児玉誉士夫の軍部評

児玉誉士夫『 悪政・銃声・乱世―風雲四十年の記録 』 より
支那事変以降の軍規の乱れに関しての記述を抜粋(P160〜163)。

 その年、つまり十二年の十月ごろと記憶するが、笠木良明先生の紹介が縁となって、たいそうじぶんの面倒をみてくれていた、河相達夫(当時の外務省情報部長)氏をたずねたところ、時局を心配されて、いろいろと話されたが、話の要旨は、だいたいつぎのようであった。

 きみたちはこの際、ぜひ中国大陸にいってみて、あちらの実情というものを、じっくりたしかめてくる必要があるとおもう。ということの第一は、現地へゆけばすぐにわかることだが、軍部、とくに陸軍のやりかたが、いかに乱脈で、でたらめで、皇軍の名に反しているかという事実なのだ。かつて明治大帝は、大義名分ということをやかましくおっしゃった。また、これをじゅんぽうすることが、日本軍隊の誇りであり、比類のないつよ味でもあった。
 もちろん、日清および日露の両戦役のころとは時代もちがっているが、それにしても今次事変における軍部のそれは、あまりにもひどすぎるように思えてならない。軍紀の紊乱はその極限にたっし、戦争遂行上やむをえないこととはいえ、徴発に名をかりて、さかんに暴行あるいは略奪がおこなわれ、それがため無辜の中国民衆の迷惑は、おそらく言語に絶するものがあろう。軍と軍とのたたかいはともかく、これにかかわりない民衆に苦しみをかけることは、結果において、かれらのはげしい憎しみと怒りをあおり立て、全中国人を敵にまわすことともなる。
 それと同時に考えねばならぬことは、きみたち愛国者国家主義者は、これまで軍部というものに、たよりすぎてきた傾向がありはしなかったか。
 しかしきみたちもせっかく丹精して、ひとつひとつ積みかさねてきた結晶が、こんどの事変によって次つぎにうち砕かれ、あまつさえ善良な中国国民をまで、泥足で踏みつけるような結果をさえ生んだ。たとえそれが、きみたちのほんとうの意思でなく、予期しないことにもせよ、事実はあくまでも事実として、率直に公定するほかあるまい。---だが、時局収拾は、これからでもおそくはないだろう。君なども、さっそくにも彼地へいって、その眼で現実のすがたをとらえ、その耳で中国民衆の声をきき、とくと反省し勉強することをすすめたい。


失われた軍規
 河相部長の発言の内容は、当時としてはずいぶん大胆でおもいきったものだった。憲兵特高が随所に眼をひらかせ、「軍人でなくては人にあらず」といったこの時代に、いかにしたしい間がらとはいえ、政府の高官にある身でこれだけのことがきっぱり言えたことは、氏が単なる官僚でない一つのあらわれでもあった。
(日本にこのままいようと、中国へ渡ろうと、国家につくすことにいあささかの隔たりのあろうわけはない)
 そう心がきまったわたしは、河相部長から必要な費用をだしてもらって、その年、<昭和十二年>の暮れ、そうこうとして東京を発っていった。
 自分の大陸行は、満州から北支那へ、そして中ソあい接する奥地へと、ふところ深くはいりこみ、そのとどまるところを知らなかった。だが、それによって得たものは、はたして何んだったろう。河相部長の言は、単にわたしの興味と関心をそそるための作り話でもなければ、根拠のないあて推量ではなかった。
 すなわち、この眸、この聴覚によってとらえた日本軍の実態は・・・まさに百鬼昼行、奇々怪々であった。占領地のいずれにおいても、だいいちに注目されるのは、日本内地とまったくかわることない柳暗花明で、脂粉の香むせかえるような売女が酒席にはべり、夜のふけるまで絃歌おおいにさんざめくのだった。そこにはもちろん、軍あるいは軍かんけいの車が白昼はまわず横づけされ、高級の日本酒や山海の珍味が提供されていた。上、これを行うときは、下またこれに倣うのが世の常で、上級者から下級の将校にいたる者までが、享楽にうつつをぬかし、わが世の春を存分に満喫していたのである。
 ときすでに、日本軍としての真面目、そして厳正なるべき軍規はうしなわれ、あるものはただ泡沫のような痴者の勝利感だった。
 わたしはあまりの極端さと醜悪さに、じぶんの眼を、耳をうたがい、「これが生死を賭けての、日本民族の興廃浮沈を決定する聖戦か」と、あきれもし失望しないではいられなかった。しかしながら、急斜面をおどろくべきスピードで転落しつつあった日本は、少数の良識ぐらいでは止めようもなかった。
 かくてじぶんは、あくる十三年の二月、はげしい絶望感とやりきれないおもいを抱いて、日本へ帰ってきたのである。

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[2007.10.26追記]
児玉誉士夫われ、かく戦えり*1

20 支那事変の勃発と抗日思想
 昭和十二年六月、このあわただしい世界状勢のなかに林内閣は退陣し、近衛文麿第一次内閣が成立した。そして七月七日、支那事変の導火線となった盧溝橋事件が勃発した。
 ちょうどそのころ、自分は石川県の加賀の白山に登っていた。この数年獄中生活をつづけてきた自分には、白山山頂にたって、混濁した社会から離れて静かに大自然のなかにとけこんでいられたことは、篭のなかから解放されたような大きなよろこびであった。そこには革新とか党派とかという煩わしさもなければ、面倒な屁理屈もなかった。
 盛夏の八月、山上はすでに秋風がたち、渓谷は万年雪で埋まっていた。雪水で米を炊く山小屋の夜、山の強力たちが、
  加賀の白山しろやまなれど
  雪は降るまい六月は
 と唄う。この哀調をおびた歌をきいていると、過ぎ去った革新運動の激しい闘争も、苦しかった獄中生活も、みな夢のような気持がして、一切は空漠の彼方へ消え去るのであった。
 このころ、白山の麓の村からも、若い人たちが順次動員されていった。盧溝橋事件はついに全面的な支那事変に発展していった。
 間もなく自分は東京へ戻ってきた。第二次上海事変が勃発していた。国民の全神経はそこに集中され、しかも予期せざる中国兵の頑強な抵抗に遭遇して、はじめて、国民は数十年来常識化していた、古き支那とははるかにちがっている中国を発見したのである。しかし、その認識程度は「中国兵もなかなか強いぞ」というぐらいで、中国全土に漲りわたる火のような抗日思想と、その根源が満州事変のみでなく、過去数十年来にわたる日本の対支政策にあったことを国民の大部分は知るよしもなかった。国民の大半は、軍部と同様に支那大陸は砲火と銃剣をもって鎧袖一触、簡単に占領し解決できると考えていた。
 昭和十二年十二月、南京が日本軍の手に陥ち、翌十三年一月、「国民政府を相手とせず」という近衛声明を発表されたときには、戦場はすでに内蒙、北支、中支、南支と全中国に拡がっていた。事変勃発当初、特別議会で「支那事変は永定河と保定の線で停止する」と陸軍大臣は言明したが、勢いに乗った現地軍は同年五月には徐州に殺到して大会戦が展開した。"徐州々々と人馬はなびく"と唄って日本軍が徐州で戦っていたころは、国民も兵隊も支那事変についてなんらの疑問ももたなかった。しかし昭和十三年十一月、武漢三鎮が陥落した後、近衛首相が「国民政府を相手とする」という声明を再び発表するに及んで、現地で戦う兵隊のなかには支那事変の本質について反省し、疑問をもつものがしだいに多くなってきた。事変の長期化にしたがって、宣戦の詔勅のない戦いの疑念もまた当然であった。名目は事変であっても事実は戦争であることを、現地に転戦するものはいちばんよく知っていたからである。


21 崩壊しつつあった皇軍
 昭和十三年五月の徐州会戦から間もなく張鼓峰事件がおきた。この年の二月、自分は二、三の同志とともに独自の立場で経営していた「二月会」その他の団体を解散し、国内の思想運動とはしばらく袂別して、現実の中国を実地に観察し、中国とその精神をつぶさに勉強したいと思って、戦乱の熱河省から北支那をめぐり、そして八達嶺の長城線を越えて内蒙古方面に長駆旅をつづけた。
夏草の生い茂るなかに戦死者の枯骨が散乱する八達嶺附近の戦跡を旅するころは、八月の暑いさかりであった。青々とした樹蔭に銃を抱いて立つ日本兵の姿をみ、戦場とは思われない寂しさを感じた。黄土に濁る中国の河や堀とは異なった八達嶺の谷間の清流はこよなく美しく、名も知れぬ小魚の泳ぐのさえもすがすがしくみられた。
 この八達嶺を境に蒙疆地区に入るが、その後自分は各地において日本軍の行動を見、あるいは戦乱の桎梏に悩む中国民衆の姿を見ながら張家口、大同、厚和と旅をつづけた。自分の目に映るあらゆる事象は、現実の中国を深く認識させる貴重な学問であった。
 そのころ蒙古連合自治政府は厚和におかれてあり、政府に関係する日本人の大部分は満州国から派遣された官僚であった。ここでも官僚の派閥がすでに存在し、そして軍の特務機関が独裁的な権力をふるっているのを見た。後日包頭で戦死した篠塚市之助という五・一五事件の関係者が死ぬ前に残した歌の一部を記憶している。
  長城線越え蒙古の果に
  光もとめて来るには来たが
  風は吹く吹く娑婆の風!
 彼も出獄後、新しい希望に燃えて蒙疆の地にきたのだろうが、占領地における日本軍の行動、新政府内における日本人官僚の堕落と派閥、そうした実体をみて、そこにはかつて彼が心の理想とした皇道の実践、皇軍の面目などはどこにもみられず、あるのはただ、日本国内の腐敗したありさまが、ここまで延長されたにすぎないことを発見し、「われわれは何のために五・一五事件に参加したのか」と悲憤せざるを得なかったであろうと思う。
 満州でも蒙古でも日本人の進出するところ必ず派閥が伴い、お互いがいがみ合っていた。戦乱の北支と内蒙の各地を旅して感じたことは、支那事変にたいする本質的な矛盾と疑問だった。ことに驚かされたのはいたるところの戦場に奮戦する中国軍の頑強さと抗日思想の激しさであった。それに比較して日本軍幹部の堕落と、兵の素質の低下はおよそ意外に感ずるものであった。もちろん、まだ全般的にはそうではなかった。特務機関とか謀略参謀の職責にある人々の日常は、皇軍の崇高な精神をまったく忘却したものであった。機密費の乱費、酒と女、こうした暗い影が占領都市のいたるところでみられた。
 自分は日本を発つ前に外務省情報部長河相達夫氏を訪ねて、外地を旅するに必要な援助と注意をうけたが、そのとき河相氏が数枚の写真を見せて「これが天皇の軍隊のすることだろうか」と言って憤慨していたが、それは現地にある日本軍が中国の婦女に暴行を加えている、みるに堪えぬ写真であった。そのとき、ふと、これは中国政府が民衆に抗日思想を宣伝するためのトリックではなかろうかと疑ったが、いろいろなできごとに直面してみると、この写真が真実であることを行程せざるを得なかった。
 当時、大同では、「大同に処女なし」という言葉があったが、この言葉の意味は日本軍の恥辱を意味するものであった。また占領地の寺や廟に行ってみても仏像の首などが無惨にとり毀され、その壁には「何年何月何部隊占領」などと落書してあった。人間が神や聖人でないかぎり、どこの軍隊でも戦場では若干の非行はあるとしても、当時、日増しに激化してきた中国の抗日思想の源が満州事変のみではなく、こうした日本軍の常識はずれの行為がさらにそれに拍車をかける結果となったのだと思う。
 満州事変以来、国防国家の確立に名をかりて政治権力を獲得することを狂奔してきた軍の首脳部は、部下にたいする統御力をしだいに失ってきていた。陸軍大臣が中央にあってロボット化されていたと同様に、軍首脳部もまた現地軍を統御できなかった。そして現地軍の幹部は将校、兵士の非行を取締るには、あまりにもその行いは威厳を失墜するものがあった。要するに軍部内に革新派生まれ、首脳部がそれを政治的に利用し、政治的に進出するにつれて下克上の思想は軍全般に漲ってきたのだった。いわば当初国内政治を革新することを目的とした、少数の下級将校の行動は知らぬ間に軍自体の規律を破壊し、日本軍を思想的に崩壊させる結果になった。軍部内の下克上のこの思想が結果支那事変を誘発し、そして現地における不規律を助長するようになったといえる。
 要するに宣戦の詔勅なき戦争、名文の明らかならざる戦い、支那事変は畢竟、王師ではなく、驕兵であったかも知れぬ。自分は戦場を旅し、大陸における実状を知るにおよんで、在支百万の日本軍が聖戦の師であるか、侵略の驕兵なるかの疑問に悩まざるを得なかった。このことは自分のみならず現地を知るものの多数が考えさせられた問題であったと思う。しかし国民のなかの多数の者がそれを自覚し得たとしても、すでに軍国主義の怒濤が逆巻き、もはや何人も力をもってしてもそれを阻止することは不可能であった。そして、この軍国主義の怒濤は、昭和四、五年以来、政党不信のスローガンに、国民大衆が挙げた革新の叫びとその雰囲気のなかから生まれでているとすれば。そして自分もまたその革新勢力のなかの一つの勢力であった右翼派の一人として行動してきたことを思うと、支那大陸に野火のように拡がって行く軍国主義日本の現実をみて、自らも悔いねばならぬもののあることを知った。


32 南京の哀愁
 南京は落ち着いた静かな街であった。自分はよく紫金山を歩き、光華門の戦跡などをみて歩いた。紫金山の麓、革命記念塔の付近には小松原が多く、この辺を歩いていると日本にいるような気持になった。光華門の戦跡には、まだ日支双方の骸が草深いところに散らばっていた。自分はそれをみるたびに同行の友人らとともに、それを集めて林立する墓標の下に埋めた。雨や風にさらされた一片の白骨は、敵味方の区別もつかず、また区別する必要もなく共に埋めた。城壁の上には日本軍の墓標があり、城壁の下には中国軍の墓標があって、香煙がたちのぼり、草花が供えられ、絶ゆることがなかった。
  銃とりて戦うことの悲しけれ
    同じ亜細亜の民にあらずや
 戦跡を歩き、墓標の前に立つごとに、こう思った。そして過ぎし日、この城壁に突撃して斃れた日本の若い多くの兵や、これを最後まで死守して斃れた中国の紅顔の学生軍などの雄々しくも激しい戦いが想われ、そしてこ尊き犠牲となった霊魂を安らかに鎮める平和の日がはたしていつの日来るかを思うのであった。しかし自分にしても、明日にも召集の命令がでれば、すべてをかなぐり捨てて一兵卒として出征し、無意味な戦いと知りながらも、自分が日本人であるかぎりは身命を賭して戦線にたたねばならぬことを思うと、戦争も平和も人間の力でなされているようだが、その力は実際は人間以上のある大きな力で支配されているように考えられるのであった。

*1:児玉誉士夫著作選集 『風雲』下巻収録分より引用 P65〜70