画に対しては、一番大事な時期に稲田弁護士に大変な負担をかけることになるため、トンデモナイこと。また、稲田弁護士は本業の仕事だけで百件以上の訴訟を抱えていることを聞いていましたので、また宮内事務局長と私が強硬に反対してこの企画もボツにしました。
 裁判も佳境をむかえ、稲田弁護士が予てから要望していたところの「少人数による専門家との勉強会」が遅々として開催出来ませんでしたので、私が根回しして同三月末に殿岡事務所にて、「高池弁護士、稲田弁護士、向井千恵子氏、阿羅会長、田辺氏、溝口氏、国安氏、水間」で第一回の少人数勉強会を開催したのです。
 その会議の席で、私が裁判に直接関係のないシンポジュームは勝訴するまで必要ないのではと、また、稲田弁護士の負担になるのではと申し入れたところ、稲田弁護士も「直接裁判に関係のないシンポジュームは必要ないのでは・・・」そして、阿羅会長も七月に予定されているシンポジュームは必要ないとの発言があり、その場で七月のシンポジュームが中止になりました。
 会議終了後、私と阿羅会長は、そのまま帰ったのですが、田辺氏が溝口氏に誘われて、喫茶店に寄ったとのことでした。後日、田辺氏が驚いたとのことで、私に連絡して来たことは、溝口氏(新日鉄社員、郷田氏の側近)が選りに選って専門家の田辺氏に「佐藤振寿元東京日々新聞カメラマンは常州で向井、野田両少尉に会っていない」と執拗に申し入れて来たとのことです。そして、次回少人数勉強会は四月十二日に開催されることになっていたのですが、四月十一日に阿羅会長、田辺敏雄氏、水間になんの連絡もなしに国安氏(連絡係)によって中止されていたのでした。
 同四月十二日、早朝三時半に毎日新聞大阪本社前へ百人斬りの「チラシ」(私の企画)をを撒きに行っていた田原、原島女史から電話で「もうチラシ撒きはやめた、誰も日本のことなど考えていない・・・」など訳のわからないことを発して、大阪毎日でのチラシ撒きを中止して京都から帰京しました。また、同朝八時頃、渡部有氏から突然大量のFAXが送信され、内容は、大した理由がないにもかかわらず、阿羅会長、稲田弁護士、水間を批判するものでした。その二−三日後、郷田氏宅に同居していた女性の「北海道札幌にイヌイットの美術館を設立」したいとの希望で、北海道選出の国会議員を紹介して上げたり相談に乗ってあげていたのですが、五月十四日から十五日まで、北海道に同行してもらいたいとの依頼の手紙が来たのです。しかし五月十三日は、月一回の定例会議であることや、郷田氏の関係者だからと言っても、善意での限度をこえて、それ以上貴重な時間を割くこともできず、同四月十九日の公判終了後、手紙でお断りした次第です。
 また同公判傍聴の為に裁判所の外で並んで待っていたとき、稲田弁護士より、三月の少人数の専門家の勉強の席上を含め都合三回も野田、向井両少尉などの南京戦進軍経路地図を依頼されていた溝口郁夫氏が、斜め前に居ましたので、水間「溝口さん、地図できましたか」と聞いたところ、溝口氏「何でしたっけ」、水間「稲田弁護士に頼まれていた経路地図デスよ!」、すると溝口氏は返事をする事なく、ソッポを向いてそのまま中に入って行ったのです。その地図は、同五月に最重要証言者・佐藤振寿氏との事前打合わせに必要であり、また証言者として出廷した時には、その地図に添って陳述するにも必要なものでした。
 そして、四月二十三日、英霊にこたえる会の三十周年記念総会で稲田弁護士が講演をする予定でしたので、参加していたのですが、稲田弁護士がロビーに降りてきたところ、殿岡氏が渡辺有氏を同行してきて、稲田弁護士に苦言を述べさせたのです。その時、殿岡氏は、私が溝口氏に暴言を吐いたようなことを言ったのです。殿岡氏も一方の話を聞いただけで、それを鵜呑みにしていた事が、納得できませんでした。そこで、帰宅後、殿岡氏にFAXで説明して上げたところ殿岡「一方的に言ってすみませんでした。・・」と言い訳をして、殿岡氏から溝口氏に地図のことを申し入れるとのこと、すると三−四日で出来たのです。私がこの裁判に集中したい為に、郷田氏宅に同居していた女性の要望を丁重にお断りしたことも少し影響しているか、同四月三十日に、秘密会議があったようです。その打合わせの中で私は「獅子身中の虫」として扱われていたようです。(資料3参照)
 このような状態では、稔りある勉強会など出来るわけもなく、旧知の阿羅さん、田辺さんと三人で五月五日に勉強会をもったところ、稲田弁護士の父上も参加したいとのことで、四人で話し合いがもたれました。五月十日、殿岡氏との信頼関係にヒビが入った状態でしたが、三月から進めていた会報二号は、西尾幹二センセイに私が原稿を依頼していたことで、原稿を殿岡氏へ届けました。その折、訴訟支援も阿羅さんを中心でやって行くことが自然な事であると私が申したところ、殿岡「そんなんだったら、やってられない、会報の編集から降りる」と述べました。同五月十三日、定例会議(阿羅会長欠席)で専門家の勉強会の話になっていた時、郷田氏は突然大声を張り上げ「そんなに阿羅が稲田弁護士と勉強会をやりたいなら、会長をやめて勝手にやればいい」との暴言を発しました。その時の出席者は郷田氏以外に、国安氏、奈良氏、佐藤博志氏、宮内氏、水間の五人がいましたが、その全員が今は郷田氏から距離を置いています。郷田氏が取り入っている倉林氏は、郷田氏の事務所では「タバコ」が吸えない事もあって、定例会議には殆ど出席していませんでした。
 同五月十七日、殿岡氏が先週、会報の編集を降りると申し入れてましたので、原稿を受け取りに阿羅会長と出向いたところ、殿岡氏は「考えるところがあって続けることにしました」とのことでした。このときはまさか会報の発行が、七月までずれ込むことになるなど思いもよらないことでありました。
 同六月上旬に、支援の会発足と同時期に支援の会の会員になっていた月原しげあき氏の参議院選挙出馬の案内状が日本橋の事務所に届き、直ぐに会報と一緒に送ろうとしていましたが、殿岡・奈良両氏の編集作業が大幅に遅れ、会報が事務所に届いたのは、参議院告示後になってしまいました。なぜ遅れたのか、未だ両氏は一切説明を拒否しています。告示後、郷田氏は関はじめなる新人候補者のチラシも同封することを独断で決め通告して来ました。宮内事務局長は関氏について阿羅会長に無断であること、運営委員会の賛否手続きも経ていないことから反対でしたが、国安運営副委員長が郷田氏があれだけ言うのだから責任を取るというので入れることになったのです。私が手伝った時には、両候補のチラシを会報に同封して発送しました。ところが七月上旬、郷田氏は「告示中に発送した月原氏のチラシのことで、今警視庁の捜査二課が問題視している。これは公職選挙法違反であるが、直ぐに宮内事務局長等の辞表を持ち込めば、警察の心証が良くなる」などと騒ぎだしたのです。しかし、もし会報二号が予定通り同六月中旬頃までに出来ていたら、月原氏のチラシは告示前に発送出来たのであり、一切問題になることがなかったのです。
 その後、郷田氏は宮内氏と水間を除く主要メンバーを七月十日に招集しました。選挙違反の件では、私が直接警視庁に電話したところ、担当者は「そんなことはあり得ない。捜査情報が外部に漏れたら、それこそが問題で、選挙違反の捜査は選挙が終了してから始まるのです。誰がそんなことを言い触らしているのですか」と言って呆れていましたので詳しく事情を説明した次第です。七月十日午前十時半頃、阿羅会長から私に「今、郷田さんから電話があり、宮内さんの解任を運営委員全員が賛成したので、午後二時に日本橋の事務所にハンコをもって来てくれと連絡があったが、水間君は賛成したのか」との問い合わせでした。そこで、私が「郷田さんは又嘘を付いている、ハンコは持っていく必要はないのではないか」と申し入れたのです。後日、私が賛成していないことに関して、郷田氏は「彼は最初から賛成しないことは分かっていたので連絡しなかった」とのことでした。阿羅氏は宮内氏にも、このことを伝え、宮内氏が会議に出席した為に、この嘘をからめた郷田氏の陰謀は、失敗したのです。(資料4参照)
 この様な混乱の中で、同七月十一日、阿羅会長は佐藤振寿氏を十二日の裁判の為に迎えに行ったのです。阿羅会長との信頼関係がなければ、佐藤氏が法廷に立ってくれたかどうか分からなかったのです。それを今思うとゾォートします。このような最重要証言を前にしての郷田氏の行動は、利敵行為と断言せざるをえません。今回の裁判は、虚偽を審議しているにもかかわらず、支援の会の運営委員長が、大小嘘をついて裁判を妨害することなど許されることではありません。
 この件について、同七月十二日の裁判終了後の報告会に於いて、西村修平氏が郷田氏に「阿羅会長に一言の報告、相談、了解のない独断行動と捜査情報の出所」を問い質しました。すると郷田氏は「そんなことは知らん。いう必要もない。お前はしつこい奴だ。このバカ野郎!」と声を真っ赤にして大声で怒鳴りつけたのです。そして、佐藤博志氏が手を挙げて質問しても、運営委員長の権限で「今日は解散する」と一方的に宣言したのです。今まで少人数の勉強会を潰しにかかり、また、最重要証言をあわよくば葬ろうとした郷田氏の行為は、万死に値するのではないでしょうか。
 支援の会が郷田氏の事務所を今後とも使用することは、支援の会の自殺行為に等しいと判断した宮内事務局長は、郷田氏の陰謀が発覚した同七月十日より、事務所移転の条件として(明るいこと、広いこと、家賃はタダ)をホームページ上で提案したところ、高池弁護士、阿羅会長、佐藤博志氏、西村氏、原島氏、水間などの賛同を同十二日までに得ていました。郷田氏の異常な姿を見た宮内事務局長と私が相談した結果、事務局長と私の判断で適切に事務処理のできる場所に事務用品を移すことが今後の為になると判断して十四日に移動をし、最終的には「明るいこと、広いこと、家賃がタダ」の条件を満たす、高池法律事務所が支援する会の事務所となり、本来の姿に戻ったのです。
 その後の郷田氏は昨年の七月十五日以降、大小の嘘満載の文書を多数発送しています。一例を上げると、氏が言うところの「約一年間に亘る宮内、水間両人の対人トラブル」とは、郷田氏の妨害工作を宮内氏と私が阻止したことにたいする逆恨みを表現したものです。文中に「郷田他運営委員に対する非礼極まるメールや脅迫電話(宮内、水間、西村)」とあるが、私は、一度も郷田宅に電話やメールをしたことがないので、郷田氏の妄想と思われます。阿羅会長から聞いた話ですが、八月から十一月頃にかけて郷田氏は阿羅さんに昼夜を問わず五十回位怒鳴りまくったような電話を掛けてきて、ノイローゼになりそうだったとのことです。
 郷田氏は、極東国際軍事裁判法廷保存運動の時、共産党の志位委員長に面接して同意を得たと会議の席で自慢していました。しかし、これは客観的に見て評価できることなのでしょうか。なぜ共産党が賛成したかを考えてみてください。私の分析ですが、万が一にも靖国神社代替施設が建立された時。また、なぜその様な施設が必要になったかを問われた時。それは、「A級戦犯とされた重犯罪人が軍事裁判で裁かれたからです。その場所は、市ヶ谷にある東京裁判軍事法廷です」と、日教組系の教員であれば、修学旅行の学生にここがA級戦犯が裁かれた場所と説明することでしょう。その結果、日本人は永遠に自虐史観の中に閉じ込められることになります。その時、靖国神社代替施設慰霊塔と軍事裁判法廷は、一対の反日記念館として完成すると思われます。そもそも、日本人にとっての汚濁の場所を残す必要などなかったのです。その保存運動を主導した人物の行動は日本人の利益というより、中国側の利益に貢献していると思われます。
 私が百人斬り支援の会に参加した当初より心配していたことは、事実審議に於いて敵が勝訴する確立は非常に低いことからくる策略です。それは、南京戦に詳しい研究家の排除、訴訟支援のキーパーソン(宮内事務局長)の排除。その仕上げとして、稲田弁護人、高池弁護人、向井さんから信頼されている阿羅会長の排除。その結果、それらの混乱から稲田弁護士が厭戦気分になり、その状況を察知した原告が、告訴を取り下げる可能性が大きいことでした。
 それが杞憂でないことは、本年一月二八日の慰霊祭後のシンポジュームで、向井さんが「早く裁判が終わってほしい・・」との発言に現れております。郷田氏の妨害工作は、ポイントをはずしておりません。
 また、郷田氏は百人斬り裁判だけでなく、「英霊にこたえる会」にたいしても、弱体化を策して、ゆさぶりをかけています。それは、「英霊にこたえる会」の戦前世代と戦後世代とを繋ぐために活躍している宮内氏を排除しようとしていることです。
 そして最近、靖国神社代替施設反対運動の中心として、毎週日曜日に靖国神社社頭にて、広報活動をしている英霊にこたえる会・広報委員長の佐藤博志氏までも「百人斬り訴訟を支援する会」から排除しようと(資料5参照) したことで、より一層「百人斬り訴訟を支援する会」を絡めた郷田氏の謀略が明らかになっています。
 靖国神社代替施設(A級戦犯分祀)に賛成している中曽根康弘国賊であるならば、先行して代替施設と一対の施設になる可能性のある東京裁判軍事法廷の保存に奔走した郷田氏も国賊になるのではあるまいか。これら一連の策略は、中国にとって一石二鳥どころか三鳥にも四鳥にもなると思われます。現在、阿羅会長を解任しようと、郷田氏と一体となって行動している郷田氏の側近・茂木弘道なる人物は小林よしのり氏が「新しい歴史教科書をつくる会」から飛び出す切っ掛けを作った張本人です。それは小林氏から見せてもらった手紙には「自由主義史観研究会」の名をかたり「あんたは、キツネに取りつかれたのか」など、罵詈雑言満載の内容でした。そのような前歴のある人物の今回の行動は、「つくる会」の時と同じように「会」の混乱を利用していることから、単なる偶然の一致として見ることなどできないのであります。この辺りを田中正明先生と一体となって南京事件の虚構と戦って来た半本茂氏は、阿羅会長解任の策略にたいして「だれがそんな動きをしているのか、そんなヤツは国賊だ」と激怒しておりました。
 
敬具
平成十七年四月吉日

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