「南京戦史」関連年表


偕行社により編纂された『南京戦史』にまとめられていた年表です。
※参考:秦郁彦著『南京事件』年表

長いので束ねときます。

昭和12年(1937)
7月7日
北京郊外盧溝橋附近で日中両軍衝突

8月5日
「抗戦法規ノ適用ニ関スル件」梅津陸軍次官より駐屯軍参謀あて通牒(日支全面戦ヲ相手側ニ先ンシテ決心セリト見ラルルカ如キ言動ハ努メテ之ヲ避ケ」るものとした)


8月9日
上海紅橋飛行場付近の道路を通行中の上海陸戦隊西部派遣部長・大山中尉と斎藤一等水兵、中国保安隊に射殺される

8月13日
閣議、上海居留民保護のため、陸軍2コ師団派遣を決定


8月15日
政府、支那軍膺懲、国民政府の反省を促す帝国声明を発表
上海派遣軍を編組
海軍中攻隊、南京・南昌を渡洋爆撃
蒋介石、全国総動員を下令、大本営を設置(全面戦争体制を採択)


8月21日
南京で「中ソ不可侵条約」調印


8月22日
第三師団先遣隊、呉淞に敵前上陸
中国国民政府軍事委員会、中共軍を第八路軍として中国軍に編入


8月23日
第11師団、川沙鎮に上陸


8月24日
第3艦隊長官に中国船舶に対し揚子江以南の中国海湾封鎖の大命伝達


8月26日
英国駐華大使ヒューゲッセン、わが海軍飛行機の誤射により負傷(9月21日、外交折衝により解決)


9月2日
閣議、北支事変を支那事変と改称


9月5日
わが海軍、全中国沿岸封鎖を宣言


9月7日
台湾軍に重藤支隊の上海派遣を下令


9月9日
中国、国防最高会議を設置(主席蒋介石、副主席汪兆銘)


9月11日
大本営、上海は健軍の戦闘序列、第9、第13、第101師団の上海派遣を発令


9月12日
中国、日中間の事変を国際連盟に提訴


9月14日
重藤支隊、川沙鎮上陸


9月19日
第3艦隊長官、在上海各国総領事に南京爆撃を予告(20日、非戦闘員の退避勧告)
海軍第2聯合航空隊、南京空襲開始(25日まで空襲11回)


9月25日
政府、日中紛争に関する国際連盟諮問委員会の招請(9・21)を拒絶


9月27日
第9師団、呉淞に上陸
参謀本部第一部長交代(石原莞爾少将→下村定少将)


9月28日
国際連盟総会で日本の中国都市爆撃避難決議を全会一致で採択



10月1日
第13師団、呉淞に上陸


10月5日
米大統領ルーズベルト、シカゴで日独を侵略国家として非難する(いわゆる隔離演説)


10月12日
参謀本部、主作戦を北支方面から上海方面に転移を決定


10月15日
上海派遣軍、大場鎮総攻撃を開始(26日占領)


10月26日
陸海軍中央統帥部、陸海軍航空協定(中支方面使用兵力、・陸軍45機、海軍233機)
第10軍の戦闘序列を令し、杭州湾北岸上陸の大命発令
支那方面艦隊新設(第3、第4艦隊で編成、長官・長谷川清第3艦隊長官兼務)


10月30日
駐華独大使トラウトマン、中国国民政府外交部次長と会談
北支から第16師団を転用、上海派遣軍に編入


10月31日
上海派遣軍、蘇州を渡河、南岸の中国軍陣地に対する攻撃を開始


11月1日
参謀本部の編成を一部改正、事変勃発以来、常に意見が対立していた戦争指導課と作戦指導課を一課に統合した


11月2日
広田外相、ディルクセン Dirksen, Herbert Von 駐日独大使に対中国和平条件を示す(11月5日、トラウトマン大使より蒋介石に通告、トラウトマン工作始まる)


11月3日
ラッセルで日中紛争に関する九ヵ国会議始まる(11月15日、日本非難決議採択)


11月4日
「交戦法規ノ適用ニ関スル件」次官通牒、「各軍ニ通牒セラレアルニ付」として丁集団(第十軍)参謀長宛発信(陸支密第一七七ニ号)


11月5日
第10軍、杭州湾北岸に上陸、上海戦線の背後につく


11月7日
「中支那方面軍」の編合を下令(作戦地域は蘇州−嘉興の線以東と限定)


11月9日
上海戦線の中国軍、退却を開始


11月13日
第16師団と重藤支隊、白茆口付近に上陸


11月14日
支那方面軍、は蘇州−嘉興の線に向かい追撃を始める(19日、この線に進出)


11月16日
中国国民政府、重慶遷都を宣言


11月19日
支那方面軍、独断で作戦限線を越え無錫・湖州攻撃を準備


11月20日
皇居内に大本営を設置


11月22日
支那方面軍、南京攻略の必要を意見具申


11月23日
駐華ジョンソン米大使、漢口へ移転


11月24日
第1回大本営御前会議で陸海軍作戦計画を上奏、先に指示した駐支那方面軍の作戦地域の制限を解除


11月24日
唐生智、南京衛戍司令長官に任命される


12月1日
大本営、駐支那方面軍の「戦闘序列」を下令、南京攻略を命令


12月2日
蒋介石、トラウトマン独大使と会談(日本の和平条件を質問、7日駐日ディルクセン独大使、広田外相に伝達)
上海派遣軍司令官に朝香宮鳩彦中将を親補


12月7日
蒋介石夫妻、南京を脱出


12月9日
松井中支那方面軍司令官、唐生智に開城投降を勧告(回答なし)


12月10日
支那方面軍司令官、南京城攻撃続行を命令


12月11日
早くも日本全国で南京陥落の祝賀行事が盛大に挙行された


12月12日
米砲艦パネー号、南京上流揚子江上で海軍航空部隊の誤爆により沈没、蕪湖付近で公開中の英砲艦レディバード号、第10軍砲兵部隊の砲撃により損傷


12月13日
支那方面軍、南京占領


12月17日
南京入城式


12月18日
支那方面軍慰霊祭


12月21日
閣議で日華和平交渉に関する駐日独大使への回答文を決定し上奏(22日提示)


12月22日
佐々木到一少将、南京城内粛清委員会に就任


12月24日
第16師団による南京難民区の兵民分離査問工作始まる(1月5日まで続行)


12月28日
参謀総長陸軍大臣連名の通牒「国際関係ニ関スル件」が中国派遣各軍司令官あて出される
第10軍司令部、杭州へ移転



昭和13年(1938)
1月1日
南京自治委員会成立


1月2日
阿南陸軍省人事局長、南京へ向かう(1月8日帰国)


1月4日
軍紀風紀の振作に関し駐支那方面軍司令官あて参謀総長要望(1月9日、塚田方面軍参謀長名「依命通牒」が出される)


1月11日
大本営、政府首脳による御前会議、支那事変処理根本方針を決定(国民政府が和を求めて来ない場合は、以後これを相手にせず、新政権の成立を助けるなど)


1月12日
外務次官、駐日独大使館参事官と会談(15日までに和平交渉についての中国側回答を得たい旨依頼)。駐支独大使、中国外交部長へ日本側情勢を伝え回答を促す(13日、中国外交部長は日本向け回答文を独大使に手交)


1月14日
駐日独大使、中国側回答(日本提案の具体的な内容を知りたい)を広田外相に手交、内閣は閣議を開き対策を協議したが、大本営は即断に反対し、政府との連絡会議開催を要求した


1月15日
参謀本部は、大本営政府連絡会議で政府の主張する和平交渉打切り案に烈しく反対したが、事変遂行中、いま内閣退陣の政変を起こすは得策ならずとする米内海相らの意見に屈服、ついに中国との和平交渉打ち切り決定
大本営、中支那作戦終了に伴い北支那要域確保のため第16師団を上海派遣軍から除き、北支那方面軍編入を発令


1月16日
政府、駐華独大使トラウトマンを通じ中国に和平交渉打切りを通告、近衛首相「爾後国民政府を相手とせず」との対華声明を発表


1月18日
川越駐支大使に帰朝命令(28日上海発帰国)
(中国・許世英駐日大使は1月20日横浜港発帰国、駐日大使官参事官揚雲竹ら一部の館員は13年6月11日まで在留した)
参謀本部第一部長交代(下村定少将から橋本群少将へ)


1月20日
杉山陸相「長期持久戦に臨む将兵の心構え」を全軍に訓示、「全軍将兵一致結束特ニ堅忍持久ノ精神ヲ以テ職分ニ最善ノ努力ヲ傾注スヘシ」


1月22日
第73回帝国議会再開(3月8日、臨時軍事費48億円を含む予算案設立。3月24日、国家総動員法可決、4月1日公布)
中島第16師団長、南京を去り、天谷少将、南京警備司令官に就任


1月26日
南京市内で日本兵によるアリソン米書記官殴打事件発生
ソ連人義勇飛行士の操縦する中国空軍機、南京を空襲


1月27日
上海派遣軍の第13師団、中国軍の反撃を封ずるため准河河畔進出作戦開始(2月10日まで)


1月28日
本間参謀本部第二部長、上海へ(2月1日、外交団を招待して南京しないでパーティー開催)


2月4日
大本営政府連絡会議(今後の持久戦方針について統帥部とはるかに積極的な政府との議論かみ合わず)
ドイツ、国防省ブロンベルク、陸軍司令長官フリッチュの解任を発表(ヒトラー統帥権を掌握、その命によりファルケンハウゼン以下のドイツ軍事顧問団は蒋介石の強い反対を押し切り、13年4〜5月本国引揚げとなる)


2月7日
上海派遣軍慰霊祭で松井大将異例の「軍紀引き締め」を訓示
中ソ軍事航空協定調印(ソ連、中国に軍用機・技術者・操縦士の提供を約束)


2月10日
大本営、第114師団を第10軍の戦闘序列から除き、北支那方面軍編入を発令


2月14日
大本営、中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍の戦闘序列を解き、中支那派遣軍の戦闘序列を下令(2月18日、統帥発動)


2月15日
国民政府外交部亜州司日本科長・董動寧、満州国外交部・伊藤芳男の案内で長崎上陸、上京して参謀本部謀略課長・影佐禎昭大佐らと日中和平問題につき会談


2月16日
大本営、御前会議において「戦面不拡大方針」を確立(「13年夏季を目途とする支那事変帝国陸軍作戦指導要綱」を再か)
支那ニ於ケル現占拠地域ヲ確保シテ其ノ安定ヲ期スル共ニ対蘇支二国作戦ノ為軍ノ実質的整備ノ完遂ヲ図リ第三国特ニ蘇国ニ対シ警戒ヲ厳ニス
状況之ヲ許スニ至ル迄右戦面ヲ拡大シ又ハ新方面ニ対シ作戦ヲ行フコトナシ」とした。
「占領地域」ではなく「占拠地域」としたのは、8月5日の「陸軍時間通達」と関連するものと考えられる


2月18日
支那派遣軍司令官・畑俊六大将午後2時半、上海呉淞飛行場着
海軍の中攻隊、初めて重慶を襲う


2月21日
松井大将、参謀長・塚田攻少将ら幕僚を従え瑞穂丸に乗船、午後2時上海発離任(25日東京着)
中国軍爆撃機十数機、杭州飛行場に来襲(事変始まって以来、わが飛行場に対する初攻撃)


2月22日
柳川中将、午後3時、上海出港、東京丸で離任帰国


2月23日
朝香宮午後3時、上海出港、吉野丸で離任帰国
中国軍機、台北付近を爆撃(わが領土に対する初めての攻撃)


2月26日
大本営、第11師団(歩兵第10旅団欠)の内地帰還と歩兵第10旅団の中支那派遣軍指揮下編入を発令


3月1日
ソ連、中国に総額五千万ドルの借款を供与(第一次借款協定、これらの借款は飛行機、戦車、火砲、爆薬、燃料など軍需資材の対ソ買付けに使用された)


3月3日
陸軍省軍務課員佐藤賢了中佐、衆議院国家総動員法案委員会で説明員として答弁中、委員に向かい「だまれ」とどなって、問題となる


3月21日
米国パネー号賠償金221万4千ドルを要求、日本承諾


3月28日
中華民国維新政府、中支那派遣軍の指導で南京に成立(行政院長梁鴻志・立法院長温宗堯・内政部長陳群−−「三人共大した代物にあらず」畑俊六日記3月13日の項)


3月29日
漢口で国民党臨時全国代表大会ひらく(4月1日まで)、「抗戦建国綱領」を発表、蒋介石、党総裁に就任し非常大権を与えられる(副総裁汪兆銘)


4月1日
国家総動員法公布(5月5日施行)


4月4日
駐ソ重光大使、ソ連人飛行士の対日参加についてリトビノフ外務人民委員に厳重抗議を申し入れたが、ソ連の反応はきわめて冷淡であった(日本政府当局の補償するところによれば日本と中国とは戦争をしていないということであり、日本政府の言い分は理解できない−−4月5日付「イズベスチヤ」)


4月6日
瀬谷支隊(第10師団、徐州東北方台児荘で苦戦し退却)


4月7日
大本営、徐州作戦の発動を下令


4月20日
支那開発株式会社法・中支那振興株式会社法を公布


5月14日
国際連盟理事会、日本の毒ガス使用に関、し非難決議案を採択


5月19日
第13師団、徐州を占領


5月26日
毛沢東、延安の抗日戦争研究会(6月3日まで開催)で「持久戦論」を発表



※誤字脱字ご容赦。