大寺隆


南京陥落後一週間企画


収録 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』・・・第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 小野賢二、藤原彰本多勝一 大月書店


所属:歩兵第65連隊第7中隊・第4次補充
階級:上等兵
住所:福島県
入手経路:本人から
日記の態様:
 縦7センチ×横12.5センチの手帳。縦書き。
 11月24日までは主としてカタカナ書き、それ以降はひらがな書きとなっている。


日記 P193〜197 ※誤字訂正

十二月十三日
 丹陽鎮江八里、寒くて四時頃目を覚す、今朝は各人毎に飯を炊き、八時整列、今日の行程、丹陽より鎮江まで最後の行軍だ、今日四人組は菅野さんがヌけて三人で部隊の後方に着いて来る、今日からは各個に出ると敗残兵が居つて危険と云ふわけで、道は所々新道が悪いだけで良かつた、正午頃から部隊の前方に出る、ほこりでとても一緒に歩けない、途中で佐藤武雄さんに会ひ、荷をつけてやり一所に行く、六時過ぎ鎮江の宿舎手前に着き、身をふき、飯盒などを洗つて宿舎に着く、ここは江蘇省の行政府で六五が全部入る、炊事が大混雑、mg二分隊は俺一人で何の準備も出来ない、高貞さんが来て居た。
 部隊に来る前に郡君と外国式の一装用の入浴をする、部隊は八時頃来る、それから炊事だから十時過ぎまで大さわぎで夕食をする、ココニツクト到ル所ガ火災ダ。
 行軍途中はねむいし宿舎に着くと電気がなく日誌のつける時がなかつたが、今日は電気があるので十一時まで二、三日分の日誌をつける、ロシヤの酒を一口して驚いた、カラクて。


十二月十四日
 今日以後の予定がわからなかつたが、今日からいよいよ南京に向ひ、両角の本隊に追及する事になる、食糧は今日からなしに、地方から徴発して行かなければならない、第四中隊は徴発中隊だ。
 午前八時整列してサイバー徴発の使役として、約一里もつれて行かれたが、折悪しく昨夜の中にビール会社が焼かれて駄目だつた。ビンの割れる音が砲声の如くきこえた、其の向側に砂糖倉庫があつた、其の中には砂糖が一ぱいに入つて居た、皆でしかたなしに少しづつ持つて帰へる。
 部隊はビールの来るのを待つて居たのに期待を裏切られてがつかりして出発する、午前十時だ、途中天野さんの居る本部の近くを通つたが残念にも会へなかつた。
 高田の山砲が宿営して居つて丁度良くそこで休憩して面会して居る人もあつた。ここで中隊長から敗残兵に充分注意する様、注意されて出発、町を出る、今日から携行食がない、正午頃まで宿舎に着かなければならないのに仲々はかどらない。
 十一時頃一○四の先に来た者に会ふ、高橋行雄、小杉亀一郎、橋本源内、田村喜久雄、熊谷清吾、高橋虎男等に順々に会つたがオーと声をかけるだけだつた、熊谷は氷砂糖をくれて行つた、六五のみ南京に向ひ、後は鎮江に残り揚子江の向ひ側に渡る事になつた、その部隊に合するのだらう、午后の行軍途中、稜線上に敗残兵らしき者が出て射撃をする。
 四時頃部落を見つけてここに泊る事になり、部隊は一憩して将校のみ前に出て偵察しつつ宿舎を割る、俺は伝令、宿舎に着くと思い思いに徴発に出る、米は第四中隊があつめたが各人がやうやう一合、今夜は各人がもつて居た二合の米を出し合つて明朝までまに合はさねばならぬ、我々は五名で遥の部落に徴発に行きアヒル二羽、ヤギ二匹、ロバ一頭徴発して来る、それから料理を始め夕食が八時だ。
 この部落は高資鎮。


十二月十五日
 朝食は昨夜残してあつた汁で一食分の飯を半分食ふ、出発は八時三十分。
 広漠たる広野も果てて今日は山道だ、途中で騎兵の十七大隊に会ふ、鎮江に帰へつて警備に付くのだと云つて居た、昼食を見ると、米の中にはヒエやらキウリの種、藁ごみ等が沢山入つて居て昼は食えへない飯だと云つて笑つた。
 午后の道は左側の山には延々と交通壕が掘つてあり、所々にはコンクリートのトーチカが造つてあつた。
 飯が少ないので空腹を覚え、カンパン二つつみ、郡君と食つた。
 今日の宿営地龍潭鎮に着いたのが五時頃だつた。
 ここに着く少し前で敗残兵を一人殺す、ここは大変大きなセメント会社だ、今晩の徴発は米ニ斗、アヒル二匹、豚二匹と菜、チャン酒、味噌に醤油だ、それに小豆をみつけて来てシルコを造る、これが又うまかつた、小豆飯にアヒル汁で舌鼓を打つ、今晩は皆寝台の上に寝る。


十二月十六日
 徴発隊として午前七時二十分整列、部隊は八時三十分整列、七時に起きたのであわを食つて出て行く、途中道を間違へて半道ばかり反対の方へ行く、豚や米、芋の類徴発する物資沢山あり、徴発容易、昼食の小豆飯はかたくて不美味だつた、然し豚のツクダニは美味しかつた。
 午后二時半東流鎮に着く、龍潭鎮から約四里、町に着き宿舎をきめると徴発に忙し、部隊の着くまでに徴発を終る。
 米、豆腐、小豆、砂糖、ブタ、芋、カマ、野菜等、部隊も又いろいろ徴発して来た、分隊では豚、野菜、米、鶏、芋等を徴発して来たので今晩は相当に御馳走であつた。
 夕方、西白河と相馬から来て居る者の所に行き(大谷君と)夕食を御馳走になり、砂糖を貰らつて来る、分隊では夕食を済して居た、それから又食ふ、芋は食ふ、今日はガサ食つてしまつた、今晩は郡君が泊りに来て二人で寝る、七時半だつた、敗残兵が出て二人殺す、十六聯隊の一部が夕方敗残兵を掃蕩して来た。
 今晩は衛兵は勿論厳格、下士哨まで出して警戒。
 mgの第二小隊の二分隊では、夜半火を出し日本刀を焼いた者、雑嚢、水トウ、飯盒、鉄兜等を焼いた者があつた。


十二月十七日
 五時起床、今朝は鶏汁だ。郡君が着たので御馳走してやる。
 七時四十分整列、上元門まで約六里、途中には敗残兵、又は地雷があるから注意せよ、との中隊長の話あり、敗残兵が居り、小銃隊の尖兵が射撃す。
 足の調子は非常に良かつたが天気が良すぎて汗が出る、皆、水トウの水を不足させ、クリークの水を飲み始めた、今日は支那には珍しく山又山、峠ばかり歩いて居た、時々小銃弾が頭の上をかすめて行く、昼食前に殺されて居る将校らしき者が二百円あまり持つて居り、皆で分ける、俺も四十五円ばかり貰つた。
 午后三時頃、今日朝香宮及松井大将が来られて南京入城式が行はれたそうだが飛行機が三機編隊で九組も帰へつた、峠を上りあげると南京の城が見える、もう少しだと元気を出す、午后五時両角部隊の屯する揚子江沿岸に着き糧秣をもらつて宿舎に着く、夕方から風が吹き小雪さへ加はり、寒い夜になつた、我々之ねぐらは六尺位の棚に六人づつだ、きゅうくつであつたが割合に暖かだつた。
[空頁への記事]
平安路ヲ南進。
南京ノ捕虜約十万、
九、十一、十三ノ各師団。
六五ノホリヨ一万ニ千。


十二月十八日
 今朝は昨日に変る寒さ、風は吹く、小雪は降る、吹雪だ、七時過ぎて起きて中山さんと二人で朝食をたいて食ふ、整列は八時半と云ふのであわてて整列する。
 九時整列を終り閲兵を終り訓辞がある。
 それから佐藤曹長により各隊に配属せらる、俺は松沢准尉殿の居る第七中隊に入れて貰ふ、郡君も一緒だ、第七中隊は現在、軍旗中隊だ。中隊に来て俺は指揮班、郡君は一小隊四分隊、大谷君も三小隊に入る。
 午前中に大隊本部に行き、後藤大隊長の訓辞、帰へつて中隊長矢本中尉殿の訓辞ありて、各分隊に別れる、午后は皆捕リヨ兵片付に行つたが俺は指揮班の為行かず。
 昨夜までに殺した捕リヨは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なつて居るそうだ、七時だが未だ片付け隊は帰へつて来ない。
 俺は飯前に直ぐ傍にある南京の要塞を見に行きその完備せるのに驚いて帰へる、然しあれ程完備して置いてほとんど使はずに逃げてしまつたのだ、第八中隊と第五中隊が占領したものらしい。


十二月十九日 幕府山要塞
 午前七時半整列にて清掃作業に行く、揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に驚く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午后二時までかかり作業を終る、昼食は三時だ、直ぐに夕げの仕度にかかり五時半頃又夕食だ、今日捕リヨ死骸片付に行き、松川の菊池さんに会ふ、ここの要塞は馬尾山の要塞と云ふ、工兵隊らしい、砲台の爆破をやる、見事なものだ、バクフ山要塞。