ミニー・ヴォートリン


南京陥落後一週間企画


南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記』 岡田良之助/伊原陽子=訳 笠原十九司=解説 大月書店


日記 P49〜69

十ニ月十三日 月曜日
 (日本軍が午前四時に光華門から進入したそうだ。)
 激しい砲撃が夜通し城門に加えられていた。南の方角だ、と人びとは言っているが、わたしには西の方角からのように聞こえた。場内でもさかんに銃撃がおこなわれた。実際、わたしはぐっすり眠りにつくこともなく、日本軍が中国軍を南京場外に追い出し、退却して行く中国軍を銃撃しているのであろう、と夢うつつに考えていた。何か事が起こるのではないかと、だれもが服を着たままだった。五時を少し回ったころに起き上がって、正門のところへ行ってみた。あたり一帯は静かだったが、門衛が言うには、退却する兵士たちがいくつもの大集団をなして通過して行き、なかには民間人の平服をせがむ兵士もいたそうだ。けさキャンパス内にたくさんの軍服が落ちているのが見つかった。近所の人たちがキャンパスに入りたがっているが、しかし、わたしたちとしては、キャンパスの中でなくても安全区内にいれば安全なのだということ、また、安全区内であればどこでも同じくらい安全なのだということを彼らにわからせようと努力してきた。
 粥場、つまり炊き出し所でけさ始めて粥が出された。寄宿舎の人たちには、キャンパスにやってきた順番に粥を食べさせた。一○時三○分には粥はすっかりなくなっていた。午後、二回目の給食がある予定だ。
 一一時ごろにサール・ベイツがやってきて、交通部の建物が中国軍の命令できのう破壊されたこと、次に破壊される建物は鉄道部であることを知らせてくれた。それを聞いて胸が痛む。そんなことをしても何の益もなく、それは間違ったことであり、日本軍を困らせるよりも中国軍に与える損害のほうが大きいと思うからだ。軍の病院向けにに五万ドルが[南京]国際赤十字委員会に供与されたこともベイツから報告された。第一号の病院が外務部に開設されることになろう。一七人委員会[南京の国際赤十字委員会]が組織された。
 午後四時、キャンパスの西方の丘に何人かの日本兵がいるとの報告があった。確かめるために南山公寓に行ってみると、案の定、西山に数人の日本兵がいた。まもなく別の使用人がわたしを呼びにきて、家禽実験所に入ってきた兵士が鶏や鵞取を欲しがっている、と告げた。すぐに降りて行き、ここの鶏は売り物ではないことを身振り手振りで懸命に伝えると、兵士はすぐに立ち去った。たまたま礼儀をわきまえた兵士だった。
 あれだけの爆撃や砲撃のあとにしては、城内は奇妙なほどに静かだ。中国兵の掠奪、戦闘機による爆撃、大砲による砲撃という三つの危険は去ったものの、四番目の危険がいまなお目の前に立ちはだかっている。わたしたちの運命は勝利軍の手中にあるのだ。今夜はみなとても不安で、どんなことになるのか予想がつかない。プラマー・ミルズの今夜の報告によると、これまでに接触した日本兵たちは感じがよかったそうだ。しかし、接触した日本兵は、いかにも少数だ。
 午後七時三○分、粥場を運営している人たちから、米を貯蔵してある、校門の向かいの家屋に日本兵が入り込んでいるとの報告があった。フランシス陳と二人でその兵士たちの責任者と交渉しようとしたが、どうにも埒があかなかった。門の衛兵は、こちらが顔を合わせるのも気後れするような荒くれだった。このことで安全区の責任者のところに行き、あすその問題の解決に努力してもらうことにしたが、その取り扱いには慎重を期すべきだとする点では、みなの意見が一致している。
 今夜、南京では、電気・水道・電話・電信・市の公報・無線通信すべてが止まっている。わたしたちは、透過不可能な地帯に隔てられてまったく孤立している。あすアメリカ砲艦パナイ号から呉博士と、それにニューヨークに無線電報を打つことにしよう。金陵女子文理学院にかんしては、これまでのところ職員も建物もどうにか無事だが、これから先のことについては自信がない。みんなひどく疲れている。わたしたちはほとんどいつも、全身に染み込んだ疲労に耐え切れずに、太くて低い呻き声を発している。(今夜は武装を解いた兵士が安全区に大勢いる。城内で捕らえられた兵士がいるかどうかは聞いていない。)


十ニ月十四日 火曜日
 午前七時三○分。昨夜、戸外は平穏だったが、人びとの心の中には未知の危険にたいする恐怖があった。夜明け前にふたたび城壁に激しい砲撃が浴びせられているようだった。おそらく、きょう主力部隊が侵入するさいに、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。ときおり銃声も聞えた。たぶん、掠奪を働いている中国兵グループを日本軍衛兵が狙撃しているのだろう。
 下関の方角でも砲声が聞こえたが、想像するに、それは、長江を渡って北の方へ逃走しようとしている中国兵がぎっしり乗り込んだ小さなサンパンを狙ったものであろう。かわいそうに、あの無情な砲撃では、逃げおおせる見込みはほとんどなかっただろう。戦争による苦難は等しく負うべきだというのであれば、宣戦を主張する人たちはみな自ら進んで戦線に赴くべきだと思った。女性は、その意志さえあれば軍の病院で奉仕できるし、衣服や慰安品を負傷兵に提供できるだろうし、女子学生でさえも、装備を供給することによって軍隊を支えるさまざまな仕事をつうじて多分に貢献できるだろう。男子の中学生や大学生は、軍隊、赤十字、社会奉仕団体などで奉仕することができるだろう。戦争が終ったあとでは、これらいずれのグループにも、身体障害をこうむった兵士を援助するという大事な仕事があるのは言うまでもなく、戦死した兵士たちの妻子の世話をするというやり甲斐のある仕事もある。
 戦争は国家の犯罪であり、全人類の心の奥にある創造的精神にたいする罪であると考える人びとは、無辜の被害者、たとえば、家を焼かれたり掠奪をこうむった人びとや、爆撃や砲撃によって負傷した人びとの社会復帰に力を貸すことができるであろう。
 貧しい人々にとってきょうの天気は神の恵みだ。一○月のように暖かくて心地よい。丘で眠ることを余儀なくされる人もいるが、それもあまり苦痛にはならない。
 昨夜、日本兵によって無理やりに家から追い出された人の話や、さらには、けさ日本兵が働いた掠奪の話も耳に入ってくる。苗さんの家にはアメリカ国旗が掲げられ、大使館の公告が掲示されていたにもかかわらず、日本兵が入り込んだ。どんな物が持ち去られたのかはわからない。苗一家は老邵の家の外で燃料の草を敷布団にして一夜を明かした。老邵とその一家はすでに引っ越していた。ひどい目にあわされた少女たちの話が耳に入ってきているが、確かめる機会がまだない。
 四時に安全区本部へ出向いた。委員長のラーベ氏とルイス・スマイスが日本軍の司令官と連絡をとろうと終日努力していたが、司令官はあすまで不在だ、と言われた。彼らが会った将校たちのなかには、きわめて丁重な物もいれば、きわめて無愛想で不作法な者もいた。ジョン・マギーは、国際赤十字病院を設立する件で終日外出していた。丁重で礼儀正しい者もいれば、どうしようもない者もいると、彼も同じようなことを言っている。彼らは中国兵にたいしては情け容赦がなく、アメリカ人にはあまり関心がない。
 四時三○分、プラマー・ミルズがわたしに、長老派教会員たちの家を見回りたいから、水西門まで同行してもらいたいと言ってきた。わたしの役目は見張り番である。それらの家は、窓ガラスが数枚壊れていたほかは、まったく別状がなかった。日本兵が入り込んだ形跡はあるものの、掠奪されてはいなかった。プラマーが敷地の中に入り、門衛と話をしている間ずっと、わたしは車の中にいた。帰ってくる途中、ヒルクレスト学校付近の路上で死体を一体見た。凄まじい砲撃が市街に加えられていたわりには、あたりに横たわっている死体の数はきわめて少なかった。ヒルクレスト学校を少し過ぎたところでソーン氏を見かけ、彼を車に乗せた。ついさっき車が盗まれたというのだ。家の前に車を放置したまま家の中に入ってたほんの数分間の出来事だそうだ。車にはアメリカ国旗が掲げられ、鍵がかけられていた。
 貧しい人びとの家に、そして、一部の裕福な家にも日本国旗がたくさん翻っていた。彼らは、日本国旗を作ってそれを掲げていれば、少しはましな扱いをしてもらえるだろうと考えてそうしていたのだ。
 金陵女子文理学院に戻ってみると、学院の前の空き地は日本兵で溢れ、校門のすぐ前にも兵士が八人ぐらいいた。彼らが立ち去るまでわたしは校門のところに立っていたが、そのおかげで、陳師傅を彼らから奪い返すことができた。わたしがそこへ行かなかったら、日本兵は彼を案内役として連れ去ったであろう。学院の使い走りの魏はけさ使いに出されたまま、まだ戻ってこない。連行されたのではないかと思う。校門に立っていると、何人かの兵士が、わたしがつけていた国際委員会の徽章に目をやったが、その中の一人が時刻を尋ねてきた。昨夜の荒くれ兵士に比べると、この兵士たちはまったくおとなしい。
 今夜はみなとても怖がっているが、昨夜ほどのことはないだろうと思う。日本兵は目下、安全区の東にある地区へ移動しているようだ。
 ニューヨーク・タイムズ特派員のダーディンは何とかして上海に行こうとしたが、句容まで行ったところで引き返してきた。南京までの途中には何千何万という兵士がいたそうだ。
 きょうは避難民は粥を二度食べることができ、わたしたちは感謝している。米が貯蔵されている建物に日本兵が入り込んでいるので、きょうは粥が食べられないのではないかと心配していた。
 わたしは、中国兵が一昨夜逃走するさいにキャンパスに投げ捨てて行った軍服を埋めることにした。ところが、大工の仕事場に出かけてみると、庭師たちのほうがわたしよりも上手であった。彼らは、すでに軍服を焼却し、手榴弾は池に投げ込んでしまっていた。陳さんは、捨てられていた銃を隠した。
 今夜は平穏無事でありますように。


十ニ月十五日 水曜日
 たしか、きょうは一ニ月一五日、水曜日だと思う。一週間を通じた規則的なリズムがないので、何日であるかを覚えているのは容易でない。
 昼食の時間を除いて朝八時三○分から夕方六時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性は怯えた表情をしていた。城内では昨夜は恐ろしい一夜で、大勢の若い女性が日本兵に連れ去られた。けさソーン氏がやってきて、漢西門地区の状況について話してくれた。それからというもの、女性や子供には制限なくキャンパスに入ることを許している。ただし、若い人たちを収容する余地を残しておくため、比較的に年齢の高い女性にたいしては、できれば自宅にいるようつねづねお願いしている。多くの人は、芝生に腰をおろすだけの場所があればよいから、と懇願した。今夜はきっと三○○○人以上の人がいると思う。いくつかの日本兵グループがやってきたが、何も問題を起さなかったし、中に入れてくれと強要する者もいなかった。今夜はサールとリッグズ氏が南山公寓に泊まり、ルイスは、フランシス陳といっしょに門衛室で寝ることになっている。わたしは下の実験学校にいることにする。二人の警官に平服でパトロールしてもらい、また、夜警員には、夜通し寝ないで巡回してもらっている。
 七時に男女避難民の一団を金陵大学へ連れて行った。ここでは男性は受け入れていない。ただし、中央棟の教職員食堂には年寄りの男性を詰め込んでいる。前記グループのある女性は、四人家族のなかでひとり生き残ったことを話してくれた。
 きのうときょう日本軍は広い範囲にわたって掠奪をおこない、学校を焼き払い、市民を殺害し、女性を強姦している。武装解除された一○○○人の中国兵について、国際委員会はその助命を要望したが、にもかかわらず、彼らは連れ去られ、たぶん、いまごろはすでに射殺されているか、銃剣で刺殺されているだろう。南山公寓では日本兵が貯蔵室の羽目板を壊し、古くなったフルーツジュース、その他少々を持ち去った。(まさしく門戸開放政策だ!)
 ラーベ氏とルイスが司令官と接触している。この司令官は到着したばかりだが、印象はそれほど悪くない。彼らは、たぶんあすには事態が改善されると考えている。
 きょう四人の記者が日本の駆逐艦[アメリカ砲艦の誤り]で上海へ発った*1。外界からの情報はまったくないし、こちらからも情報を送ることができない。あいかわらず銃声はときおり聞こえる。


十ニ月十六日 木曜日
 夜、ジョージ・フィッチに、状況はどうだったか、城内の治安回復はどの程度進捗したかを尋ねると、「きょうは地獄だった。生涯でこの上なく暗澹たる一日だった」との答えが返ってきた。わたしにとってもまったくそのとおりだった。
 昨夜は静かで、外国人男性三人は落ち着いて過ごすことができたが、きょうの日中は平穏どころではなかった。
 けさ一○時ごろ、金陵女子文理学院にたいする公式の査察がおこなわれた。徹底した中国兵狩りである。一○○人を超える日本兵がキャンパスにやってきて、まず[一語脱落]棟から査察を開始した。彼らは、すべての部屋を開示するよう要求した。鍵がすぐに間に合わなかったときのことだが、彼らはひどくいらだち、兵士の一人が、力ずくでドアを開けようと斧を手にして待ち構えていた。徹底した捜索が始まると、気が滅入ってしまった。というのも、二階の地理科準備室に負傷兵用の綿入れ衣類数百着が収納されていることをわたしは知っていたからだ。まだ処分していなかった全国婦人救援会製の衣類である。この冬に、貧しい中国人が暖かな衣類をたまらなく欲しくなることはわかっていたので、焼却するに忍びなかった。その運命の部屋の西隣りの部屋に兵士を案内したところ、彼らは、それに隣接するドアから中に入ろうとした。しかし、わたしは鍵を持ち合わせていなかった。幸運なことに、屋根裏部屋に兵士たちを案内すると、そこには婦女子ニ○○人ほどいて、それが兵士たちの気をそらしてくれた。(夜暗くなってから、わたしたちは問題の衣類を地中に隠した。陳さんは、彼が所持していた小銃を池に投げ捨てた。)
 日本兵は学院の使用人を二度にわたって掴み、この男たちは兵隊だと言って連行しようとしたが、わたしがそこに居合わせ、「兵隊ではない、苦力です」と言ったことで、彼らは、銃殺ないしは刺殺の運命から免れた。日本兵は、避難民のいるすべての建物内を捜索した。根性の卑しい将校が兵士三人を連れてやってきて飲み物を要求したので、程先生の寄宿舎に連れて行った。さいわい、そのときは知らなかったことだが、六人もの兵士がキャンパスで機関銃の訓練をしており、さらに大勢の兵士がキャンパスの外で警備につき、少しでも逃げようとする者がいればいつでも発砲できる態勢をとっていた。階級がいちばん上の将校が立ち去るさいに、ここには婦女子しかいない旨の証明書を残してくれた。これがその後、少人数でやってくる日本兵たちをキャンパスに入らせないようにするのに役立った。
 正午を少し回ったころ、少人数の一団が校門を通り抜けて診療所へやってきた。わたしがそこに居合わせなかったら、彼らは唐の弟を連れ去ったことだろう。そのあと彼らは通りを先へ進んで行き、洗濯場に押し入ろうとしたが、まさにそのときわたしが追いついた。だれでも日本兵から嫌疑をかけられようものなら、一からげに縄でつながれて彼らのうしろから歩いていく四人の男と同じ運命を強いられたであろう。日本兵は四人を、キャンパスの西にある丘へ連れて行った。そして、そこから銃声が聞こえた。
 おそらく、ありとあらゆる罪業がきょうこの南京でおこなわれたであろう。昨夜、語学学校から少女三○人が連れ出された。そして、きょうは、昨夜自宅から連れ去られた少女たちの悲痛きわまりない話を何件も聞いた。そのなかの一人はわずか一ニ歳の少女だった。食料、寝具、それに金銭も奪われた。李さんは五五ドルを奪われた。城内の家はことごとく一度や二度ならず押し入られ、金品を奪われているのではないかと思う。今夜トラックが一台通過した。それには八人ないし一○人の少女が乗っていて、通過するさい彼女たちは「助けて」「助けて」と叫んでいた。丘や街路からときどき銃声が聞えてくると、だれかの---おそらくは兵士でない人の---悲しい運命を思わずにはいられない。
 日本兵の一隊をキャンパスの外につれ出すよう、校内のどこかから呼び出しがかかったとき以外は、わたしは警備係として一日の大部分を正門の前に腰をおとして過ごしている。夜、南山公寓の使用人の沈[音訳]師傅がやってきて、公寓内の電燈が全部点いていることを知らせてくれた。兵士たちにわが家を占拠されたと思い、気が滅入ってしまった。二人で行ってみると、サールとリッグズ氏が前の晩に電燈を消し忘れていたことが判明した。
 理科棟の管理人の姜[音訳]師傅の息子がけさ連行された。魏はまだ戻ってこない。何かをしてやりたいのだが、どんなことをしたらよいのかわからない。というのも、城内の秩序が回復していないので、キャンパスを離れるわけにいかないからだ。
 ジョン・ラーベ氏は、自分としては電気・水道・電話の復旧を手伝うことができるが、城内に秩序が回復されるまでは静観するつもりだ、と日本軍の司令官に伝えた。今夜の南京は、壊れてしまった惨めな貝殻にほかならない。通りに人影はなく、どの家も暗闇と恐怖に包まれている。
 きょうは無辜の勤勉な農民や苦力がいったい何人銃殺されたことだろう。わたしたちは四○歳以上の女性はすべてに、娘や嫁だけをここに残し、帰宅して夫や息子といっしょにいるようしきりに促した。今夜はわたしたちには、約四○○○人の婦女子にたいする責任がある。こうした緊張にあとどのくらい堪えることができるのだろうか。それは、ことばでは言いあらわしがたい恐怖だ。
 軍事的観点からすれば、南京攻略は日本軍にとっては勝利とみなせるかもしれないが、道徳律に照らして評価すれば、それは日本の敗北であり、国家の不名誉である。このことは、将来中国との協力および友好関係を長く阻害するだけでなく、現在南京に住んでいる人びとの尊敬を永久に失うことになるであろう。いま南京で起こっていることを、日本の良識ある人びとに知ってもらえさえしたらよいのだが。
 神さま、今夜は南京での日本兵による野獣のような残忍行為を制止してくださいますよう。きょう、何の罪もない息子を銃殺されて悲しみにうちひしがれている母親や父親の心を癒してくださいますよう。そして、苦しい長い一夜が明けるまで年若い女性たちを守護してくださいますよう。もはや戦争のない日の到来を早めてくださいますよう。あなたの御国が来ますように、地上に御国がなりますように。


十ニ月十七日 金曜日
 七時三○分、F・陳といっしょに門衛所で一夜を明かしたソーン氏のところへ伝言をしに行った。中国赤十字会の粥場で石炭と米がどうしても入用だからだ。疲れ果て怯えた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。(下は一ニ歳の少女から上は六○歳の女性までもが強姦された。夫たちは寝室から追い出され、銃剣で刺されそうになった妊婦もいる。日本の良識ある人びとに、ここ何日も続いた恐怖の事実を知ってもらえたらよいのだが。)それぞれの個人の悲しい話---とりわけ、顔を黒く塗り、髪を切り落とした少女たちの話---を書き留める時間のある人がいてくれたらよいのだが。門衛が言うには、明け方の六時三○分からずっと、こうした女性たちがやってきているそうだ。
 午前中は校門に詰めているか、そうでなければ、日本兵グループがいるという報告がありしだい、南山から寄宿舎へ、はたまた正門へと駆け回ることで時間が過ぎた。きょうは朝食のときも夕食のときも、一度か二度はこうした移動をした。ここ数日は食事中に、「ヴォートリン先生、日本兵が三人いま理科棟にいます・・・・・・」などと使用人が言ってこない日はない。
 食料、その他の生活用品を携えて避難民の父兄、その他の人たちがキャンパスに入ってくるのを阻止しようと思っても、人の往来を管理するのは容易なことではない。現在、四○○○人以上がキャンパスにいるが、さらに四○○○人が食料を持ち込むことになった場合には、とりわけ、新たに入ってくる人の選別には慎重でなければならないから、仕事が複雑になる。
 終日押し寄せる大勢の避難民の面倒はとても見きれない。たとえ収容スペースはあっても、うまくやっていけるだけの体力がない。金陵大学側と話をつけて、大学の寄宿舎のうちの一つを開放してもらうことにした。終夜勤務の外国人当直者一名を配置してくれることになっている。四時から六時までの間に大勢の婦女子のニグループを引率して行った。何と悲痛な光景だろう。怯えている少女たち、疲れきった女性たちが子どもを連れ、寝具や小さな包みにくるんだ衣類を背負ってとぼとぼと歩いて行く。彼女たちについて行ってよかったと思う。というのも、日本兵の集団があらゆる種類の掠奪品を抱えて家から家へと移動して行くところに出くわしたからだ。幸いなことに、メリー・トゥワイネンがキャンパスにいたので、わたしは出かける気になった。わたしが戻ってきたさいにトゥワイネンが次のように報告してくれた。五時に日本兵二人がやってきて、中庭の中央にある大きなアメリカ国旗が目に入ると、それを杭から引きちぎって持ち去ったものの、自転車で運ぶには重すぎるし、扱いにくかったので、彼らは、折り重ねたままそれを理科棟の前に投げ捨てて行った。正門にいたメリーが呼ばれて駆けつけると、兵士たちは彼女を見るなり、逃走して姿を隠してしまった。彼らが発電所の一室にいるところをメリーが見つけて話しかけると、悪いことをしたと自覚していたのだろう、彼らは顔を赤らめたそうだ。
 夕食をとり終わったあとで中央棟の少年がやってきて、キャンパスに兵士が大勢いて、寄宿舎の方へ向っていることを知らせてくれた。二人の兵士が中央棟のドアを引っ張り、ドアを開けるようしきりに要求しているところに出くわした。鍵を持っていない、と言うと、一人が「ここに中国兵がいる。敵兵だ」と言うので、わたしは、「中国兵はいない」と言った。いっしょにいた李さんも同じ答えをした。その兵士はわたしの頬を平手で打ち、李さんの頬をしたたかに殴ってから、ドアを開けるよう強く要求した。わたしは脇のドアを指さし、二人を中に入れた。たぶん中国兵を捜していたのだろう、彼らは一階も二階も入念に調べていた。外に出ると、別の兵士二人が、学院の使用人三人を縛り上げて連れてきた。「中国兵だ」と言ったので、わたしは、「兵士ではない。苦力と庭師です」と言った。事実、そうだったからだ。日本兵は三人を正門のところへ連行したので、わたしもついて行った。正門まできてみると、大勢の中国人が道端に跪いていた。そのなかには、フランシス陳さん、夏さん、それに学院の使用人何人かがいた。そこには隊長の軍曹とその部下数名がいた。まもなく程先生とメリー・トゥワイネンが兵士に連れられてやってきた。学院の責任者はだれか、と言ったので、わたしが名乗り出ると、彼らはわたしに、中国人の身分について一人ずつ説明するよう求めた。運の悪いことに、臨時の補助要員として最近新たに雇い入れた使用人が何人かいて、そのなかの一人が兵士のように見えた。彼は道路の片側に荒っぽく引き立てられ、念入りに取り調べられた。使用人の身分についてわたしが説明したとき、わたしを助けようとして陳さんが声を張り上げた。気の毒なことに、そのために陳さんはしたたかにビンタをくらわされたうえ、道路の反対側に手荒く連れて行かれ、跪かされた。
 こうした事態の進行のなかで助けを求めて懸命に祈っていると、フィッチ、スマイス、ミズルの乗った車が到着した。その晩はミルズがキャンパスに泊まってくれることになっていた。日本兵は彼ら三人を中に入れて一列に並ばせ、帽子を脱がせたうえで、ピストルを所持していないかどうか取り調べた。フィッチが軍曹と少しばかりフランス語をしゃべれたことが幸いした。軍曹と彼の部下たちは何度も相談したのち、すべての外国人、程先生、メリーの退去を一度は強く求めたが、わたしが、ここはわたしの家だから、出て行くわけにはいかないと言ったところ、やっと考えを変えてくれた。そのあと彼らは外国人男性を車で立ち去らせた。あとに残ったわたしたちがその場で立ったり跪いたりしていると、泣きわめく声が聞こえ、通用門から出て行く中国人たちの姿が見えた。大勢の男性を雑役夫として連行していくのだろうと思った。あとになってわたしたちは、それが彼らの策略であったことに気づいた。責任ある立場の人間を正門のところに拘束したうえで、審問を装って兵士三、四人が中国兵狩りをしている間に、ほかの兵士が建物に侵入して女性を物色していたのだ。日本兵が一ニ人の女性を選んで、通用門から連れ出したことをあとで知った。すべてが終わると、彼らはF・陳を連れて正門から出て行った。わたしは、陳さんにはもう二度と会えないと思った。日本兵は出て行くには行ったが、退去したのではなく、外で警備を続け、動く者はだれかれかまわず即座に銃撃するにちがいないと思った。そのときの場景はけっして忘れることができない。道端に跪いている中国人たち、立ちつくしているメリーや程先生、それにわたし。乾いた木の葉はかさかさと音を立て、風が悲しく呻くように吹くなかを、連れ去られる女性たちの泣き叫ぶ声がしていた。みなが押し黙ってそこにいると、ビッグ王がうやってきて、東の中庭から女性二人が連れ去られたことを知らせた。わたしたちは彼に、自分の持ち場に戻るよう促した。陳が解放されるよう、そしてまた、連れ去られた人たち---これまでは祈ったことがなくても、その夜はきっと祈ったにちがいない人たち---のために懸命に祈った。
 銃撃されるのではないかという恐怖から、わたしたちは、永遠と思われるほど長い時間あえて動くことはしなかった。しかし、一○時四五分、そこをあとにする決心をした。門衛の杜が正門から外をこっそり覗くと、あたりはだれもいなかった。閉まっているように見えた通用門から、彼は気づかれないように入って行ったので、わたしたちもみな立ち上がり、その場を立ち去った。程先生、メリー、それにわたしで南東の寄宿舎に行ってみたが、そこにはだれもいなかった。程先生の嫁や孫たちの姿はなかった。わたしはぞっとしたが、程先生は、きっと避難民にまじって隠れていると思う、と落ちつき払って言った。程先生の部屋は散らかり放題で、掠奪されたことは明らかだった。このあと中央棟に行ってみると、そこには、程先生の家族、薜さん、王さん、ブランチ呉さんがいた。それからメリーとわたしは実験学校に行ってみた。驚いたことに、陳さんと婁さんがわたしの居室に無言で座っているではないか。陳さんの話を聞いて、命が助かったのは本当に奇跡としか思えなかった。みなで、感謝を捧げるささやかな礼拝集会をもった。わたしは、あのような祈りを聞いたことがない。そのあとわたしは正門まで出向き、門衛所の隣にある陳さんの家で一夜を明かした。わたしたちが床に就いたのは、夜中の一ニ時をとうに回っていたにちがいない。おそらく、だれもが眠れなかっただろう。


十ニ月十八日 土曜日
 いまは毎日が同じ調子で過ぎて行くような気がする。これまで聞いたこともないような悲惨な話ばかりだ。恐怖をあらわにした顔つきの女性、少女、子どもたちが早朝から続々とやってくる。彼女たちをキャンパス内に入れてやることだけはできるが、しかし、みなの落ちつく場所はない。夜は芝生の上で眠るしかない、と言い渡してある。具合の悪いことに、寒さがかなり厳しくなっているので、これまで以上の苦痛に堪えなければならなだろう。比較的に年齢の高い女性はもちろんのこと、小さい子どものいる女性にたいしても、未婚の少女たちに場所を譲るため、自宅へ帰るよう説得を強めているところだ。「アメリカの学校です。セイヨーガクインです」と叫びながらキャンパス内をあちこち走り回って毎日が明け暮れていく感じだ。たいていの場合、立ち退くように説得すればそれですむのだが、中にはふてぶてしい兵士がいて、ものすごい目付きで、ときとしては銃剣を付き付けてわたしを睨みつける。きょう南山公寓へ行き、掠奪を阻止しようとしたところ、そうした一人がわたしに銃を向け、次には、いっしょにいた夜警員にも銃を向けた。
 昨夜恐ろしい体験をしたことから、現在、わたしのいわば個人秘書をしているビッグ王を同伴して日本大使館に出向くことにした。わたしたちの実状を報告すれば、何か援助をしてもらえるかもしれないと思ったからである。漢口路と上海路の交差点まできて立ち止まった。サール・ベイツに同行してもらおうか、自分ひとりで行こうか、それとも、アメリカ大使館へ行って、相談したほうがよいのか、どれが最善の策かわからなかったからだ。幸いなことに、アメリカ大使館に行ったところ、そこで中国人書記官ないしは事務員のT・C・唐氏に会うことができ、大いに助かった。彼が特別の書簡を二通書いて、大使館の車で送ってくれたので、わたしは堂々と日本大使館に乗り込んだ。そこで、わたしたちの困難な体験のこと、また金曜日の夜の事件のことも報告し、そのあと、兵士たちを追い払うために持ち帰る書面と、校門に貼る公告文を書いてほしいと要請した。両方とも受け取ることができて、ことばでは言いあらわせないほど感謝しながら戻ってきた。田中氏は物わかりのよい人で、心を痛めていただけに、自らも出向いて、憲兵二名に夜間の警備をさせるつもりだ。と言ってくれた。降車するさい大使館の運転手にチップを渡そうとすると、運転手は、「中国人が壊滅的な打撃をまぬかあれたのは、ごく少数ではあるけれど外国人が南京にいてくれたからです」と言った。もしこの恐るべき破壊と残虐が抑止されないとしたら、いったいどういうことになるだろうか。昨夜はミルズと二名の憲兵が校門に詰めてくれたので、久しぶりに何の憂いもなく安らかに就寝できた。
 わたしがこの執務室でこれを書いているいま、室外から聞えてくるわめき声や騒音をあなたたちに聞いてもらえたらよいのだが。この建物だけで六○○人の避難民がいると思うが、今夜はきっと五○○○人がキャンパスにいるのではないだろうか。今夜はすべてのホールに、そしてベランダにも人が溢れていて、ほかには場所がないため、彼女たちは渡り廊下で寝ている。いまとなっては部屋を割り当てるつもりはない。始めのころは観念的な発想から、割り当てをするつもりだったが、しかし、いまは入れる場所に入ってもらうしかない。
 メリー・トゥワイネンもブランチ呉も実験学校へ引っ越して行った。


十ニ月十九日 日曜日
 けさも怯えた目付きをした女性や少女が校門から続々と入ってきた。昨夜も恐怖の一夜だったのだ。たくさんの人も跪いて、キャンパスに入れてほしいと懇願した。入れはしたものの、今夜はどこで寝てもらうことになるのだろう。
 八時、一人の日本人が日本大使館のTeso氏*2と一緒にやってきた。避難民用の米が十分にはないと聞いていたので、安全区本部へ同行してほしいと頼むと、彼はそのとおりにしてくれた。安全区本部からドイツ車で、米の配給の責任者であるソーン氏のところに行くと、彼は、九時までには米を届けると約束してくれた。このあとわたしは車で寧海路まで戻らなければならなかった。いまや外国人が乗っていないかぎり、車の被害を防ぐことができない。歩いて学院へ戻ってくると、娘をもつ母親や父親、それに兄弟たちが、彼女たちを金陵女子学院に匿ってもらいたいと何度も懇願した。中華学校の生徒を娘にもつ母親は、きのう自宅が何度となく掠奪をこうむり、これ以上は娘を護りきれない、と訴えた。
 それからは、日本兵の一団を追い出してもまた別の一団がいるといった具合で、キャンパスの端から端まで行ったりきたりして午前中が過ぎてしまった。南山はたしか三回行ったと思う。そのあとキャンパスの裏手まできたとき、教職員宿舎へ行くようにと、取り乱したような声で言われた。その二階に日本兵が上がって行った、という。教職員宿舎二階の五三八号室に行ってみると、その入り口に一人の兵士が立ち、そして、室内ではもう一人の兵士が不運な少女をすでに強姦している最中だった。日本大使館に書いてもらった一筆を見せたことと、わたしが駆けつけたことで、二人は慌てて逃げ出した。卑劣な所業に及んでいるその二人を打ちのめす力がわたしにあればよいのだがと、激怒のあまりそう思った。日本の女性がこのようなぞっとする話を知ったなら、どんなに恥ずかしい思いをすることだろう。
 このあと呼び出されて北西の寄宿舎に行ってみると、そこの一室で日本兵二人がクッキーを食べていた。彼らも慌てて出て行った。
 午後おそく二つの日本軍将校グループが別々にやってきたので、ふたたび、金曜日夜の出来事やけさの事件のことを伝える機会を得た。
 今夜は四名の憲兵がキャンパスにきているが、あすは一名にしてもらいたい。今夜、城内の少なくとも三ヶ所で大きな火災が発生している

*1:ニューヨーク・タイムズのダーディン、シカゴ・デイリーニューズのスティール、ロイター通信のスミス、APのマクダニエルの四人の記者のこと。以後、南京に欧米の新聞記者はいなくなった。彼らはアメリカ砲艦オアフ号に乗り、日本の駆逐艦の先導で機雷をよけながら上海に向った。これらの記者の南京事件の報道記事は、南京事件研究会・編訳『南京事件資料集(1) アメリカ関係資料編』(青木書店)に収録されている。

*2:Tesoという日本人名はなく、それに発音の近い名前の日本大使館もいないので、可能性として考えられるのは、南京特務機関(一九三七年一ニ月一四日開設)の民衆情報宣撫工作員の佐藤鶴亀人の「サトウ」を逆にして「タソ」と記憶したのではないか、ということである。