松井石根大将「陣中日記」改竄の怪

 
小林よしのりさんが『ゴーマニズム宣言SPECIALパール真論 』というマンガを出版し、その中で、田中正明さんの松井大将日誌改竄問題について解説しているようです。
私はまだ内容を確認していないのですが、それを読んでの影響と思われる発言を少し抜粋してみます。

コチラの「136 【お詫び】掲示板データの破損について」コメント欄における潜水艦さんの発言

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いままで、田中正明氏は藤原彰中島岳志がやったような「改竄、誤読、事実隠蔽」みたいなのをしてたのかと思ってたが、そうではなかったことがよく解った。
南京話でも槍玉にあげられてる田中氏だが、よくいわれる「九百箇所の改竄」って、大半は誤字や旧漢字なんかを直したものだったと解った。
また、板倉氏が指摘したのもそうした個所への淡々としたものだったこと。それを田中氏の著書が目障りだった朝日新聞に、著書そのものの価値がないように報道利用されてしまった経緯がよくわかる。
このあたりを読んでくると、田中氏と板倉氏が主張に違いがあっても関係が良かった理由も理解できる。二人はイデオロギーではなく、学術的に意見交換しあえる関係だったわけだ。
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コチラのコメント欄におけるmihhyさんの発言

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田中氏の「改竄」は、田中氏が松井石根の陣中日誌の全文を出版したことに端を発します。
田中氏の「改竄」を指摘したのは、南京事件研究家の板倉由明氏でした松井石根の日記の原文を見ると、古文書のような走り書きの漢文調、独特の文体であり、素人にはとても読めたものではありませんでした。
田中氏は、これを専門家に任せることをせず、自ら解読したわけですが、板倉氏の指摘によりますと、「両師団の戦況」→「各師団の戦況」、「第六師団」→「第三師団」、「蘇州又は」→「蒋介石ハ」といったように、誤読によるミスと思われるものが多くあります。
もちろん、史料編纂としては問題があることに間違いはありません。また、松井石根が「自分の精神が軍隊に徹底されない」「軍紀・風紀の乱れが回復しない」などと嘆く部分が丸々1ページ欠落していることなどは、重大と言わざるを得ません。
しかし、板倉氏の指摘は「送り仮名、漢文表記まで含めれば、その異同はおよそ900カ所以上」というものであったのですが、その後、900カ所全てを「改竄」とミスリードする話(朝日新聞本田勝一による、田中氏を敵視した記事が発端)が一人歩きすることとなりました。
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んー。私が板倉由明さんの論文を読んでうけた印象とは大幅に違いますねぇ。
朝日新聞の報道も極めてまっとうであったわけですが…・・・。
一体、どんなテキトーな解説がしてあったんでしょう?歴史修正主義者って怖いですねw
 
よしりん大センセイは一次資料にあたれ!と口を酸っぱくして言っていたと思いますんで、
『歴史と人物』1985年冬号に掲載された論文を丸ごとコピってみます。
 
※原文の傍点は太字にしております。

松井石根大将「陣中日記」改竄の怪 板倉由明(「南京事件」研究家)
 
日中戦争研究の第一級史料の活字本は、かくも原史料と異なっている--近現代史研究者への警告
 
  はじめに
「板倉さん、芙蓉書房版の『松井日記』を原本照合したところ、相違点が目立つのです。照合した人は、これまで本誌で『中島第十六師団長日記』や『小松原師団長ノモンハン陣中日誌』の読解をした人ですので、照合の間違いはほとんどないといっていいでしょう。板倉さん、あなたは『偕行』にもお調べになったデータが引かれている南京事件の研究者ですから、一度、見てもらえませんか」
 突然、私は、そういう電話を『歴史と人物』編集部よりいただいた。
 --まさか。
 正直なところ、私はそう思った。それでも私は、見るだけは見てみようと編集部へ向かった。
 編集室の一隅で史料を見せられたときは、息の詰まる感じであった。目の前に並んだ自衛隊の板妻駐屯地資料館蔵の「松井日記原本」(コピーならびにかなりの数の写真版)と、芙蓉書房版・田中正明編『松井石根大将の陣中日誌』第四章収録の「日記」との間には、見過ごすことのできない大きな差異が、それも単純ミスではない明らかに意図的な改竄がいくつも認められたのである。かねてから、いわゆる「南京虐殺事件」の研究にとりくんでいた私は、今まで気づかずに何度も田中氏編の松井日記を使って論評してきただけに、このショックを忘れることができない。
 説明するまでもないと思うが、松井石根大将は日中戦争初期の上海派遣軍司令官、さらに中支那方面軍司令官として上海−南京間の戦線の最高指揮官であった。その陣中日誌は月刊誌『諸君!』昭和五十八年九月号で田中氏が発見を報じて以来、全文の公表が期待されてきたが、本年五月、芙蓉書房から昭和十二年十一月から翌十三年二月迄の発見部分が編者注つきで出版された。ここ数年国内でも激しい論争をよび日中両国の政治問題化している「南京虐殺事件」の時期をふくむ大切な第一次資料であり、改竄などという不祥事があってはならないものなのである。
 私が編集部の話を急には信じられなかったのは理由がある。その直前に田中正明氏から私へ一通の手紙を頂いていたことによる。それは私が雑誌『ゼンボウ』昭和六十年十月号に「畠中論文への反論と『南京問題』の展望」と題する小論を書き、その中で次のように述べたことに対する反論であった。
「(松井日記は)南京事件解明の第一級資料として各方面から非常に期待されたが、意識的かどうか肝心の部分に欠落が多くあまり有効な資料ではない。(中略)戦後の改竄か意識して(不愉快なので)書かなかったのか、いずれにしても『無い』ことがかえって何かを暗示していると考えた方がよさそうである・・・・・・」「以上のように作為的とも見える欠落の多い松井日記の・・・・・・」(指摘個所は省略する)
 このとき私は松井大将が東京裁判の対策上、巣鴨入所前に日記の一部を消したのではないかと疑っていたのである。
 田中氏の手紙は私のこの記事を、聞き捨てならぬ言葉だとし、松井大将は日記を書き変えるような人物ではないと強調した上で、「(お疑いならば板妻で原本の)どうか実物をごらんになって下さい。それとも私が改竄するような小細工をする人間だとお考えでしょうか」との強い抗議文であった。
 ここまで言われれば、私は少なくとも「松井日記」を田中氏が改竄した事実はあるまいと思い、事項の欠落は松井大将自身が始めから書かなかったものかな、と考えた。いずれ板妻へ行って確認しようと思いつつ、まだ行かなかった矢先に編集部から現物を示されたのであった。
 最後まで目を通した私の結論から言おう。発見された「改竄」は、脱落だけならまだしも「書き加え」まであり、しかもそれらすべて「南京虐殺事件否定」の方向で行なわれている。これは明らかに編者・田中氏の意図的行為であると断ぜざるを得ない。
 私は今、「松井大将の陣中日誌」原本(出綾子氏読解・以下日記原本と略称)と田中氏の読解したもの(以下芙蓉版と略称)を照合しつつこの文を書こうとしているが、本論に入る前にいささか蛇足として論じておきたいことが二点ある。
 まず、責任者が書いた「日記」は通常は第一級史料と見なされている。ただしそれは極めて悍の強い名馬であり、上手に御せば千里を走るが、扱いが悪いと騎手を振り落とす。公式の文書記録類がつとめて冷静客観的に記述されるのに対し、公開を予定しない日記では遠慮なしに書き手の感情や主観、あるいは他見をはばかる情報や所見が書きこまれる。この意味で日記は水面下の歴史の動きを捉えるための貴重な史料ではあるが、注意しないと書き手と同じ独断と偏見に陥りやすい。これを防ぐには他の多くの史料との照合が必要だが、一つの事項に対する他者の記述と比較するのも案外有効である。
 人は誰でも印象に残ったもの、それも楽しかったことは記録に残したく、逆に不愉快なこと、印象が薄いことはあまり日記に書かないものである。三木清は哲学者西田幾多郎を訪ねる度に感激し興奮して長い日記を書いているが、西田の方は「三木来」だけだった(『新潮45』昭和六十年七月号・色川武大「俺と彼 同時日記の書き方」)というのは、両人の地位と感情の落差を示すものであろう。
 同じようなことは同一物の経時的変化についても言える。南京事件について、当時の外務省東亜局長石射猪太郎は『外交官の一生』(読売新聞社−大平出版社・初版昭和二十五年)の中で「日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である」と書いているが、同じ頁に引用された昭和十三年一月六日付の日記は「掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状」となっている。前者は東京裁判以後における石射氏の認識であり、日記が書かれた当時は「掠奪、強姦」だけで放火、虐殺は省かれている。松井日記の場合も日記原本と、松井大将が戦犯に問われて昭和二十一年三月巣鴨に入所する前に書いた「支那事変日誌抜萃」(芙蓉版に第三章として収録)との間には明らかに違いがあり、松井大将の心境の変化が窺われる。
 第二に一般に私人の日記は第三者には読みにくい。書いた本人にはもともと他人に見せるつもりがなかった場合が多いし、多忙なときの走り書き、本人だけ判る符丁や省略もあり、古文書の読解と同様に素人には手に負えぬことが多い。田中正明氏もこの方面では素人だと思うが、田中氏には多年松井大将の「側近」だったという前歴から文字癖を見慣れた自信があったためか、読解を専門家に依頼しなかったのであろう。ところが、専門家の手にかかると各頁がまっ黒になるほどの誤読だらけである。初めに述べた「意図的改竄」を除いてもこれでは資料的価値が著しく落ちる。いや、危なくて使えぬ、と言った方が正しい。しかしこれらの誤りを全部指摘していてはきりがない。そこで次のように分類してみた。
 
Aクラス
大きな脱落や書き加えである。脱落にはウッカリ・ミスも有り得るが、芙蓉版の場合はすべて意図的と認められると私は判断した。
 
Bクラス
小さな誤読や脱落だが、全体の状況や解釈に大きな影響(例えば正反対になる)を与えるもの。
 
Cクラス
厳密な意味では間違いだが、全体への影響はほとんど無いと言っても良いもの。芙蓉版では読み違い、送り仮名のミス等が多い。また原文の、不少・可成・可然などの漢文調をそれぞれ、少からず・成るべく・然るべくなどと表記していることも多い。これらは冒頭に校訂上のルールとして断り書きすべきであったと思う。
 
 以上のうち、ここではA、Bの両クラスの一部だけをとりあげることにした。
 この、Cの送り仮名、漢文表記まで含めれば、その異同はおよそ九百ヵ所以上に及んでいる。
 なお、芙蓉版からの引用に際しては、例えば八十一頁七行目(空行を数えず)を【八一・七】と記すことにし、日記原本からの引用は[ ]内に日記原本どおちカタカナ混り文で表示した。また、引用文中の傍点は、すべて筆者の付したもので、相違点を分かりやすくした。*1
 
 

  昭和十二年十一月
 この年七月七日の盧溝橋事件をきっかけに始まった日中の衝突はまもなく八月十三日、上海に飛火し全面戦争に拡大した。五万に達する優勢な中国軍の包囲攻撃をうけた海軍特別陸戦隊は僅か五千にすぎず、在留邦人の危機を救うため八月十五日、上海派遣軍に編祖され、予備役の松井大将を司令官として第三、第十一の二個師団の派遣が下令された。その任務は「海軍ト協力シテ上海付近ノ敵ヲ掃滅シ上海並其北方地区ノ要線ヲ占領シ帝国臣民ヲ保護スヘシ」と限定された小範囲のもので、松井大将はこれを不満とし、兵力五、六個師団、宣戦布告と南京を目標にすることを主張した。
 八月二十三日、第十一師団は川沙鎮北方、第三師団は呉淞鉄道桟橋に強行上陸したが、中国軍の猛抵抗で戦況は進展せず、九月中旬、第九、第百一、第十三の三個師団及び重藤支隊などの増援兵力が投入され、悪戦苦闘の末に日本軍は十月二十六日大場鎮を占領、翌日蘇州河の線に達した。この間、各師団の損耗は甚大で定員以上の死傷者をだした部隊もあり、上等兵が指揮をとる中隊もあったという。
 松井日記は十一月一日、蘇州河渡河戦の場面から始まる。
 
 十一月一日
師団の戦況」【八一・六】 → [師団の戦況]
「上流曲点」【八一・七】 → [上流曲点]
「第師団」【八一・一○】 → [第師団]
 
 十一月二日
蘇州又は」【八二・九】 → [蒋介石ハ]
「東南方を包囲攻撃」【八二・一二】 → [東南方ニ向ヒ攻撃]
 戦況は予定通りに進まず、十一月三日の松井は日記でやや不満気である。四日、ジャキーノ神父らが南市難民区の設置を申し出る。この日松井は中支那方面軍司令官を兼ねることになるが第十軍に対する指揮権に関し不満が残った。
 
 十一月五日、六日
 十一月五日第十軍、杭州湾上陸が成功。六日「日軍百万上陸杭州北岸」のアドバルーンがあがった。続いて十日「華軍放棄上海」、上海戦は終わった。
 
 十一月十日、十一日
「予は之れを必要とせず」【九十三・三】 → [予ハ之レヲ必要トス] (芙蓉版の方が意味が通るので、松井大将の誤記か)
 南市旧城内を難民区とすることを通告。英国戦艦長官、各国武官と会見。十一日、外国記者と初会見。
 これらの記述は詳しく、特に記者団との会見は満足のいくものであったらしい。
 松井大将はかなり強気になっており、十二日、上海の善後処理について国際協調派の外務、海軍側を盛んに督励している。
 
 十一月十三日から十五日
 白茆口上陸作戦を視察。
 東京から来た影佐、柴山両大佐に松井は南京攻略の必要と特務機関の強化を説いている。
 
 十一月二十日
「(敵に与えた)損傷十五、六万を下らず」【一○六・九】 → [損傷十五万ヲ下ラス]
 
 十一月二十一日
「其先陣は」【一○七・四】 → [其先頭ヲ以テ]
 
 十一月二十二日
「両軍の補給は連日の追撃前進に伴ひて」【一○八・九】 → [両軍ノ補給ハ連日ノ追撃前進ニ伴ハス]
 上海派遣軍の任務は前述のように上海付近に限定されており、中央部の不拡大方針もあって長距離補給の準備は欠けていた。作戦範囲が上海から七百キロ奥の南京まで拡大されるに及び、急遽北支から千葉鉄道第一聯隊が転用され、破壊された鉄道線路、車両の修理に当たったのは二十六日からだが、南京占領までには事実上役に立たず、急進撃が始まると武器、弾薬はともかく食料、被服の補給まで手が回らず、徴発、略奪横行の原因となった(二十七日の日誌参照)
 南京攻略の意見を参謀総長に具申。
 
 十一月二十五日
「江陰要塞は遂に我有に」【一一○・八】 → [江陰要塞ノ背面ハ遂ニ我有ニ]
「戦闘司令」【一一一・一六】 → [戦闘司令]
 軍中央部がなかなか南京作戦に踏み切らぬことに対し松井は「其因循姑息誠ニ不可思議ナリ」と歎き、外務、海軍側に共同租界、フランス租界に対する実力行使の準備ありと告げる。
 戦闘司令処は常熟に前進させたが、松井大将は上海に止まる。戦闘より政治工作重視の姿勢である。
 
 十一月二十六日
租界に対する軍の行動」【一一ニ・五】 → [租界ニ対スル軍ノ行動]
「感激して帰りたる模様」【一一ニ・一四】→ [感激シテ帰レリ]
 仏艦隊長官と租界内行軍につき交渉。仏側は武装軍隊の租界通過に難色。
 
 十一月三十日
 ロンドンタイムスのフレーザー、NYタイムスのアベンド記者と会見。松井は満足したようである。派遣軍報道部宇都宮直賢少佐の回想では、松井大将の談話は二人に相当の感銘を与えたらしく、しきりに松井を称賛していたという。なお「支那事変日誌抜萃」では十月三十日のこととしてこの会見について詳しく記しているが、愉快なことはとかく筆が走るものか。
 
  昭和十二年十二月
 
 十二月一日
 南京攻略の大命発令。
 
 十二月三日
 共同租界、仏租界の示威行軍を強行。
 厳重警戒の中を日本軍は行進したが、中国人が爆弾を投じ、負傷者三名、犯人はその場で射殺された。
 
 十二月四日
 南京外郭陣地帯に対する攻撃命令くだる。
 朝香宮中将派遣軍司令官に親補される。
 
 十二月十日
「第百一師団(三大隊)」【一二七・八】 → [第百一師団(三大隊)]
 投稿勧告文を南京に散布するが、期限切れの十日正午にいたるも回答なく攻撃開始。第九師団の一部が光華門に突入。
 
 十二月十三日
 南京完全占領
 
 十二月十四日、十五日
□□未完了」【一二八・一二】 → [準備未完了]
「敗残兵の各所に彷徨する者数」【一二八・一四】 → [敗残兵ノ各所ニ彷徨スル者数]
 かなりの敗残兵が南京周辺に出没していたようだ。
 
 十二月十六日
 松井司令部、湯水鎮に前進。「捕虜ノ数既ニ万ヲ超ユ。此クテ明日予定ノ入場式ハ尚時日過早ノ感ナキニアラサルモ」
 と日記にあるように、南京城内外の掃蕩はまだ完了せず、各所に敗残兵(便衣兵)が続々摘出されつつあった。入場式を急いだ為、安全区の掃蕩などがかなり乱暴に行われたことは否定できない。上海での便衣隊の活動や爆弾テロも日本軍を神経過敏にして、一般市民も巻き添えが多くなったと思われるが、松井大将は投降兵(捕虜)の処置について日記で見る限り全く関心がないようである。
 
 十二月十七日
「更に縣に向ひ前進中、十二に於て」【一三一・七】 → [滁縣ニ向ヒ前進中十二圩ニ於テ]
「市中公私の建物は殆ど兵火に罹りあらず」【一三一・一○】 → [市中公私ノ建物ハ殆ト全ク兵火ニ罹リアラス]
 この日南京入場式を挙行。
 外国人の記録では市内に大火が続発したようだが、日本側ではあまり火事を気にしていない(参戦者の証言や石射日記など)のは彼我の火事に対する感覚の差でもあるのだろうか。
 又、外国人の記録に入城式に関する記述が全く無いのは不気味である。
 
 十二月十八日
 慰霊祭。式後に有名な軍紀、風紀に対する松井の訓示があった。松井日記は軍紀、風紀の振粛を求めたと記している。この時、松井大将が怒って泣いたという説と、寒い日で風邪気味の大将が鼻水をすすったに過ぎないという説がある。
 
 十二月十九日
「城内ニ、三ヶ所に尚兵」【一三三・一三】→ [城内数ヶ所ニ尚兵]
 松井大将はこの日市内を視察した。
 
 十二月二十日
「(日本大使館建物)内容共完全に保存・・・・・・感服に値すべきか。」【一三四・八】
 → [内容共完ク完全ニ保存・・・・・・感服ノ値アリ]
「尚聞く所、城内残留内外人は一時多少恐怖の色ありしが、我軍(による)治安漸次落付くと共に漸く安堵し来れり、一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具等なり)、強姦等もありし如く、多少は已むなき実情なれど洵に遺憾なり。」【一三五・三】
 → [尚聞ク所城内残留内外人ハ一時不少恐怖ノ情ナリシカ我軍漸次落付クト共ニ漸ク安堵シ来レリ一時我将兵ニヨリ少数ノ奪掠行為(主トシテ家具等ナリ)強姦等モアリシ如ク多少ハ已ムナキ実情ナリ]
 この部分は芙蓉版と日記原本では意味が全く異なってくる。まず芙蓉版では、残留内外人は多少恐怖していたが、日本軍が治安回復に努めた結果安心してきたように読める。ところが日記原本を素直に読むと日本軍が落ち着いてきたので内外人も安心したことになり、恐怖の原因が日本軍にあったことが判る。又、末尾の松井大将の感想は、日記原本の突っ放した感じが、田中氏の「洵に遺憾なり」という書き加えで同情的に変わっている。
 この改竄は弁解の余地なしというべきで、素人の筆者が何度眺めても「治安」とか「洵に遺憾」などの文字は見つからない。「多少」と「不少」の読みちがいは止むを得ぬと甘く見ても、編者が自己の主張に合わせて松井日記の記述を反対方向に曲げたことは否定できまい。
 
 十二月二十一日、二十二日
「十二月二十一日」【一三五・一一】 → [十二月二十日、二十一日]
「十二月二十二日」【一三六・七】「二十二日」【一三六・一四】→ 日記原本に日付無し。
 芙蓉版の二十一日分(下関視察)は二十日の残り、二十二日の前半(鴻で出発)が二十一日の分、十三行目上海帰着以下が二十二日の記述と推定するが、日記原本に二十二日の日付は無い。
 下関を視察して「狼藉の跡のままにて死体など其儘に遺棄せられ、今後の整理を要するも」と、虐殺の暗示ともとれる記事があるのに、ここの編者注には「この記述をみても、南京に大虐殺がありたる風も、これを聞知したる風もぜんぜん無い。」と的外れなことが加えてあり、このように躍起になって「南京大虐殺」を否定するのは、かえって逆効果になりはしないか。
 
 十二月二十三日
「此日南京占領後の我方の態度方針を説明する為め外人記者団と会見す。最初南京占領と其国際的影響を知るため紐育タイムズのアベンド、倫敦タイムズのフレーザーを招致し、然る後在上海の各国通信員と会見す。質問は主として、首都陥落後の日本の方針及パネー号に対する善後処置なり。」【一三七・九】→ 日記原本に無し。
 これも悪質な書き加えである。田中氏は「支那事変日誌抜萃」(七三ページ)にある記者会見の記述をもとにしてこの部分を作ったのであろう。しかし、そもそも日記原本に無い「抜萃」などというのもおかしいが、書き加えた上に「南京占領から十日に経た外人記者団との会見において、松井大将が『南京虐殺』に関する質問を受けたという様子も全く見られない点、注目すべきである。」という編者注まで付けているのはどういうことか。
 初めに述べたように、当然書かれてよいことが日記に無いのは何か訳がある。十一月十一日、三十日の記者会見は自分のしゃべった内容まで書いているのに、この日の記者会見が日記原本にないのは不愉快なことがあったのだろうと推察される。
 同盟通信上海支局英文部長の堀口瑞典氏は、その名の通り外交官の父君の赴任先スエーデンで生まれ、英、仏、独、スペイン語を自在に駆使して報道部の発表や高官の記者会見に活躍した人である。この会見で通訳に当たった堀口氏の記憶では、外人記者たちから南京事件の質問が続出し、松井大将は「現在調査中」と苦しい答弁をしていた、という。
 厭な質問があったからこそ日記に書かなかったのである。「抜萃」の方は東京裁判に備えて自己に有利な記録、記憶(これは当然の権利である)を整理したものであろう。こうした事実関係を後世の人が正しく判断するためにも、原史料の改竄は許されないのである。
 米艦隊長官訪問、米長官来訪、仏艦隊長官の招待など外交行事が重なった。このあとに「松井大将は米・英・仏の高官と会合を重ねているが、『南京事件』の話題など誰からも聞いていない。」との余計な編者注がつけてある。
 
 十二月二十六日、二十七日、二十八日
「現在傷病者約五千名に達す」【一三九・一七】 → [現在傷病者約五千名ニ過キス]
 ニュアンスが逆になる。
 ここの編集注に「松井大将は杭州附近の奪掠・強姦の風聞に直ちに幕僚を派遣して・・・・・・。若し南京に"虐殺事件"等の風聞あらば、大将がこれを黙過するはずはない。」【一四○・一三】とあるのはおかしい。日記の先行分は「南京、杭州附近(で)又奪掠、強姦の声を聞く。幕僚を派遣して・・・・・・」【一四○・五】だから、南京が入っている。南京でも事件があって幕僚が特派されている、と見るべきなのに田中氏は無理に南京を除外しようとしている。
 
 十二月二十九日
「南京に於て米国大使館の自動車其他を」【一四一・二】 → [南京ニ於テ各国大使館ノ自動車其他ヲ]
 芙蓉版ではアメリカだけに限定されるが、日記原本では対象が広がる。
 ここで上海派遣軍報道部長木村松治郎大佐が十二月二十日より二十二日まで南京に滞在した時の日記を抜萃してみよう
「之ト共ニ遺憾ニ堪ヘサルハ日本兵ノ略奪、強姦、家宅侵入事件ノ数多キコト、小生ノ滞在時ニテモ已ニ外支人ノ領事館ニ訴ヘ来シモノ百件ニ及フ、各国大公使館(若干例外アリ)個人ノ住宅、学校等ニ侵入シナケカワシキ乱脈振リ・・・・・・金陵大学女子部(六千人ノ避難)ノ如キ特ニ然リ
 どうも各国公館が軒並みやられたらしい。
 
 十二月三十日
 この日、陸軍省人事局長阿南惟幾少将が来た筈だが、日記に全く記述がない。筆者は、人事問題だけでなく南京事件関係の用件(たとえば軍中央部からの「お叱り」など)があり、不快だったため書かなかったものと推定している。
 
  昭和十三年一月
 戦勝の正月、松井大将は還暦を迎える。新年早々から謀略に熱心で、中央部の優柔不断を嘆く。
 
 一月七日
 視察を終えた阿南人事局長と会見、その報告で各軍の軍紀、風紀その他が漸次振粛されたと聞き安心しているが、これから見ても、阿南の出張目的が人事だけでなかったと推察される。
 この頃、閑院宮参謀総長軍紀、風紀粛清に関する訓示(九日付で全軍に通達)が届いた筈だが日記に記述がないのが不思議である。
 
 一月十日
「此日各国の主要なる通信員と記者会見す。」【一四八・一四】 → 日記原本に無し。
 これも十二月二十三日と同じ悪質な書き加えである。「抜萃」からの逆輸入だが、「抜萃」に記された詳細な問答は通訳に当たった岡崎勝男外務書記官の記録によるとある【七七・九】からこの辺りにまだ史料が眠っている可能性がある。
 編者注の「この記者会見でも南京虐殺事件は問題にされていない」という部分もやはり二重のマヤカシで、たとえこの部分が日記原本にあったとしても、「書いてないこと」と「(虐殺が)ないこと」は同じではない。
 
 一月十一日
「谷第六師長」【一四九・一二】 → [谷第六師長]
 
 一月十三日
「南自治機関」【一五○・八】 → [南自治機関]
 南市は上海南部の小都市で南京から三百キロも離れている。
 
 一月十五日
「独乙大使仲介運動今憩まず」【一五一・四】 → [独乙大使仲介運動今尚不熄]
 松井大将はこのトラウトマン工作継続中と聞いてびっくり。
 
 一月十六日
 「蒋介石を相手にせず」の近衛声明が発表され、松井大将は満足している。
 
 一月二十四日
「其云ふ所、言動面白からず。由て厳に命じて」【一五五・一六】
 → [其云フ所言動例ニ依リ面白カラス殊ニ奪掠等ノ事ニ関シ甚タ平気ノ言アルハ遺憾トスル所由テ厳ニ命シテ]
 この部分は中島今朝吾第十六師団長が南京駐屯から華北の新戦場へ向う途中、上海の方面軍司令部を訪れ、松井大将と会談したときの描写である。中島の言動に疑惑を感じた松井は「転送荷物を再検査せしめ、鹵獲、奪掠品の輸送を禁ずること」【一五五・一六】を指示した。師団長の陸軍中将が掠奪品を内地へ送り出すとは沙汰のかぎりで、従来からある悪評判の裏書をしている感じだが、見落とすような原文ではないから、これも田中氏の作為的な脱落操作であろう。
 
 一月二十八日
 参謀本部第二部長本間雅晴少将が来る。
 本間の用件については南京事件と関係ありとする見方が研究者の間では有力だが、編集注はわざわざ否定している。
 
 一月二十九日、三十日
 大本営は松井大将の意見具申を採用せず。「憤懣限りナシ」と日記にある。
 大将の主張は揚子江北岸、津浦沿線即ち江蘇省北部を占領して華北と連絡し、一方浙江省安徽省を占領して各地に親日政権を樹立することであった。
 松井大将は辞任を決意した。
 
 昭和十三年二月
 
 二月六日
支那人民の我軍に対する恐怖心、加へて寒気と家なきことが、帰来の遅るる主因となりをるものと思惟せらる。」【一六四・一三】
 → [支那人民ノ我軍ニ対スル恐怖心去ラス寒気ト家ナキ為メ帰来ノ遅ルヽ事固トヨリ其主因ナルモ我軍ニ対スル反抗ト云フヨリモ恐怖不安ノ念ノ去ラサル事其重要ナル原因ナルヘシト察セラル即各地守備隊ニ付其心持ヲ聞クニ到底予ノ精神ハ軍隊ニ徹底シアラサルハ勿論本事件ニ付根本ノ理解ト覚悟ナキニ因ルモノ多ク一面軍紀風紀ノ弛緩カ完全ニ恢復セス各幹部亦兎角ニ情実ニ流レ又ハ姑息ニ陥リ軍自ラヲシテ地方宣撫ニ当ラシムルコトノ寧ロ有害無益ナルヲ感シ浩歎ノ至ナリ]
慎むべき旨申入れたり」【一六五・一】 → [可慎モ現状ヲ保持スル丈ハ異存ナキ旨申入レタリ]
 ここは日記原本一頁分に相当する大幅な脱落である。しかもその脱落部を「をるものと思惟せらる」と書き換えて文章をまとめているところから見て、編者は十分承知の上で脱落させたものと思う。
 日記原本で松井大将が言おうとしているのは、戦争目的を理解していない日本軍の中国民衆に接する態度が悪く、幹部を含めた軍紀、風紀が弛緩していることに対する歎きである。しかも松井は軍直接の宣撫工作に絶望の声をあげているのだ。松井の苦い実感がよく出ている。それは主として中国畑を歩き、日記でも明らかなように戦略より政略、謀略を得意とした松井大将にとっては、深刻な「挫折」ではなかったろうか。
 このような松井大将の心境を正直に記した重要部分を意識的にカットした田中氏の心理が私には理解できない。
 
 二月七日
「南京占領後の軍紀風紀に対する不始末」【一六五・一○】 → [南京占領後ノ軍ノ不始末]
 軍の軍紀、風紀に対する不始末より諸不始末という場合の方が対象は広い。
 
 二月八日
「兎に角支那人慈しめ、懐かしめ、之を可愛がり、憐むこと、只其慈悲心の心だけにて足るを以て」【一六六・一五】 → [兎ニ角支那人ヲ懐カシメ之ヲ可愛カリ憐ム丈ニテ足ルヲ以テ]
 これは田中氏の意見を書き加えたことなのだろうか。その上わざわざ「これが松井大将の本心なのである」という編者注までついている。
 
 二月十日
 離任決定。後任畑俊六大将。
 離任が決まると松井は「時期尚早」と残念がる。
 
 二月十六日
 軍司令部を離れるに当り、訓示。
 訓示の三に「軍ハ今後ノ情勢ニ応シテハ或ハ大本営ノ意図ヲ超越シテ行動サセルヘカラサル場合ナキヲ保セス、」とある。これは満州事変以来横行していた軍の下克上を勧めたととれるが、すぐあとで幕僚が大将と一心同体で無かったことを嘆いているのは矛盾である。
 
 二月十九日
 畑司令官着任、申継。
「宣撫工作、政権其他ノ政治工作ニ就キ軍隊直接ノ言動ハ却テ有害ナルヘキヲ述フ」とある。
 
 二月二十日以後
 松井大将は凱旋に際して盛大な歓迎行事を期待していたが、中央部では内輪にやりたい意向であった。恐らく宣戦布告もせず、まだ作戦が続いている折から、派手な歓迎は国際的にもはばかられたのであろうが、松井大将には不満だった。だから「駅頭市民ノ歓呼ハ軍部ノ取扱ニ比シ頗ル熱狂感謝的ナルヲ認ム」と嬉しそうに書いている。
 このあたりの記述が最も正直に大将の感情を出しているようである。

  
  終わりに
 以上のように芙蓉版を検討してみると、改竄の方向がすべて南京事件の否定に向かって揃っていることがあらためてはっきりする。
 まず考えるべきは、田中正明氏が何故このような改竄をやってまで南京事件を否定せねばならないのか、ということである。
 私は、田中氏は南京事件の全面否定にこだわり過ぎているからだと思う。
 数十万単位の「南京大虐殺」を否定するのは大変結構だとしても、事実として存在したことをことごとく否定し、隠そうとすると無理が出る。南京では日本兵による残虐行為はあったし、松井大将がそれを認めたことを隠す必要は無い。大将も人間であり、嬉しいことには筆が走り、厭なことは書きたくなかった。自分の意見が中央に容れられなければ憤り、日本軍の軍紀、風紀の乱れに心を痛め、軍政に絶望したりする。しかし敵国の首都占領という空前の成果への自負もあったから国民の歓迎を喜んだのである。そのまま全部公開して困ることはなかったはずだ。
 日記原本を読んでもうひとつ感じたのは、松井大将だけでなく当時の軍人の多くに共通しているが「捕虜」の保護に対する国際法の観念が欠如していたことである。
 松井大将のように軍縮会議など国際的な舞台での経験も豊かで、敵国の捕虜に対して人道的処遇をした日露戦争の経験者であっても、日記で見る限りこのあたりが念頭になかったらしいのはふしぎだ。中国の一般民衆を憐れむ心の何分の一かを捕虜に対しても配っていたら、南京事件の様相は変っていただろう。
 いずれにしても古人の軌跡は今生きる人の貴重な道しるべである。但しそれは真正の記録でなければ意味が無い。田中氏の改竄は松井大将に対する冒涜であり、真に残念の一語に尽きる。

 
 

*1:傍点は表示できないので該当部分は太字にします