日本軍の中国人20万人大虐殺を否定したがる論者たちへ!

 
先日Youtubeで次のような動画を発見。
「南京城内では数千単位の虐殺はおこなわれていない」肯定派・笠原十九司氏(H19.2.5)

昨年の2月5日にチャンネル桜で放送されたもののようです。
出演者はブル聯隊長水島総社長と水間政憲さん。当ブログ的にはオイシイ面子ですw
内容は観ていただければ分りますが、『SAPIO』1998年12月23月号に掲載された笠原十九司さんの論文を話題にしております。
動画内「アイリスチャンの映画」といっているのは、おそらくテッド・レオンシスが製作した『Nanking』のことでしょう。
彼らは、昨年2月の段階でも、『Nanking』がアイリスチャンの著作を下敷きにしたというガセ情報を信じていたことになります。*1
クッキーと紅茶と(南京事件研究ノート)「問われる産経の「誤報」への責任」
 
笠原論文から「城内では、数千、万単位の死体が横たわるような虐殺はおこなわれていない」という文章を引用し、「数千すら殺されてない」「レイプも無かった」と結論付けてるのも驚きですが、そもそも日本の研究者は、南京城内での30万人虐殺など最初から主張しておらず、虐殺の多くが城外で行われたとしているのは常識です。
ついでにアイリスチャンは分りませんが、中国の研究者が城内30万人虐殺を主張しているというのもガセのようです。
南京FAQ 事件範囲を広げた日本の学者が怒られたというのはデマ
動画内「(この記事を)中間派にもみてほしい」と水島社長はいってますが、
上記のガセ情報流したのは(虐殺)中間派の秦さんだよ!
 
相変わらずの藁人形叩きというか、水島社長も水間さんも当然知っているはずなんですけどね......
ピュアな視聴者たちを騙そうとしたんでしょうか?コワイですねぇw
 
ということで、笠原さんのSAPIO論文を丸ごと引用してみます。

「日本軍の中国人20万人大虐殺を否定したがる論者たちへ!」
●大虐殺"肯定派"の重鎮が"否定派"に反論
宇都宮大学教授 笠原十九司
 
 従来までの南京事件に関する研究書・新聞記事等について、史料を恣意的に解釈していたり、中国側の杜撰なデータが援用され、虐殺が誇張されているといった批判が相次いでいる。これに対して、20万人前後の大虐殺があったと主張する歴史学者たちはどう反論するのだろうか。
 『南京事件』(岩波新書)の著者である笠原十九司宇都宮大学教授が、"南京大虐殺の嘘"を主張する虐殺否定派の論理を検証する。
 
検証1 南京大虐殺を目撃できた人はいない
 南京大虐殺事件(南京事件と略称)は、日本の陸軍ならびに海軍が、日中全面戦争の初期の南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民(民間人のほかに、捕虜および投降兵・敗残兵)にたいしておこなった、虐殺、強姦、強姦殺害、略奪、放火、強制労働など、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。死者については、現在の日本側の研究では十数万人以上、それも二十万人近いかそれ以上の中国軍民が犠牲になったと推測される。
 事件の発生区域は、南京城区(南京城内と城壁周辺)と近郊の六県を合わせた行政区としての南京特別市全域である。この区域が南京攻略戦の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域であった。
 事件の発生の期間は、南京攻略戦が始まり、日本軍が南京戦区に突入した一九三七年一二月上旬から「中華民国維新政府」が成立し虐殺行為が一段落した翌年三月下旬まで。
 全長三四・二四kmの城壁に囲まれた南京城市(日本では南京城内を南京市という場合が多い)でも、面積はJR山手線内の都区内の広さに相当する。南京事件の舞台となった南京市行政区の全面積は、東京都と埼玉。神奈川両県を合わせた広さにほぼ匹敵する。
 南京大虐殺はこれほどの広域において三か月余にわたって発生した事件なのである。しかも戦場という危険区域であったから、一人の人間が全体を目撃できることなどありえない。
 ところが、あたかも大虐殺の全現場を目撃できるかのような誤った事件イメージを前提にした"南京大虐殺の嘘"が横行している。
 「『南京大虐殺』とはどういう事実を指すのかということについて、私が長い間抱いていたイメージは、南京市内に入城した日本軍が、丸腰の中国人市民を無差別の掠奪、強姦、放火、虐殺した結果、死者三十万に及んだ、というものである。・・・・・・大方の人々のイメージは右のようなものではないかと思う」(藤岡信勝近現代史教育の改革』明治図書)
 「南京へ行った当時の兵隊さんに聞いても、そんなことありえないと。二十万人も殺したら、もう累々と南京城の中に転がってますよ(笠原潤一参議院議員の発言)」(歴史・検討委員会編『大東亜戦争の総括』)
 南京戦当時、あるいは占領直後に南京にいたことがあるという日本人の将兵やジャーナリスト、外交官の人たちは、右のような誤った南京大虐殺イメージを前提にして、「そのような南京大虐殺は見なかった、聞かなかった」と否定する場合がほとんどである。彼らは、もともと無かった虚構の大虐殺場面を想定して"南京大虐殺の嘘"を主張しているのである。
 拙著『南京事件』(岩波新書)・『南京難民区の百日』(岩波書店)を読んで下されば分るように南京城内では、数千、万単位の死体が横たわるような虐殺はおこなわれていない。集団虐殺のほとんどが城外、郊外、長江岸でおこなわれたのである。
 
検証2 現場にいても事件は見えないことがある
 南京攻略戦に参加した元兵士の方で「自分は虐殺をしていないし、見てもいない、だから南京大虐殺などなかった」と真剣に思っている人たちがいる。投降兵・捕虜の殺害や作戦中に「敵」と判断した民衆の殺害を虐殺行為と思っていないためであることが多いが、現場にいても事件が見えないことはある。
 死者六千三百余人をだした一九九五年一月の阪神大震災の際、災害の現場にいても、死者、ビル倒壊を目撃しなかった人はたくさんいる。
 被災者たちが知り得たのは身のまわりのことだけであり、地震規模の大きさを知ったのはテレビ情報によってであった。
 ましてや南京戦場・作戦区域において、隣の部隊のことも分からない狭い情報行動しか取れない現場の将兵には、広域に発生している南京大虐殺の全容など知る由もなく、実感のわからない事件だったといえる。
 
検証3 木だけを問題にして、森を見ようとしない
 「木を見て森を見ず」という諺がある。南京事件の現場にいた将兵やジャーナリスト、外国人、および被害者の中国人たちは、個々の虐殺現場=「木」を目撃できても、南京大虐殺全体=「森」を見ることはできなかったのである。
 奥宮正武『私の見た南京事件』(PHP研究所) 『南京戦史資料集』Ⅰ、Ⅱ(偕行社)、さらには阿羅健一『聞き書・南京事件』(図書出版社)にもあるように、事件当時南京にいた日本人の中に、虐殺現場=「木」を見た人はたくさんいるのである。しかし、自分が見たそれぞれの木が膨大に集まって自分には見えない「森」=南京大虐殺になっているという理性的認識にいたれる人は少ない。
 "南京大虐殺の嘘"をいう人たちは、「森」=南京大虐殺を証明する膨大な「木」=虐殺現場の証拠資料があるにもかかわらず、政治的意図から南京大虐殺を否定しようと、特定の「木」を取り上げて、それが偽か本物かの論議を巻き起こし、一般の人が「森」を見ようとする意識を逸らせようとしている。
 その一つとして"南京大虐殺の嘘"を主張する人たちが必ず使う手垢のついたやりかたが、東京裁判におけるマギー証言の否定である。
 宣教師ジョン・G・マギーが法廷で二日間にわたって日本軍の民間人虐殺、強姦、放火などの多くの事例について証言した(洞富雄『南京大残虐事件資料集 第一巻 極東国際軍事裁判関係資料編』青木書店の八六〜一一○頁)。ところが、ブルックス弁護人に現行犯を目撃したのは何件かと問われて「日本兵が市民を殺害するその瞬間を目撃したのは一人の事件についてだけであった」と答え、さらに強姦の現場を二件目撃したと答えたのに対して、「二日間に亘って検察官の直接訊問に対して詳細に述べた、日本軍の不法行為等に関する証言は、前記の殺人一件、強姦ニ件、強盗一件を除いては、すべて伝聞証言であったことが明らかになった」と否定するのである(冨士信夫『「南京大虐殺」はこうして作られた』展転社)。
 "南京大虐殺の嘘"を言う人々は、マギー証言同様に、『南京の真実』(講談社)のジョン・ラーベの日記も、その他の南京安全区国際委員会のメンバーの残虐不法行為に関する記録も「伝聞の山」で、信憑性がないと否定する。
 拙著『アジアの中の日本軍』(大槻書店)に記したように、マギーは一六ミリフィルムのカメラをもっていて、虐殺現場や被害者を日本軍に分からないように密かに撮影していた。日本軍が南京市民を殺害している状況下にあって、市民の死体を目撃すれば、日本軍の虐殺を見たということになる。直接殺す瞬間を目撃しなけらば、すべて「伝聞」で信憑性がないという人は、ペルー日本大使公邸占拠事件での人質救出の際、ゲリラ射殺の瞬間を見ていないからとゲリラの殺害を信じないのであろうか。
 
検証4 荒唐無稽な「反日攪乱工作兵二万人説」
 殺害、強姦の瞬間を直接目撃しなければ事実として認定できない、という単純な認識から"南京大虐殺の嘘"のためにまことしやかに言われ始めたのが、国際安全区内の中国軍の「反日攪乱工作員二万人説」である(小林よしのり「新ゴーマニズム宣言」第六○章)。これは、東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社)の「反日攪乱行為に暗躍した支那将兵」が出所の一つと思われるが、直接目撃しなければ事実として認定できないのだから、中国軍のせいにしてもかまわないだろう、というわけである。南京安全区には、武器を隠して潜伏し、ゲリラ活動をしようとした中国軍将兵がいたことは、中国側の資料にもある。しかし、それを針小棒大にして、「反日攪乱工作兵二万人説」を唱えるのは、「盧溝橋事件=中共謀略説」と同様に荒唐無稽である。
 拙著「南京防衛戦と中国軍」(洞富雄他編『南京大虐殺の研究』晩聲社)で明らかにした中国軍の崩壊の仕方、拙著『南京事件』と『南京難民区の百日』に記した、安全区内における日本軍の徹底した「敗残兵狩り」と「兵民分離の査問工作」を考えれば、そのような中国部隊の存在は不可能であった。 
 
検証5 報道させなかった南京大虐殺
 "南京大虐殺の嘘"できまって言われるのが、「日本人は戦後になるまで長い間、誰も知らなかった」のに「東京裁判で突如として『南京大虐殺』の話が出て」、連合国が、アウシュビッツナチス同様に残虐・非道な日本を裁くというプロパガンダのためにデッチあげたという説である(渡部昇一『かくて昭和史は甦る』クレスト社)。
 南京事件調査研究会編『南京事件資料集 ①アメリカ関係資料編』(青木書店)に明らかなように、南京大虐殺は発生直後から欧米では報道されていた。東京裁判で、日中戦争における日本軍の残虐行為の中で南京事件だけが重大視して裁かれたのは、連合国側の政府と国民が、リアル・タイムで事件を知っており、その非人道的な内容に衝撃を受けていたからである。
 同時代において南京大虐殺の事実を知らなかったのは、日本国民だけであった。戦時中の厳格な言論・報道統制によって知らされてなかったのである。
 しかし、当時の日本の軍中央や政府の指導者は知っていた。広田弘毅外相がワシントンの日本大使館に送信した暗号電報がアメリカ側に傍受され解読されていた。一九三八年一月一七日付電報で、広田は、上海で押収したティンパレー記者の、南京その他で三十万を下らない民間中国人が殺戮されたという電文記事を、情報として伝達している(アメリカ公文書館資料)。また、石射猪太郎外務省東亜局長は「上海から来信、南京における我が軍の暴状を詳細し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。ああこれが皇軍か」と一九三八年一月六日の日記に書いている(『石射猪太郎日記』中央公論社)。
 拙著『南京事件』に書いたように、陸軍中央は南京事件の発生を知って、内部措置のかたちで松井石根支那方面軍司令官を解任して帰還させ、国民にたいしてはその事実を隠蔽しつづけたのである。
 南京事件に関する当時の言論報道統制と、敗戦前後に現地軍も含めて徹底的に関連文書の焼却、証拠隠滅をはかった軍・政府当局の実態については、吉田裕『天王の軍隊と南京事件』(青木書店)と同『現代歴史学と戦争責任』(同)に詳しい。
 ここでは、報道統制と弾圧の一事例だけを紹介する。作家の石川達三は、中央公論特派員として占領直後の南京に滞在、兵士からの取材をもとに、南京攻略戦に参加した日本兵たちの捕虜、民間人の殺害、婦女暴行などの行為をリアルに描いた「生きている兵隊」(『中央公論』一九三八年三月号)を執筆した。同号は即日発売禁止となり、石川は禁錮四か月執行猶予三年の判決を受けた。同誌の編集長も起訴され、退社を余儀なくされた。
 弾圧に弱い日本のマスメディアにたいしてこの処分が脅しの意味を持ち、日本のマスコミは南京事件を報道をしなくなったのである。
 南京に派遣されていたカメラマンも虐殺現場を目撃しながら、撮影はせず、報道もしなかった。東京日日新聞(現毎日新聞)の佐藤振壽カメラマンは、南京市内で敗残兵一○○人を虐殺している現場を目撃したが、「写真を撮っていたら、恐らくこっちも殺されていたよ」と述べている(『南京戦史資料集Ⅱ』偕行社)。
 南京事件東京裁判でデッチ上げられたのではない証拠に、石川達三は「裁かれる残虐『南京事件』」と題して、自分の見聞した残虐事件を述べ、「南京の大量殺害というのは実にむごたらしいものだった、私たちの同胞によってこのことが行われたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を異議あらしめたいと思う」と語っている(『読売新聞』一九四六年五月九日)。
 最後に"南京大虐殺の嘘"を主張する人たちは、事件は中国側の違法行為に原因があったかのごとく言うが、その前に「なぜ、日本軍は南京に行ったのか」を考えるべきであろう。
(文中敬称略)

 

*1:「下敷き」の解釈もいろいろあるとは思いますが...