坂野×田原対談より
大日本帝国の民主主義 P116〜123
坂野潤治氏と田原総一郎氏の対談内、石射猪太郎日記*1に関する箇所を抜粋。
坂野
日中戦争にしても、盧溝橋事件からしばらくは、あれが戦争だなんて誰も思っていなかった。
田原
戦争じゃない?
坂野
と、思っていた。
田原
支那事変といってましたからね。
坂野
あんなのはただの小競り合いだと。現地(北京郊外)での小競り合いだと。
田原
なるほど。
坂野
三個師団も派遣すれば、中国は手を上げるだろうと。
坂野
石原が、三個師団でけりをつけちゃおうと思っていたんです。
田原
石原莞爾は、中国との戦争に反対でしたからね。
坂野
反対というより、石原莞爾は敵はソ連なんだから、そんなのやってるヒマないよ、さっさとケリをつけようと。
田原
敵はソ連だと。
坂野
だから、そんなイヌにかまっているヒマはないと。
田原
イヌ?
坂野
当時はそう思っていたんです。石射猪太郎という外交官が書いた日記があります。そこにもこう書かれています。日本は馬鹿にしてかかった支那に手強い相手を見出したのだ。私の不吉な予感があたりつつあるのを如何にせん。此数年来の危機のかけ声はウルフウルフのウソの叫声であったのだ。あにはからんや犬だと思って居た支那がウルフになって居たのだ。軍部のミスカルキュレーション。国民は愚にせられて、ウルフを相手にして居るのを知らないのだ(『石射猪太郎日記』昭和12年8月21日より抜粋)
石射はこのとき、外務省の東亜局長。いまでいうアジア太平洋局長で、先日まで日朝交渉をやった田中均さんや、六者協議にでている政府高官ポストです。
田原
八月にはもう、局長がこんなこと書いてるんですか。
坂野
そうなんです。
田原
中国をバカにしてかかっていたんだ。
坂野
というより、陸軍はそもそも中国と一線交える気がなかったですし、反戦運動している人民戦線の野坂参三たちも、戦争反対の戦争は対ソ戦なんです。中国と戦争になるなんて思っていない。民政党や社会大衆党を選挙で勝たせるような戦争反対の世論がありながら、反戦運動もありながら、なぜ日中戦争になったのか。史料を読んでいてわかったんですが、あれはソ連との戦争に反対していた。
田原
中国とは戦争にならないと。
坂野
盧溝橋事件が起こっても、あれは局地戦だから、天津にでも関東軍が出ていけばけりがつくと思われていたんです。
田原
それにしても、この日記はすごいですね。日中戦争が始まった年の八月十八日には、広田(弘毅)外相は、時局に対する定見も政策もなく、まったくその日暮らしである、なんて書いてありますよ。広田外相は時局に対する定見も政策もなく、全く其日暮し、イクラ策を説いても、それが自分の責任になり相だとなるとニゲを張る。
頭がよくてズルク立ちまわると云ふ事以外にメリットを見出し得ない。それが国士型に見られて居るのは不思議だ。(同書、昭和12年8月18日の箇所より抜粋)城山三郎さんが『落日燃ゆ』で描いた広田弘毅とは全然違いますね。
坂野
「こんなご都合主義で定見のない人だとは思わなかった」なんても書いてあるでしょう。
田原
近衛(文麿)についても書いてあります。彼はダンダン箔が剥げて来つつある。
門地以外に取柄の無い男である。日本は今度こそ真に非常時になって来たのに、コンな男を首相に仰ぐなんて、よくよく廻り合わせが悪いと云ふべきだ、之に従ふ閣僚なるものは何れも弱卒、禍なる哉、日本。(同書、8月19日の箇所より抜粋)
坂野
近衛のメッキがはげてきた、高貴な生まれということしか取り柄がないと。
田原
この人は左翼ですか?
坂野
外務省の局長に、左翼がなれますか?
田原
つまり体制側なんですよね。体制の中心の人間がこういっていると。
坂野
そうです。
田原
これはいつごろ刊行されたんですか?
坂野
平成五年、伊藤隆さん(政策研究大学院大学教授)が編集してる。
田原
こんなことも書いてありますよ。
米国の一新聞云わく、日本は何の為にに戦争をして居るのか自分でも判らないであろうと。
其通り、外字新聞を見ねば日本の姿がワカラヌ時代だ。(同書、9月1日の箇所より抜粋)痛烈なマスコミ批判ですね。外国の新聞を読まなければ日本の姿がわからない時代。
坂野
田原さんは何年生まれですか。
田原
昭和九年、1934年です。
坂野
オオカミを犬だと間違って戦争をして、昭和十三年(1938)に国家総動員法ができるでしょ。ここから先、どんなふうに日本の世の中がだんだん悪くなっていくのか、われわれの世代はみんな知ってるし、それぞれの体験がありますよね。
田原
ありますね。
坂野
だから、自分の体験を軸に戦前を語れば、どんな物語もできるでしょ。暗黒の時代だった、っていえばそうなるし。
田原
美濃部の追放から暗黒が始まったんだとも。
坂野
そうじゃないよ、っていう話を僕はずっと本などで書いてきたんだけど、東大を定年で辞めてほかの大学で教えるようになって、ついにこうなったかと困ったことがあって。
田原
どんなことです。
坂野
暗黒じゃないよ、その歴史観はウソだよと教えても、暗黒だって歴史観を知らないようになってきたんです。
田原
そもそもの基礎知識が大学生にもない。
坂野
だから一生懸命講義して、「実はこうなんだ」っていっても(笑)
田原
何が「実は」かわからない(笑)。じゃあ、この部分読んでもわかりませんね。近衛首相は国民に告ぐるの書を発表す。内容は見なくてもわかる。諭告と称するも、実質は国民を愈愚にするの書だ。
政府も国民も叡慮に背馳するばかり。
不忠の臣不忠の民、天皇の御親政のみが之を匡正し得る。御国を救ひ得る。(同書、9月10日の箇所より抜粋)
坂野
この本、実はあんまり知られてないんです。史料を出版する学者がいて、それを買う学者がいても・・・。
田原
読む学者がいない(笑)。
坂野
その証拠に、南京に攻め立てたときの日記もちゃんとあるんです。
田原
いわゆる南京大虐殺。昭和十二年一月*2ですね。「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る」の部分。
坂野
外務省の高官ですから、上海で何が起こったのか、南京で何が起こったのか、公電ですべてわかるんです。だから、南京でひどいことをやったことは事実でしょう。
田原
虐殺はなかった、という人もいますが。
坂野
それは論外でしょう。この日記には数字は書いてないから逆にリアルでしょう。事件当日の公電を読んで日記に書いているわけですから。
南京大虐殺については数字がひとり歩きしていますが、論争の仕掛け人である秦郁彦さんが最近のご本で、正確な数字なぞわかるはずがない、「正確な数は神のみぞ知る」(『現代史の対決』2003年、文藝春秋)と言っておられます。論争家だけど手がたい実証家でもある秦さんの意図を私なりに推測すれば、大袈裟な数字で誇張していると、虐殺の事実すら疑われてしまいますよ、ということだろうと思います。そういう意味からすれば、外務省の東亜局長に、事件直後に上海からこういう報告が入っていた、という事実のほうが、大切なのではないかと思います。
田原
この日記が証拠になると。
坂野
中国とまだ国交があったから、外務省の公館もあったのですよ。
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