『 広田弘毅 』における日高発言


広田弘毅広田弘毅伝記刊行会(1966、1992)
における日高信六郎氏の発言箇所*1を前後も含めて引用します。強調は引用者。

南京惨虐事件発生と広田外相の措置

 南京陥落という歴史的事実の展開と同時に「南京惨虐事件」というものが発生した。これは広田外相の全く与り知らざる事柄であったが、不運にもまさに当時の外相であったが故に、やがて東京裁判においてその責任を問われることになり、広田を不慮の運命に陥れる最大原因の一つとなったのである。ここに一項を設けて本事件の顛末と広田外相の措置を明らかにせんとするゆえんである。
 南京が陥落したのは昭和十二年(一九三七年)十二月十三日であるがこの時、はからずも現地において南京惨虐事件なるものが発生し、痛く世人を驚かした。この事実は当時日本軍官憲の厳重なる報道管制により外部には秘密にされていたが、日本側権力の及ばない外国筋からその真相が広く世界各地へ報ぜられてセンセーションを捲き起こし、あらゆる非難攻撃がわが軍に集中された。


 南京惨虐事件の情報が最初に外務省に伝えられたのは南京攻略直後のことで、総領事館に復帰した福井総領事代理からまず電報をもって本件の概況が通告せられ、続いて翌十三年一月初旬岡本上海総領事から書面をもって詳細なこ とが報告されてきて、初めて本省ではかかる不祥事件が実際に行なわれていることを知って驚いたのであった。というのは、日本軍の軍規厳正なることは、日清戦争義和団事件以来幾多の戦争を通じて、すでに世界の定評となっており、日本人のみならず、世界の多くの人々もまた日本軍に絶対の信を置いており、信頼しているほどだったからである。ところがその後世界各方面から伝えてくるところでは、日本人が楽観しているように安易なものでないことがだんだんわかってきた。
 現地の南京では福井総領事代理以下が身辺の危険を冒して関係軍人の制止につとめる一方、東京では石射東亜局長より陸海軍務局長に警告するほか屡次局長会議を開いて陸軍側の反省を求めた。殊に広田外相は大いに憤怒するとともに、杉山陸相に対して軍紀の粛正とその堅持とを強硬に要望し、事態の善処方を希求した。杉山陸相も広田外相から再三の警告を受けるや、現地の松井軍司令官に厳重監督し取り締るべきことを厳訓したが、予想外の暴状で、全く手のつけようがなく、また実際問題としても法制上からも軍の行動に何らの発言権を有せざる外務省としては警告によって反省を求める以外これを終熄せしむる手段はない状態であった。
 一方南京陥落前から同地に残留していた外国人は国際安全委員会なるものを組織していたが、同委員会が南京における日本軍の惨虐事件の真相を調査してわが方に連絡するとともに、日本軍の暴状は今なお続行されているという詳細な記録を作成して公表し、在上海のYMCA米人幹事からも実情を通報したため、問題はいよいよ重大化し、人道上放って置けない上いうので世界の大問題となった。そこでわが外務省はもちろん陸軍省でも全方を挙げて善後策を講ずることとなり、参謀本部からは第二部長本間雅晴少将を現地に特派し、松井軍司令宮とはかつて軍規の粛正を実行せしめた。その後間もなく本事件は下火となり、やがて一段落を告げるに至ったが、この惨虐事件のため一般中国人士の深刻な反感を煽り、わが軍の名誉は非常に傷けられたのみならず、戦時下とはいえ日本国民の国民道徳がいかに低下せるかを外部に露呈したのは実に痛惜に堪えないところであった。
 ちなみに南京陥落後その守備に当った朝香宮司令官は、内地帰還後親しく広田外相を訪ね、その労苦を謝するとともに、本件に関して陳謝の意を表された。


 一体何故にかくの如き不祥事件が起こったのであろうか。この点に関して当時現地にあって外交折衝の任に従事していた南京大使館参事官日高信六郎は次の如く語っている。

 はじめに華北で撃ち合いが始まり、それから間もなく上海事件が起こった。当時上海には、日本人居留民(五〜六万人ぐらいだったと思う)とその権益を保護するという名目で、海軍の陸戦隊が駐屯していたが、ごく少数だったから、何か事が起こった場合には非常に危険な状態にあった。そこで海軍としては上海では事を起こしたくない、戦闘は北支那にとどめておきたいという気持が強かった。ところが、図らずも大山中尉射殺事件が起こり、思いがけぬことから撃ち合いが始まって、遂に陸軍派兵ということになった。しかし、それは上海の日本人居留民の保護が日的で、十二月初めまでは南京を攻めるというようなことではなかったと私は諒解している。
 ところが、いざ上海で戦ってみると、中国軍は非常に強い。日本人の予想とは大違いで、抵抗は激しいし、加えて民衆の対日の空気も実に冷やかだった。つまり、それだけ反日気分が強かったということかも知れない。五年前の昭和七年第一次上海事変で日華両軍が撃ち合った同じ場所で戦ったのだから無理はないだろう。
こうして、しばらく膠着状態を続けたのち、とにかく上海における戦闘は終終熄した。その終りころには、人口の多い国際都市のそばで、両軍が対峙するというよりむしろ乱戦であつたから、その間、栢当の混乱は免れなかったようであるが、残虐行為などは行なわれなかったようである。




 上海周辺における戦闘の終末期に仏人ジャキノ神父は、在留外人有力者と諮って中国非戦闘員のために南市の一郭に安全地帯を設け、多数の人命を助け賞讃を浴びたが、彼の行動に対し日本側は当初から好意的態度を示し、陸海軍司令宮は寄付金を贈り、広田外相は書を送ってその人道的事業を讃え、その成功を祈ったのであった。
 その後、中国軍は蘇州あたりまでは猛烈に抵抗していたが、柳川中将の率いる部隊が杭州湾に上陸すると、横を衝かれるというので急に退却し始めた。非常なスピードで、一方は退却し、他方は前進したから、いきおい乱戦となり、ひいては残虐事件を惹起する下地を作るようなことになった。
 中支派遣軍司令官の松井大将は、人も知る大アジア主義者で、立派にやろうという気持が非常に強かったから、南京攻撃に際しても、事前に降伏を勧告するつもりであった。ところが蒋介石らはいち早くも漢口に移り、市長はじめ市の要路者はいずれも逃げてしまったし、中国軍も一時頑強に抵抗はしたが、結局は逃げ出し、しかもサッと退却したものであるから、それにひきずられるような恰好で、日本軍は予想外に早く南京に入城した。松井さんの考えでは、城外に主力をとどめて置き、ごく少数の優秀な兵隊だけを入城させるつもりだったが、城外はすっかり焼き払われて、宿泊設備も何もない有様だったから、結局全部入城することになった。そして、それがやがて南京事件を惹き起す大きな原因の一つとなったのである。
 それより先、揚子江にはパネー号など外国艦船が多数碇泊しており、日本軍の警告で安全な上流に難を避けることになった。ところが、日本側も予測しなかったことだが、柳川兵団あたりが猛烈なスピードで揚子江上流に出て敵の背後にまわったから、安全だと思っていたところが安全でなくなってしまった。わが将兵はかねてから米英は敵軍を援助しているものと信じ込んでいたから、遡航するパネー号などの艦船を見て、「さア支那兵が乗って逃げて行く。撃て!」というのでやってしまったような次第である。
 一方、レディバード号はイギリス艦と知りながら、橋本大佐が撃たさせたらしい。もちろん、初めは知らなかったのだろうが、あとで艦長が語ったところによると、「間違えられていると思い、イギリスの旗を立ててわざと近寄って行ったのに、撃ち続けた。あまり接近して大砲の死角に入ったので、やっと撃つのをやめたが、そのために負傷者が出た」ということであった。
 外国の権益の保護という点については、松井さんは特に厳しかったから、われわれも加勢して外国権益のあるところをマークした地図を兵隊に配布したり、立入禁止の立て札を立てたりしたのだったが、最初のうちはそれが徹底しない憾みがあった。ハーバード系の金陵大学における婦女暴行事件などはその著しい例で、外国でも大分問題にされた。しかし外国の権益は、概して保護されたといってよく、それほど大きな問題にはならなかったようである。
 陥落後の南京城内は、文字どおりカラであった。中国側の軍事行政その他の機関や官吏は一斉に退却し、市の役人や警察官まで姿を消し、完全な無政府状態であった。その上外国の大公使館、領事館の職員その他の外国籍職員も全部立ち去ってしまい 若干の米人宣教師と僅かに残ったドイツ人など数名の外国在留民が外国人居住地区のなかに設けた安全地帯に二十数万(戦前南京の人口百万と称せられた)の下層民が避難しているだけであったから、日本軍としてはとりつくしまもなかった。普通なら、市の有力者が自治委員会などを組織して、迎えに出たり交渉に当ったりするものだが、そういうものが全くなかった。ある意味では 非常に不幸なことで、そのようなことが結果的には日本軍をして無茶なことをやらせるところまで追い込んだのだと思われる。
 しかし、何と言っても残虐事件の最大の原因の一つは、上層部の命令が徹底しなかったことであろう。たとえば捕虜の処遇については、高級参謀は松井さん同様心胆を砕いていたが、実際には、入城直後でもあり、恐怖心も手伝って無闇に殺してしまったらしい。揚子江岸に捕虜たちの死骸が数珠つなぎになって累々と打ち捨てられているさまは、いいようもないほど不輸快であった。
 しかし心がけのいい軍人も少なくなかったし、憲兵もよくやっていたが、入城式の前日(十二月十七日)憲兵隊長から聞いたところでは、隊員は十四名に過ぎず、数日中に四十名の補助憲兵が得られるという次第であったから、兵の取締りに手が廻らなかったのは当然だった。そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐的心理になるらしい。戦争がすんでホッとしたときに、食糧はないし、燃料もない。みんなが勝手に徴発を始める。床をはがして燃す前に、床そのものに火をつける。荷物を市民に運ばせて、用が済むと、「ご苦労さん」という代りに射ち殺してしまう。不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった。
 問題はこのような放火、殺人、暴行、掠奪といった残虐行為を、外国人の見ている前で働いたということであろう。しかも軍の上層部では戦争に没頭していたし、今日とは違ってラジオ・ニュースなどもなかったから、このような事件をあまり知らなかったのである。そこで私は、多分十二月二十五日だったと記憶するが、司令宮の朝香宮を訪ね、「南京における皇軍の行動は全世界の注目を浴びているから、そのおつもりで・・・・・・」と、暗に注意を促してから、参謀長に会い、「いま、こういう話をしてきたが、外国の権益のあるところでは慎重にやらねばならない。南京でやっていることが世界中の評判になっているから、大いに自重して欲しい」と申し入れたところ、素直に諒解してくれた。その他警備司令部、憲兵司令官などをも歴訪して同趣旨を説いてまわったことを覚えている。
その後、南京における状況が東京にもわかって、外務省から陸軍側に知らせたり、外務大臣から陸軍大臣に善処方を要望したりする一方、陸軍も本間少将を現地に派遣したり、法務官をやって軍律を励行するなどしているうちに、事態は漸次改善されていった。
 この事件を通じて、外務省としては。現地においても、また東京においても、でぎる限り適切な処置をとったと私は信じている。広田外務大臣は事件を閣議に持ち出すべぎだったという議論もあるが、それは当時の事情から言って、かえって逆効果をきたしたであろう。もし閣議にはかったりすれば、閣議統帥権に容喙するとして、一層陸軍を刺激したに違いない。そこで外務省としては、陸軍大臣に厳談し、軍務局に厳重抗議したのである。
 広田さんとしては、南京事件に関する限り、最も有効と思われる手段をとったと私は思う。パネー号事件の時などは、みずからグルー大使を訪ねて頭を下げているが、もしその処置を誤まれば、危うく日米開戦にもなろうというところであった。
 結論としては、叙上のような特殊の事情はあったし、また日本軍は軍紀厳正たど信じ切っていた日本人一般の軍に対する過大評価も問題になるであろうが、根本は、軍人に限らず、日本人全体から、いつのまにかモーラル・チェックというものが失われていたという点にあると思われる。いついかなる時にも、人として絶対にある程度以下のことはしないという心構えの欠如が、南京事件を惹起した最大の原因であると私は思う。


ところが戦後東京で行なわれた極東軍事裁判では、この事件もまた有力な戦争犯罪の一つとして取り上げられ、事件の直接の最高責任者である松井司令官はもちろん、広田外相も同事件に関する不作為の罪を問われることとなった。それは実際広田の思いもよらぬ出来事であったのみならず、憲法上の権限を持たぬ広田外相としては迷惑至極の事件であった。しかも広田が職責上とるべぎ手段は遅滞なく十分にとっていることは、当時の外務省主管局長石射猪太郎等の弁明発表するところにも明らかである。このことに関しては、東京裁判編(第八編)に関係証人の証言等を引用してあるから、すべてはその項を参照されたい。


南京事件−日中戦争 小さな資料集 で引用されている、
十五日 じゃなくて 二十五日 が正しいようですね。

いやぁなんでも確認してみるもんですね。

*1:日高発言はP311〜315。引用文全体はP309〜315