中国版:対日戦争史録

奥付けは以下の通り。

終戦50周年記念出版−
第二次世界大戦における中国戦線
『 中国版:対日戦争史録 』
(中国抗日戦争史録)
定価:35,000(税込)
初版:平成7年3月28日

編纂:中国国際戦略研究基金
総監修:姫鵬飛(中華人民共和国元副首相・兼外務大臣)
編纂主観・執筆:徐焔(中国国防大学教授)
校訂・翻訳:富爾良、林国本、盛欣
製作・発行:官公庁資料編纂会
発売:官公庁文献研究会

発売元の「官公庁文献研究会」がどういう組織か不明ですが、
姫鵬飛が総監修ということで、中国共産党の公式見解ということでしょうか。
ネット上で南京事件に関する該当箇所が載っているところがないようなので、抜粋しておきます。

日本軍の南京攻略・占領と大虐殺
 上海方面の抗戦が国民党軍の敗退に終ったのち、日本軍はただちに南京方面に追撃してきた。国民党軍が南京でおこなった防衛戦は指揮の誤りのためまもなく惨敗を喫し、日本軍は南京を占領したのち「南京大虐殺事件」を引き起こした。この事件は当時から世界を驚愕させ、その後長い年月がたっても中国人の心には痛ましい記憶が刻みつけられている。
 日本の第十軍が杭州湾に上陸した十一月七日、上海派遣軍と第十軍は中支那方面軍に再編成され、参謀本部は同方面軍に蘇州−嘉興の一線にそって進行することを許可した。蘇州、嘉興を占領した中支那方面軍は十一月十九日、さらに南京攻略を具申し、参謀本部は十二月一日、南京を攻略・占領するよう命令を下した。
 国民党軍が上海の戦場から撤退してから、蒋介石は主な部下と繰り返し南京防衛を検討する会議を開いた。会議では副総参謀長白崇禧と作戦組長劉斐は軍事的見地から分析して、南京は地形から見れば三方面が水を背にしており、防御に不利で、新しく敗戦したばかりの部隊ではまもりきれないとし、少数の兵力をもって象徴的防御を実施するよう提案した。蒋介石は最初はこの提案に同意したが、その後兵力を集中して死守するという訓練総監唐生智の意見に賛成して、上海から撤退したばかりの十三個師、のべ十一万人の部隊(大部分の中央系のドイツ式装備部隊)を南京守備のために移動させた。
 蒋介石が南京死守に賛成した主要な原因は、ドイツ大使トラウトマンと接見して日本と交渉する条件を出した。この情勢のもとでドイツの整備と訓練を受けた部隊を残し南京を守ろうとしたのは、ドイツの調停を効果的にさせると考えたからであった。
 日本軍は十二月上旬、四個師団をもっていくつかの方面から南京に進行し、水陸からはさみ撃ちをしようとして海軍にも揚子江をさかのぼった。日本軍は八日南京郊外に迫り、周辺の拠点を守備していた国民党軍は激戦を行ったのち十日、大部分が城内に撤退した。十一日、日本軍は南京城に対して猛攻をかけ、翌日城南の中華門を破り、城内への突破口を切り開いた。それと同時に長江を渡った日本軍の国崎支隊は揚子江対岸の浦口に迫って、守備軍の退路を絶つ態勢をとった。南京衛戍司令官唐生智は情勢を極めて深刻であることをみると、十二日夕方、守備隊の師以上の将校を集めて会議を開き、南京を放棄することを決定、「首都の衛戍部隊は本日夜当面の敵をうち破って、浙江、安徽方面に転進せよ」と、各部隊が南に脱出するよう命令した。
 ところがこの命令は遂行できず、国民党軍の南京からの撤退は混乱を極めた。国民党軍の『南京防御戦の戦闘詳報』に述べられているように、「今般の首都防御部隊の多くは戦闘で重大な損失を被り、老兵は少なく、補充された新兵は訓練を受けないまま前線に赴いたため、敵の航空機や火砲などに遭うやあいついで逃亡し統御することが出来なくなった。こうしたことが南京死守計画に重大な打撃を与えたのである」(『抗日戦争の正面戦場』中国第二歴史古文書館編纂 江蘇古籍出版社)。
 唐生智は会議の後、率先して長江を渡って北上した。多くの将軍も部隊を離れて先に逃げた。多くの将軍も部隊を離れて先に逃げた。このようにして戦闘力を持っていた多くの部隊も指揮官を失った。守備軍の中で第六六軍だけが陸路南に向かって包囲の突破に成功したが、その他の部隊はみな、南に向かって包囲を突破するという命令に従わず、北に向って逃亡し揚子江におしかけた。しかし揚子江は船が不足していたため、多くの将兵は木の板にすがって渡り、混乱の中で水に溺れて死亡したものが多数いた。
 日本の軍艦は封鎖線を突破して十三日朝、南京北側の下関沖に達し、長江を渡る中国の将兵を砲撃したり帰射したりした。これによって揚子江で死んだ人が非常に多かった。また当時指揮官を失い包囲を突破できなかった将兵は少なくても五万人以上城内に残った。南京城内のアメリカ、イギリスなどの国の慰留民が、市の中心に国際「安全区」を設けて難民を収容したので、多くの残留兵士は安全区に駆け込んで武器を手放して収容されることを希望した。
 十二月十三日朝、日本軍が南京城内に入ってきた。中国軍の城内での抵抗はすでに停止したにもかかわらず、日本軍は「掃討」の名義で城内において虐殺や強姦を重ね、財物の意のまま略奪した。四個師団の日本軍は十二月二十一日まで城内でそのような大規模な恐怖活動を続けた。そのあと城内に残った第十六師団は引き続き虐殺や略奪を組織的におこない大虐殺は六週間も続いた。
 日本軍は城内に入ると、まず退避中の住民に対して発砲し手榴弾を投げたので、路上は一面に死体が溢れた。続いて日本軍は城内を軒並み捜索し、なんの防備もない「国際安全区」に入って、軍人と疑われた大勢の青壮年、避難民および武器を放棄した将兵を、数珠つなぎに縛って南京の郊外に連行し集団虐殺を行った。日本軍は十二月十八日、南京城北の草鞋峡で捕虜と老若男女の避難民をふくめた五万七千余人を一ヶ所に集めて、まず機関銃で掃射し、さらに生きている人を銃剣で刺殺し、そのうえにガソリンをまいて焼いた。おなじような大規模な虐殺は南京陥落後の一週間のうち数件おこなわれた。
 青壮年を組織的に殺害した他に、多くの日本軍将校は狂気じみた心理からいたるところで平和な住民をなぐさみに殺戮した。富岡と野田という二人の少尉は、軍刀でどれだけ中国人を斬れるかという「人斬り競争」まで行った。一九三七年十二月の東京『日日新聞』は「片桐部隊」(第十六師団)からの「百人斬り競争」というショッキングなニュースを報道した。
 日本軍の南京でのもうひとつの犯罪は大勢の婦女を強姦したことだ。東京裁判で確認された資料によれば、日本軍が南京を占領したのちに発生した強姦事件は、二万件に達し、「全域の女性の大半が少女と老婦をとわず強姦されたとされている。欧米人が開設した「国際安全区」あるいは外国領事館に逃げこんだ若い女性も、のきなみ乱入した日本軍に連れさられ強姦された。強姦された女性の大部分は日本軍に殺された。戦時中国の国民政府が発表した南京裁判所の「敵の犯行調査報告」は「当時、本市においてこのような侮辱を受けた女性は八万人を下らない、その上強姦したあと多くは乳房を割き、腹を切り開くなど残酷な行為が施された」と述べている。従って南京大虐殺は南京強姦事件とも言われている。
 南京大虐殺で災難にあった人数は、一九四八年極東国際軍事裁判所の判決書による認定では二十万人以上となっている。戦後の中国側の調査によると、大虐殺がほぼ終わった後、当地の慈善機関が各所で収容し、埋葬した十九万体に上り、集団虐殺がおこなわれた場所で掘り出された遺骨は十五万体と推定され、さらに揚子江に投げ込まれた大量の死体は統計に入っていない。そのうち少数の戦死者を除き、その他は全部戦闘終了後に虐殺されたものである。
 また南京の人口統計によると、戦闘開始時、全市の人口は百七万人であり、日本軍による攻城のとき、その半数が城の外へ避難したと推定され、城内あるいは近郊に残った人口は五十万人を下らなかったと考えられる。そのうち市の中心にある欧米人の開設した国際安全区(面積は約四平方キロメートル)には二十五万人以上収容された。一九三八年はじめ、日本によって樹立された南京かいらい政権の発足時の統計によると、城内の住民は十七万人しか残っていなかった。これによって中国人は少なくとも三十万人以上南京で虐殺されたことになる。
 日本軍による大虐殺に関し、南京駐在の百人による欧米諸国の外交官や記者、宣教師の大半は直接目撃し、国際的にも大量に報道された。例えば、英国の『マンチェスター・ガーディアン』記者H・J・ティンパーリーの書いた『外人の目撃した日本軍の暴行』という記事は当時全世界をゆるがした。もっとも信憑性のある証拠はドイツ外交機関が集めたものであった。当時ドイツと日本は同盟国であり、南京城内のドイツ人はハーケンクロィツ(卍)の腕章をつければ自由に行動でき、日本軍の状況についてもっともよく把握した。戦争中に連合軍によってろ獲されたドイツ外交文書によると、在南京ドイツ大使館から本国への報告書の中で「犯罪をおかしたのはこの日本人あるいはあの日本人ではなく、日本皇軍そのものである。・・・・・・彼らはまさに一台の野獣のマシーンであった」と述べている。
 戦争が終ったあとの一九四八年、極東国際軍事裁判所は南京大虐殺に関して当時の中支那方面軍司令官松井石根に死刑の宣告をした。その松井本人はそのとき、「南京事件に関してはお恥しいかぎりです」と語り、さらに「十二月十七日南京入城直後、いたるところで暴行のあったことを知って、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。折角皇威を輝かしたのにあの暴行によって一挙にしてそれを失墜してしまった」と話した。これはできるだけ自分の罪を軽減するための言い逃れであったが、日本軍の犯した罪を認めるものでもあった。
 当時日本外務省東亞局長だった石井猪太郎は、昭和十三年(一九三八) 一月六日の日記に南京大虐殺事件についてこう記していた。「上海から来信、南京における我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ」(『外交官の一生』)。
 さらに一九三八年七月第十一軍司令官として上海に到着した岡村寧次(後、北支那方面軍司令官、支那派遣軍総司令官に昇進)も次のような回想を残している。「上海に上陸して、一、二日の間に・・・・・・先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長荻原中佐などから聴取したことを総合すれば次のとおりであった。一、南京攻略時数万の市民に対する掠奪強姦などの大暴行があったことは事実である。二、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」(『岡本寧次大将資料』稲葉正夫 原書房)。
 こうした凄まじい大虐殺、強姦、略奪のニュースは欧米の新聞記者によって世界中に報道されたが、日本国内での報道は禁止され、日本国民の大部分は戦後の東京裁判(極東軍事裁判)で追及されるまで知らなかった。
 南京大虐殺は戦後一部の日本人が考えたような、一部の軍人だけの規律違反行為ではなかった。日本軍が南京で恐怖の虐殺をおこなったとき、城内における欧米諸国の人たちは連合して日本大使館と占領軍当局に対し交渉し暴行制止を要望したが、日本大使館からの返事は「帝国陸軍は南京に打撃を与える決心をした」ということであった。中日間の全面戦争勃発後、日本当局は一貫して中国と戦争状態に入ったことを承認しておらず、これは「膺懲」を目的とした「事変」であり、いかなる残虐手段を取ってもよく、いかなる交戦国間の国際法も無視し、交戦国の住民と捕虜に対する慣行規則も守る必要はないという態度であった。当時の中国の首都を攻略占領した直後おこなわれたこのような暴行は、日本軍閥が中国人民を恫喝し中国の抗戦意志をくじく目的でやったのである。
 日本の敗戦の時、軍部は戦争犯罪の審判に使われる可能性のある文書を全部焼却することを命令したので、日本軍内部での南京大虐殺関係の命令書をみつけだすことは困難である。しかし当事者のその後の告発によると、南京攻略・占領前、上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦中将は「捕虜を全員殺せ」との命令を下して、命令の末尾に「閲読後焼却せよ」との注をつけたということである。第十六師団長中島今朝吾中将の一九三七年十二月十三日の日記にも「大体捕虜ニハセヌ方針ナレバ・・・・・・適当ノ個処ニ誘キテ処理スル予定ナリ」と記されている。中島の日記にはまた、南京市内の多くの技術者と労働者を「処理」した結果、市区が長時間にわたる断水停電になって当市の警備を担当する日本軍にも多大の不便をもたらしたと書いてある(『中島第十六師団長日記・南京攻略戦』)。また、戦後発見された別の日本軍部隊の戦闘詳報にも「捕虜処理」の記録が残っている。
 日本が対中戦争を発動したあと、南京だけではなく、平和な住民と戦争捕虜に対する類似の大虐殺と強姦、掠奪の行動は、華北、華中の戦場の多くでも一度ならず発生している。ただ規模においては南京大虐殺は最大である。
 日本軍閥は恐怖の手段をもって中国を屈服させようとはかったが、結果はまったく逆であった。空前の民族の災難を前に、中国の各党派、各階層と各民族はかってないほど一致団結して抗日戦争に立ち向い、強い敵愾心をもって侵略者と最後まで戦いぬく決意を固めることになったのである。

 
「日本軍による南京大虐殺の概要図」として地図も載っておりました。

なんか見たことあるなぁと考えていたら、
Apemanさんが「Iris Chang, "The Rape of Nanking"(1) 」という
エントリーで引用されていた地図と虐殺箇所等がほぼ同じですね。