松井日記改ざん報道記事

田中正明さんによる松井石根大将日記改ざん問題は、1985年11月25日発売の『歴史と人物』冬号に、俗に南京大虐殺中間派にカテゴライズされている板倉由明さんの記事により告発されました。またそれに伴い朝日新聞に2日間にわたり報道されることで広く知られることになりました。
ということで、該当記事を引用してみます。
 

朝日新聞 1985年(昭和60年)11月24日 3面
南京虐殺』史料に改ざん
今春出版の『松井大将の陣中日誌』
 
900ヵ所、原文とズレ
雑誌編集長ら誤り発見
南京虐殺事件は幻か事実か---これは事件以来ほぼ半世紀たったいまも、日本の歴史化の間で激しい論争の焦点となっている。この問題の第一級史料である当時の中支那方面軍司令官・松井石根陸軍大将の「陣中日誌」がことし五月出版されたが、これを原文と対照すると九百ヵ所以上もの改ざん、誤記があることを中央公論社「歴史と人物」の編集長横山恵一氏らが発見、同事件の研究家板倉由明氏が、今月二十五日発売の同誌で改ざんの事実を指摘することになった。走り書きの日記を判読して出版用の原稿にしたのは「"南京虐殺"の虚構」の著者田中正明(七四)。南京市内の敗残兵の数が「数万」と原文にあるのに「数千」にしたり、原文にない外人記者団との会見を書き加え、編集注として「南京虐殺に関する質問を受けた様子が全く見られない・・・・・・」とコメントまでつけるなど、南京事件を否定するように書き換えられている。
 
「事件」虚構主張の編者 一部は加筆個所
 「松井石根大将の陣中日誌」(田中正明編)はことし五月、芙蓉書房(東京都千代田区)から出版され、この第四章に南京占領(昭和十二年十二月十三日)の前後、同十二年十一月から翌年二月までの「日誌」が収録されている。松井大将は当時の中国の首都、南京攻略作戦に当たった司令官で、日本軍の暴行、略奪を防止する義務を怠った、として昭和二十三年十一月、戦犯裁判で絞首刑を宣告された。田中氏は戦時中、松井大将の秘書として上海や南京などの中国大陸を回り、戦時は南京事件を中心として評論活動を続けるかたわら、同大将の遺族の相談相手になってきた。
 田中氏編の「陣中日誌」に対し、横山、板倉氏らが不審を抱いたのは、昭和十二年十二月三十日に、陸軍省人事局長阿南惟幾少将(当時)が松井大将を上海に訪れたはずなのに、その記述がないことから。阿南少将は南京事件の調査を兼ねて訪れた、とも言われ、「この訪問が全く日記に出ていないのは、のちだれかが削除したのでは」という疑問が戦史研究家の間で語られていた。
 このため「歴史と人物」編集部は、防衛庁戦史室にある日記のコピーを借り、それでも欠落していたページは静岡県御殿場市陸上自衛隊板妻駐屯地資料館に保管されている現物を写真撮影して補った。
 だが、日記は自分が読むための走り書きで読みにくい。判読に当たったのは同社の委嘱校正者で、これまでも多くの手書き文書の判読に成果を上げてきた出綾子さん。約一ヶ月かかって、原文と出版されたものの間に九百ヵ所以上の食い違いがあることを発見した。本来疑問とされた阿南少将訪問の件は、松井大将にとっていやな話だったためか、もともと日記にかかれていないことが判明したが、一方、より重大な違いが多く見つかった。たとえば南京占領の直後、十二月十四、五日の項に原文では「敗残兵の各所に彷徨(ほうこう)するもの数万」とあり、これが判読が容易なのに、「陣中日誌」ではこれを「数千」と変えている。
 一月二十四日の欄外に、南京から帰った中島今朝吾第十六師団団長が訪問した際「其云(その言う)所、言動例に依り面白からず。殊に奪掠(ママ)等の事に関し甚た(はなはだ)平気の言あるは遺憾とする所、由(よっ)て厳に命じて・・・・・・」と原文にあるのを「其云う所、言動面白からず、由て厳に命じて」と変え、師団長すら掠奪などを当然視したことを隠している。
 二月六日の項では二ページにまたがって「軍紀風紀の弛緩(しかん)」を述べ「予の精神は軍隊に徹底しあらざるは・・・・・・」と嘆いているが、これも削除。
 さらに問題なのは、加筆された部分もかなりあること。芙蓉書房版の十二月二十三日には「此(この)日南京占領後の我方の態度方針を説明する為め外人記者団と会見す。最初南京占領と其(その)国際的影響を知るため紐育(ニューヨーク)タイムズのアベンド、倫敦(ロンドン)タイムズのブレーザーを招致し、然る後在上海の各国通信員と会見す。質問は主として、首都陥落後の日本の方針及(および)パネー号に対する善後処置なり」とあるが、これは原文には全くなく、編者の田中氏が書いたもの。これに続けて田中氏は「南京占領から十日をへた外人記者団との会見において松井大将が『南京虐殺』に関する質問を受けたという様子が全く見られない点、注目すべきである」という編者注を付けている。自分で書き加えた文に自分で注釈を付けたことになる。
 ほかにも単純な誤記、脱落とは考えにくい食いちがいが数多く、板倉氏は「改ざんの方向がすべて南京事件の否定に向かってそろっている」としている。
 
うっかりミスで意図的でない
松井石根大将陣中日誌」の編者・田中正明氏の話
日誌の原本は、一昨年大将の養女からその存在を聞き、承諾を得て判読作業に入った。半年後に判読を終えたころ体調を崩して入院、校正を病院で続けた。五月に予定した松井大将をしのぶ会の開催に間に合わせようという出版社の要望もあり、かなり急いだ。違いが九百ヵ所とは驚きだ。
 加筆したのは、東京裁判へ向けて松井大将が日記とは別なメモをつけており、この日付で日誌を追加した。そのむね注をつければよかったが気づかなかった。削除したのはうっかりだし、原文にない言葉が入ってしまったのは記憶にない。言い逃れになるかもしれないが、体調などの悪条件が重なりミスしたもので、決して虐殺を虚構だという自分の主張に合わせて加筆や削除したのではない。申し訳ない。
 
加筆まで・・・許せない
改ざんを指摘した板倉由明氏の話
 最初中央公論社から資料を見せられてまさか、と思った。誤読、脱落はありえても、もとの日記に書いていないことを付け加え、それに注釈までしているのはどうしようもない。田中さんは南京事件を全面否定しようとされ、松井大将と親しかったため、ついひいきの引き倒しをされたようで全く残念だ。私は三年前、歴史教科書問題を契機に南京事件の研究に入ったが、日本軍による捕虜殺害や略奪などに伴い、不法に殺害された中国人は、当初考えていたよりも多く、戦闘によるものを除き、一万人ないし二万人、と考えるようになった。
 
「歴史と人物」編集長・横山恵一氏の話
松井大将の日記は、南京事件研究のための第一級史料で、多くの機会に引用される。活字になっているものは、田中氏編の芙蓉書房版だけなので、研究家たちが誤った史料を引用するのは困る、と考え調べてみたら、意外にも九百ヵ所以上もの誤りが見つかった。
 

朝日新聞 1985年(昭和60年)11月25日 3面 *1
真相深層
南京虐殺」ひたすら隠す
 
田中氏の松井大将日誌改ざん
戦後の資料にも"創作"上海と南京をすりかえ
日中戦争に全面突入した一九三七年(昭和十二年)に、当時の中国の首都で日本軍が起こした南京事件(いわゆる南京大虐殺)について、株式会社文芸春秋の発行する月刊誌などで「あれは事実無根だ」というキャンペーンが行われてきたが、その筆者たちのなかでも中心的役割を果してきた田中正明(七四)の編著「松井石根大将の陣中日誌」に収録されている陣中日誌が、大規模に改ざんされていることがわかったうえ、さらに戦後に松井・元大将の書いた『支那事変日誌抜萃(ばっすい)』もまたひどい改ざんやでっちあげされていることが、早大元教授・洞富雄氏(七九)らの調査で明らかになった。たとえば、日付をずらして上海のことを南京のことにすりかえたり、自分の『創作』した文を勝手に加えたりして、ひたすら虐殺の事実をかくすための工作につとめている。 (本多 勝一編集委員)
 
 歴史学者たちを中心とする「南京事件調査研究会」の代表でもある洞氏は、主として文献による南京事件の研究をしてきたが、田中正明氏の引用する資料にかねて疑念を抱き、原文の入手につとめてきた。その結果、『支那事変日誌抜萃』(注1)について原文と引用文の照合することができ、大規模な改ざん・加筆が発見された。改ざん・加筆・歪曲(わいきょく)は数十ヶ所におよび、そのいちいちを紹介しきれないので、ここでは典型的な一例を紹介する。(この原文は、「南京事件調査研究会」の一人である一橋大学社会学部講師・吉田裕氏が外務省の外交史料館で見つけた)
 まず原文に次のような一節がある(漢字だけ当用に改めた)。
 「尚十一月三十日再ビ右両通信員ト会見シ上海占領後ニ於ケル我軍ノ態度方針ヲ説明シ上海附近ニ於ケル列国ノ権益ヲ保護スル為予ノ執リタル苦心ノ程ヲ開陳セルニ彼等ハ我軍ノ公平ナル態度ニ感謝ノ意ヲ表セリ
 右ノ外十一月十日在上海AP、UP、・・・・・・・」
 このなかで「両通信員」とは『ロンドン・タイムス』と『ニューヨーク・タイムズ』の両記者をさす。右の原文が、田中氏によって次のように変えられた(ゴシックは改ざんまたは加筆されたところ)。*2
 「尚十二月二十三日、再び右両通信員を招致して南京陥落が各国政府に与えたる影響につき意見を徴するとともに、南京占領後に於ける我軍の態度方針を説明し、南京附近に於ける列国の権益を保護する為め、予の執りたる苦心の程を開陳し、パネー号事件の経緯と陳謝の意を表明す。彼等は我軍の公正なる態度につきむしろ感謝の意を表せり。
 右の外、一月十日。在上海AP、UP、・・・・・・」(田中氏編、芙蓉書房刊『松井石根大将の陣中日誌』七八ページ)
 この改ざん・加筆によって、松井司令官が上海で示した「我軍の公正なる態度」は、すべて南京でのことにすりかえられてしまった。つまり、南京事件発生以前の上海での司令官の言動は、これによって南京占領以後の「我軍の公正なる態度」となる。したがって二人の外国特派員は南京での日本軍の「公正なる態度」に感謝したことになり、このことをもって田中氏は、虐殺はなかったことの証左の一例とするのである。
 あわせてパネー号事件(注2)などまで加筆しているように、田中氏は、原文に全く存在しない文を各所で「創作」している。その最たる一例は次の一文であろう。
 「終戦後暫(しばら)くして、南京に於て一般人、俘虜(ふりょ)、婦女子等に対し、組織的な大規模の虐殺、暴行事件がありたるやに米国内で放送しありとの情報を聞き、予は驚き、旧部下をして調査せしめたるも、左様な噂(うわさ)は全く虚妄にして、予の在任中は固より、帰還終戦に至る迄(まで)、斯(か)くの如(ごと)き報告及び情報に接せず、上海に於る列国新聞通信員との屡次(るじ)に亘(わた)る会見に於ても之(これ)を耳にせず、全く誣妄(ふぼう)なることを附言す。」(『諸君!』一九八三年九月号の田中氏の一文および田中氏著『"南京虐殺"の虚構』日本教文社)
 右はやはり『支那事変日誌抜萃』からの"引用"とあるが、原文には全く存在しない。
 田中氏のこうしたでっちあげについて詳細に検討した洞氏は、「これは学者・研究者としてまともにとりあげるレベルの相手ではなく、論争の筆をとりながらも実にむなしい思いだ。しかしこういう人物のものをひんぱんにとりあげて世に出している雑誌がある以上、影響力を無視するわけにゆかず、むなしい作業でもやらざるをえなかった。松井大将が生きていればさぞ(改ざんを)怒り嘆くだろう」といっている。そのくわしい内容は、近く朝日新聞社から刊行される同氏の著書『南京大虐殺の証明』(仮題)で発表される。
 なお田中氏は長野県生まれ、興亜学塾に学び、近衛文麿の「大亜細亜協会」に勤務したことがある。現在、著述業。
 
疎漏認めざるを得ぬ
田中正明氏の話
私のところにあったはずの原文は、どこかへしまいこんで分からなくなった。外務省の外交史料館にあったという原文のことは全く知らなかった。私は意図的な改ざんなどしていないつもりだが、大病で入院を繰り返していたことだから、疎漏があったことは認めざるを得ない。<注1>
これは戦争直後の一九四五年十二月、松井大将がおそらく東京裁判のための資料として自分の陣中日誌から要約したもの。外務省の原文は、原本にもとづく謄写版本で、これは占領軍もフィルムにしている。<注2>
南京陥落の直前、揚子江にいた米軍砲艦「パネー号」を日本海軍機が「誤爆」して沈没させた事件。
 

因みに板倉さんは『文芸春秋』1986年1月号で「改ざんする必要はなかった」として田中さんをフォローしてますが、『偕行』における「証言による南京戦史」においては、事件の解釈において田中さんと対立していたと思われ、田中さんに対して感情的なわだかまりがあったこともうかがえます。
 
松井日記改竄詳細 → 田中正明センセイの松井大将日誌改竄問題

*1:参照用

*2:ゴシック個所は太字に