「南京百人斬り」の"虚報"で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形

 
資料サルベージ企画つーことで。
若干の解説を追記予定。
 

週刊新潮』1972年7月29日号 P32-37

「南京百人斬り」の"虚報"で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形
 
 戦争中の従軍記者が書いた"戦意高揚"記事が、二人の日本軍将校を「無実の戦争犯罪者――死刑」に追いやった、という追跡報道が行われている。
 昭和十二年暮の中国戦線。首都南京突入を前に、二人の少尉が"百人斬り競争"を企てたが、互いに百人以上を斬っても勝負がつかず、さらに"百五十人斬り"にいどむという、いかにも講談調の武勇伝だ。三十五年も昔のこの物語が、今ごろ"事件"として復活したのは、昨年、高名な本多勝一記者が朝日新聞連載のルポ『中国の旅』で、「残虐な日本軍人」のサンプルとして書いたのがキッカケだが、その、そもそもの"原典"なる記事を書いた記者も今、健在である。戦中のモーレツ従軍記者、そして戦後は労組委員長などもつとめ、毛沢東派の進歩的ジャーナリストとして知られる浅海一男氏(六二)がその人・・・・。
 
 
 今年の一月号以来、雑誌『諸君!』の上で展開された「本多勝一イザヤ・ベンダサン論争」、また、四月号と八月号に鈴木明というペンネームの評論家が書いた"百人斬り"への疑惑を追及した記事などを読んでおられない方のために、極力要約した形で、この"事件"の経緯を述べておく必要がある。
 ――昭和十二年七月、盧溝橋事件、日中戦争開始。戦争は上海に広がり、十一月、総退却に移った中国軍を追って、松井石根大将の率いる日本軍が、首都南京をめざして急進撃していた。
 十一月三十日付の『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)見出し。「百人斬り競争! 両少尉、早くも八十人」
 記事「[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発]常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した。まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に『百人斬り競争』を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果したといふ。一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)-山口県玖珂郡神代村出身-。一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)-鹿児島県肝属郡田代村出身-。銃剣道三段の向井少尉の腰の一刀『関の孫六』を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
 無錫進発後向井少尉は鉄道線路廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげ、これを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた。
 その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつつかつた。
 向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう。野田の敗けだ。俺の刀は五十六斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ。
 野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます。僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ」
 十二月四日と六日の"途中経過"報道のあと、十三日に第四報が載っている。[紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発](注=紫金山というのは南京城外の山で、ここが南京防衛のための、中国軍側の最後の砦だった)。
 記事は向井、野田両少尉が、「十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した」とあり、野田百五、向井百六という数字では、
「"アハハハ"結局いつまでにいづれが先きに百人斬つたかこれは不問」ということになり、
「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人とどうぢや」と意見一致、十一日から"百五十人斬り"が始まった、となっている。
「十一日昼中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が『百人斬ドロンゲーム』の顛末を語つてのち、『知らぬうちに両方で百人を超えてゐたのは愉快ぢや。俺の関の孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろとも唐竹割にしたからぢや。戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて弾雨のなかを"えいまゝよ"と刀をかついで棒立ちになつてゐたが一つもあたらずさ。これもこの孫六のおかげだ』と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸つた孫六を記者に示した」
 この記事には、写真がついており、軍刀を前に突いた二人の少尉が並んでいる。
常州にて佐藤(振)特派員撮影」とクレジットがはいっている。
 
南京に送られ、銃殺
 
この"百人斬り"物語は、戦後、それも、日中友好気運が高まった近年に引き継がれる。大森実氏らのジャーナリストたちが一種の総ザンゲ・ムードの中で書いたが、反応が大きかったのは、昨年十一月五日の朝日新聞に載った本多勝一氏のルポだ。"本多版"は南京郊外の約十キロの間で百人を先に殺したほうに賞を出そうと、「上官が殺人ゲームをけしかけた」ことになっており、三回戦まで行われ、各百五十人を殺した可能性が強いという記述である。
 そんなことは物理的に不可能だ、とまず『日本人とユダヤ人』のイザヤ・ベンダサン氏が本多氏にクレームをつけ、鈴木明氏も『ちょっと待てよ』と『諸君!』四月号で疑問を提出した。
 するとこれらが呼水になって、向井少尉の未亡人をはじめ、"真相"をたぐる手がかりを持つ人々の存在がわかりはじめた。鈴木明氏の取材活動が始まる。その細部は『諸君!』八月号に詳しいが、時間的経過を追ってまとめると、こういうことになる。
 ――昭和十二年暮の『東京日日』の"百人斬り"記事は、当時、緒戦の勝利にわく日本国内で大いに受けたようである。
 宇治山田市(現・伊勢市)の市長の娘だった北岡千重子さんは、さっそくこの「英雄」向井敏明少尉に慰問袋を送り、それがキッカケで四年後、二人は伊勢で結ばれる。実は当時、向井少尉にはすでに妻子があり、縁者に反対されながらの結婚だった。向井氏は依然として軍籍にあって、内地外地を転々としていたが、一時帰還するたびに子供がふえていった。終戦時は大尉でビルマにいたが、二十一年夏復員。はじめての平和な家庭生活が始まった。ところがそれも束の間。二十二年四月、東京・市ヶ谷の国際軍事法廷に連れて行かれ、"南京大虐殺"の責任を問われた。野田毅少尉も同様である。"百人斬り"の記事が十年後にたたったわけだ。
 国際軍事法廷の検事に、二人は「あの記事は作り話である」むね説明した。
 行軍中たまたま貴社に出会ったところ、記者が「行軍ばかりで、さっぱりおもしろい記事がない。特派員の面目がない」とこぼしていた。向井少尉が「花嫁を世話してくれないか」と冗談をいったところ、「あなたがあっぱれ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集まる」と記者はいい、かつ、記者たちがいかにも第一線の弾雨下で活躍しているかのように見せかける自己宣伝も兼ねて、記事が作られたようである。本人たちはどんな記事が書かれたかは全然知らず、あとで記事を知って驚き、恥ずかしかった――というのが、向井氏らの弁明だった。
 国際法廷はその弁明と、記事を書いた毎日・浅海一男、鈴木二郎の両記者を調べた心証から「事実無根」と判断したのだが、中国の国民政府が二人の身柄を要求し、南京へ護送された。
 向井氏の弟・猛氏は有楽町の毎日新聞社に浅海記者を訪ね、救援を求めた。が、浅海氏が書いた一札は、「(1)記事は向井、野田より聞き取ったもので、その現場を目撃したことはない。
(2)二将校の行為は住民、捕虜に対する残虐行為ではなかった。
(3)二将校の人格は高潔だった。
(4)右の事項は、すでに東京における軍事裁判でパーキンソン検事に供述し、不問に付されたものである」といった内容で、「創作である」とは書いてくれなかった。
 猛氏はさらに、当時の兄の直轄の隊長だった富山氏にめぐりあい、「向井少尉ハ昭和十二年十二月二日丹陽郊外ニ於テ左膝頭部盲貫ヲ受ケ離隊 救護班ニ収容セラレ 昭和十二年十二月十五日湯水ニ於テ部隊ニ帰隊シ治療ス」という"アリバイ"の証明書も手に入れた。これが認められれば、少なくとも十二月十日ないし十二日の"記者インタビュー"(第四報)はウソということになる。猛氏は喜び勇んでこれらを南京に送った。
 が、二十二年十二月二十日の朝日新聞記事が希望を砕いた。「南京虐殺者に死刑」[南京十八日発中央社=共同]「南京大虐殺事件で百五十人斬り競争をした元中島部隊所属の小隊長向井敏明 元副官野田毅 それに三百人斬りの田中軍吉大尉の三戦犯は 十八日南京軍事法廷で 各死刑を宣告された。
 南京虐殺事件の共犯として起訴された他の者は特別反証を提出することができたが、この三戦犯は反証を提出できなかった」
 二十三年一月二十八日、田中元大尉をふくむ三人は南京郊外の雨花台という丘で銃殺刑を執行された。
 鈴木明氏は真相を求めて台湾まで飛び、当時の南京軍事法廷の判事の一人に会った。元判事は、向井氏らが「日本人が書いた本とそこに移っている写真」を証拠に刑を決められ、その裁判には蒋介石総統らの直接の意見もはいっていたことを認めた。新聞記者の"虚報"が二人の無実の男の生命を奪った――という深い抗議のトーンで、鈴木氏はこの追跡ルポをつづっている・・・。
 
同僚記者二人の証言
 
 ここからは、"鈴木明レポート"を、さらに広げ、深める作業である。
 まず、問題の『東京日日』の記事は、完全なデッチ上げであったのかどうか――。"第一報"の記者として「浅海、光本、安田特派員発」とあるうち、「浅海」は浅海一男氏のこと、「光本」は京都支局の記者だが、戦後二十五年に病死、「安田」は記事を打電する電信技師である。"第四報"のほうは「浅海、鈴木両特派員」の記事に、「佐藤(振)特派員」の写真が付いている。可能性として、記事は創作することもできるが、写真をデッチ上げるのはむずかしい。
 佐藤振寿カメラマン(五八)は、現在、写真評論家としてフリーの生活を送っている。
「浅海さんたちとは、一つのチームを組んでたんだね。浅海、鈴木、光本、無線の安田、それにカメラの私ね。どこでいっしょになったかは覚えてないが、蘇州から無錫、常州、南京まで、だいたいいっしょだった。鈴木さんは無錫から合流したんだと思うが・・・・。このうち光本さんは京都支局の人で、彼はずっと向井少尉らの属していた十六師団についていた。十六師団は京都の部隊ですからね。あとの四人は東京支社からの派遣だった。私の事情をいえば、なにしろ、南京突入の第一報をどこの社が撮るか、大へんな競争でしたよ。兵隊も競争なら、新聞社も競争だ」
 社内での競争もある。当時、東京の『東京日日』は、正式には、『大阪毎日新聞社東京日日発行所』に過ぎず、ボーナスも大阪に比べると一割低かったという。生活のためにもスクープが必要だ。そのため、このチームも本来なら東京が本拠である一○一師団に従軍するべきところなのだが、「この部隊が、都会の兵隊で弱いんだね。こんな部隊についてちゃ、第一報はダメだ」というので、強そうな十六師団を追った。
「とにかく、十六師団が常州(注=南京へ約百五十キロ)へ入城した時、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが、"撮ってほしい写真がある"と飛び込んで来たんですね。私が"なんだ、どんな写真だ"と聞くと、外にいた二人の将校を指して、"この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む"という。"へぇー"と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が"常州にて"というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。
 私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ」
 まったくの作り話ではない、少なくとも当人たちから直接聞いた話なのだ、という証言である。それでは、ただ一方的に聞きっぱなしていたのかというと、そんなこともない、という。
「あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がそんな数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけど、確かどちらかが、"あなた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか"と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれ当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった。――それなら話はわかる、ということになったのですよ。私が戦地でかかわりあった話は、以上だ」
 佐藤カメラマンが二将校に会ったのは、その時一度きり。そのあとは、南京入りまで浅海記者とも別行動になってしまった、そうだ。
 察するところ、十二月十三日付(第四報)に載った佐藤カメラマン撮影の写真は、[常州にて廿九日]と日付のある"第一報"取材の時点で撮ったものなのだろう。写真は記事ほど早く送るわけにはいかない。
 "第四報"に名前の出て来る「鈴木特派員も健在だった。毎日新聞東京本社地方部長の地位で昭和三十六年退社し、その後は北海道にできた毎日系の別会社の役員などをしていた鈴木二郎氏(六五)である。
 鈴木氏は杭州湾敵前上陸を取材する目的で、(十二年)十一月初旬、単身で中国へ渡った。が、行ったらすでに上陸作戦は終わっており、「そこでまあ、南京攻略戦の取材に回ったんです」
 南京へ向けて行軍中の各部隊の間を飛び回っているうちに、前から取材に当たっている浅海記者に出あった。浅海記者からいろいろレクチュアを受けたが、その中で、「今、向井、野田という二人の少尉がは百人斬りの競争をしているんだ。もし君が二人に会ったら、その後どうなったか、何人斬ったのか、聞いてくれ」といわれた。
「そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである"赤筒"でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ。二人の少尉に会ったのは・・・・。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです」
 ということは、[紫金山麓にて、十二日浅海、鈴木両特派員発]とある十二日か、記事中に出てくる十一日に会ったということなのだろう。とすると、
「十二月二日負傷して十五日まで帰隊しなかった」という向井少尉に対する富山隊長の証明書は"偽造アリバイ"ということにもなりかねないが、これも元の部下の生命を救うための窮余の一策だったのかも知れない。
 鈴木記者も、二人の少尉に会ったのは、その時限りである。
「本人たちから、"向かって来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった"という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあと思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなことを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で"見たまま""聞いたまま"を記事にして送ったんです」
 記者たちの恣意による完全なデッチ上げ、という形はまずないと見るべきであろう。死者にはお気の毒だが、二将校の側もある程度、大言壮語をしたのだと思われる。そして記者のほうが、「こりゃイケる話だ」とばかりに、上官に確認もせずに飛びついて送稿し、整理する本社もまた思慮が浅くてそのまま載せてしまった、という不幸な連係動作があった――と考えるのが妥当なのではあるまいか。
 当時、従軍記者たちは、この種の武勇談を数多く将兵から聞かされた。しかし、適当にあいづちを打っておいて、記事にする話とそうでない話はチャンと区別していた、というのが多くの元従軍記者たちの回想である。"百人斬り"の記事も、もしその文章にリアリティーがあれば、当時でも他社が「あと追い」をしたはずである。が、そういう形跡は見られないのだ。
 
浅海記者の華々しき戦後
 
鈴木二郎元記者の話は、当時の従軍記者の心理をストレートに語っていて、それなりに「そうだったのか」と納得することができる。「全体がそうだったということで、私にも戦争責任はある」と鈴木氏は認め、戦後苦しんできたのだともいう。
 が、浅海一男元記者の反応は、同氏が現在、評論家の肩書を持ち、"新中国"に関する著書まであり、"進歩的ジャーナリスト"として聞こえている人にしては、とても鈍く、具体的でなく、警戒的なのである。
「『諸君!』の記事は読みましたよ。同誌にお答えした以上のことは、お話はできない。あなた方はきのうの出来事のようにいわれるが、なにしろ三十五年も前のことだ。記憶も不確かになっている。『諸君!』にあのように書かれて、私が十分に答えなくても、私は一つも損などしない。私の周囲のインテリは、あのような指摘があっても、一つも私がかつて書いた新聞記事のような状況がなかったとは疑いませんからね。何が真実かは、大衆と歴史が審判してくれますよ。鈴木(明)さんもジャーナリスト、私もジャーナリスト。彼の、私の書いた記事によって二人の生命が消えたという見方は、むろん異論はあるが、私のプライバシーをそこなわない限り、ジャーナリストが一つの考えにもとづいてお書きになることは、それが当然だ、私は文句はいいません。いずれ真相は、しかるべき専門のメディアに私自身の筆で書きますよ。
 それに、『諸君!』によれば、向井さんは"日中友好のために死んでいく"といっておられる。感銘を受けましたね。敬服している。今、田中内閣もようやく日中復交をいい出したが、あの二人の将校こそ、戦後の日中友好を唱えた第一号じゃないですか。こんな立派な亡くなり方をなさった人たちに対して、今はもう記憶の不確かな私が、とやかくいうことはよくないことだ。それに、遺族もいらっしゃる。私はいわないほうがいい。
 当時、二人から話を聞いたことは間違いありません。私の記事によって向井さんらが処刑されたなんてことはないです。ご本人のなさったことがもとです。私は"百人斬り"を目撃したわけではないが、話にはリアリティーがあった。だからこそ記事にしたんです。判決をしたのは蒋介石の法廷とはいえ、証人はいたはずだ。また、私の報道が証拠になったかどうか、それも明らかではありませんからね。しかし、私は立派な亡くなり方をなさった死者と、これ以上論争したくないな・・・・」
 浅海氏の弁が、彼が三十五年前に書いた記事と同じくらい文脈不整であることは、熟読いただければ気のつくところだ。
『毎日』のある社友が、浅海氏の内心を推量する材料を教えてくれた。
「浅海君がこの問題で黙ってしまう理由は、ぼくらには推測がつくんだ。まず、彼の戦後の毎日社内での活躍ですよ。彼は戦後、労組結成に参画し、三十五年から一年ほど委員長になったことがあるが、その活躍は目ざましく、当時社長だった本田親男さん、この人は実は南京攻略の毎日の従軍団の総大将をつとめた人ですがね、その"反動性"をあばいて、ついに社長の座から追い落としてしまった(注=本田氏は三十六年八月、会長の座を去っている)。委員長時代の彼の羽振りは、それはすごいものだった」
 別の年配者はいう。
「この活躍ぶりが中国へ伝わると、いつの間にか、"反動大新聞社の中で、民主化につとめる英雄的記者"ということになるんですね。三十九年に社を退職すると、中国へ呼ばれて行ってる。中国共産党のさる大幹部が、早稲田大学で浅海君と同級だったというよしみもあったらしく、彼は一年半、家族ぐるみ北京に滞在してます。彼自身から聞いた人の話だと、彼は日本向けの北京放送の手伝いをしていたらしい。待遇は破格で、家にはコックがいて・・・・。で、奥さんは日本語の教師をやり、これにも手当がつく。
 彼はそれ以前にも日本ジャーナリスト会議から派遣されて中国へ行ってるが、その時、上海で青年を相手に演説を求められたことがあったそうだ。彼は、ちょっと弱ったが、もともと演説がうまい。"昔、私が上海へ来た時、あのビルもこのビルも、屋上にはユニオン・ジャックやフランスの三色旗がはためいていた。今、どのビルを見ても中国国旗がはためいている。諸君はそれを成し遂げた諸君の親や兄の努力を忘れてはならない"とやって、拍手喝采を受けたそうだ・・・・」
 浅海氏の著書には、『新中国入門』『文化革命十二の疑問』などがある。こういう立場だから、本多勝一氏などが"愛用"する"百人斬り"の物語を今さら逆転するわけにもいかないし、さりとて当事者として、日本人の前で「向井少尉らはやはり残虐な殺人者だった」と開き直ることもむずかしい。
 浅海氏は従軍記者時代、ペンで戦意を高揚させただけではなかった。南京陥落後の(十二年)十二月二十二日、軍人会館で「本社特派員の従軍報告会」に出演、熱弁をふるっている。
「・・・・つづいて社会部員浅海一男氏は従軍みやげの長髯で登檀、皇軍大捷の裏に秘められたわが勇士の労苦を詳細に報告、南京中山門攻撃における戦車隊の沈勇な活躍を熱弁で髣髴とさせ・・・・」(十二月二十三日『東京日日』)
 要するにいつも"スター"なのである。
 便乗主義者にとって最もやっかいな相手は、自分自身の言動なのであった。最後にもう一度、浅海氏が発言を求めてこられたので加える。
「戦争中の私の記者活動は、軍国主義の強い制圧下にあったので、当時の多くの記者がそうであったのと同じように、軍国主義を推し進めるような文体にならざるを得なかった。そのことを私は戦後深く反省して、新しい道を歩んでおるのです」
 われわれもまた、まさに「真実は歴史が審判する」と考える一員なのである。