田中正明の反論


田中正明氏による松井石根大将日誌改竄問題は、所謂大虐殺派を中心に厳しい批判が加えられましたが、田中氏もそれに対し多数の媒体で反論を述べております。このエントリーではその内容を丸ごと引用していきます。*1
 ・松井石根大将日誌改竄問題
 ・朝日新聞の報道(1985年11月24、25日)
 ・続・田中正明の反論

南京事件の総括 謙光社 (1987/03) *2  P339〜343
 
あとがき
 昭和六十年十一月二十四、五日の二日間にわたって、朝日新聞は私の編著した『松井石根大将の陣中日誌』<芙蓉書房刊行>について、「『南京虐殺』史料に改ざん/900ヵ所原文とズレ」と題して、翌日はまた「『南京虐殺』ひたすら隠す/田中氏の松井大将の日誌改ざん」と題して、両日とも九段、白ヌキ見出しという派手な扱いで大々的に取りあげて私を誹謗しました。
 前日拙宅に「朝日」の記者が来訪し、コメントを求められたが、私は「改ざんの覚えはない、どこがどうズレているのか、調べるまで発表を待ってほしい」と言いましたが、しかしその翌日前述の記事となり、しかも私が言いもしない「申し訳ない」という詫びごとまで捏造して、いかにも私が意図的な改ざんを認めたかのような記事になっており、有無も言わせぬ切り捨てご免の弾劾記事となった次第。反論も、弁解も許されない、一方的な断罪です。私は「朝日」にさっそく釈明の一文を投稿しましたが、もちろん一顧だにされず没書となりました。
 「朝日」は本著でも紹介しているように、終始一貫して南京に大虐殺があったとしてキャンペーンを張っている新聞であります。私の抗議や反論など取りあげようはずがありません。
 数百万部を発行する大新聞が、二日間にわたって私を非難し、その弁明の余地さえ与えられないということは、いったい私の人権はどういうことになるのか。新聞は第四の権力といわれていますが、ひとたびマスコミのターゲットにされた者からすると、これほど無残な、反論も反駁もできない、ほどこす術もない一方的な暴力はありません。世の中には、マスコミの暴力の一撃をくらって、反論も弁解も許されず、いかに多くの人権が踏みにじられたまま泣き寝りさせられているケースが多いことか、今更らながら思わずにはいられませんでした。自殺した高校の先生、取り潰された病院、名挙毀損や人権回復のため、多くの訴訟事件がマスコミ相手に起きていますが、しかし、これらはほんの氷山の一角にすぎないのではないでしょうか。
    ○
 私が改ざんしたと称される『松井大将の陣中日誌』と私の記述とのズレは、板倉由明氏が中公出版「歴史と人物」(六十年冬期号)でくわしく指摘しているが、氏の推定個所以外はほぼまちがいありません。専門家が二ヶ月かけて、松井大将の日記と私の文章を対比したと言いますが、それをごらん頂いてもおわかりの通り、「南京虐殺」を隠すため、意図的に改ざんしたものでは毛頭ありません。だいいち大将の日誌には、南京に"虐殺"事件があった、なかった、などということはまったく無関係なのです。隠さねばならぬことは何もないのです。そのほとんどは、私の筆耕の誤記や誤植、脱落、あるいは注記すべきところをしなかった等の不注意によるものであります。それを「『南京虐殺』ひたすら隠す」といかにも私が実在した"虐殺事件"を秘匿したかのごとく誹謗したのです。
 なにぶんにも兵馬倥偬の間に走り書きされた日記で、しかも大将独特の難解な草書体で読みとることのできない不明の個所が多く、その中の一字を判読するのに、三時間も四時間も要し、それでもなお読みとることができなかった例がいく箇所もありました。
 このほかに、不鮮(すくなからず)、如此(かくのごとき)、不詳(くわしからず)、併(ならびに)、方(まさに)、不審(つまびらかならず)、仍而(よって)、太(はなはだ)、此(かかる)、遽(にわか)・・・・・・等々数えあげれば際限ありませんが、これらの漢文調の文字を、現代の読者に読みやすくする配慮から、かなまじり文になおし、あるいは新かなづかいにそって、おくりがなを付したり、句読点を付すなど、語句の扱いに配慮を欠いた点は認めますが、原文を勝手に書き直して、虐殺事件を隠したとか、大将の不利を補ったとかいったようなことは毛頭ありません。その他きめ細かく<注>を付して、日記以外に大将が弁護人に与えたメモの挿入(二ヶ所)を日記本文と峻別しなかった等、杜撰な点のあったことは認めます。
 ここではっきり申しあげたいことは、私が大将の日記を著述した目的は、第一級資料である軍司令官の日記を通して、この戦闘期間中の松井石根大将の行為・心境・真意をひろく江湖に伝えることでありますが、字句に多少のズレはあっても、松井大将の真意を曲げることなく、その目的は完全に果たし得たと言うことであります。朝日新聞はじめ洞富雄氏ら虐殺派の人びとは、ニセ写真やウソの記述までならべたてて、ありもせぬ二○万、三○万の"大虐殺"がさもあったかのごとく宣伝し著述しています。これこそ歴史の改ざんでなくてなんでしょうか。
 私が松井大将の日記を改ざんしたと称して朝日新聞で叩いた本多勝一氏が、今度は板倉由明氏から、本多氏よ汝こそ南京事件の「改竄の常習者」ではないかと叩かれているのはその一例と申せましょう。(月曜評論八三四号)
   ○
 朝日新聞社は私を二日間にわたって誹謗したのち、大虐殺派のリーダー格の洞富雄氏の『南京大虐殺の証明』を出版しました。この本は私をはじめ虐殺否定論者七名(板倉由明、畝本正巳、渡部昇一山本七平、畠中秀夫、阿羅健一)の名をあげ、その所論を反駁し、批判したもので、とくにこの本の七○〜八○パーセントは拙著に対する批判であります。二○万、三○万の大虐殺があったとする洞氏のこの著書は前後して、一橋大の藤原彰氏が岩波ブックレットから『南京大虐殺』を出版し、その弟子の吉田裕氏が『天皇の軍隊と南京事件』を青木書店から出版しました。いうまでもなくこの二著も洞氏同様、中国の政治宣伝通り、南京に大虐殺があったことを一所懸命に書きつらねている本であります。さらに続いて拓大の秦郁彦氏が中央公論から『南京事件=「虐殺」の構造』という本を出しました。秦氏は中間派と自称し、虐殺数を四万と推測していますが、洞氏同様、東京裁判史観を展開して、松井大将に対するいわれなき誹謗と日本軍の残忍性をひたすら綴っています。
 私は本著で、以上四氏に対する批判や反論を随所に加えつつ、また先年出版された中国発の公的発表と称する南京市文史資料研究会編の『証言・南京大虐殺』の白髪三千丈式の大でたらめの被害者の証言も徹底的に批判し、各部隊の戦闘詳報や、当時の一級資料をふまえて、しかも新しく発掘した資料や証言を駆使して、南京事件の真相に迫ったつもりであります。
 私はさきに日本教文社から『"南京虐殺"の虚構』を上梓しました。この著は国内で多くの反響を呼んだばかりでなく、中国では「南京大屠殺記念館」建設にあたって、この本がよほど目ざわりとみえて「人だましの本」だと悪宣伝にこれつとめ、ソ連の赤い電波も、著者の私を名ざしで非難しました。つまりそれだけ海外でも反響が大きかったわけです。本著は若干前著とダブル点もありますが、文字通り「総括」の名にふさわしく、虐殺の定義からはじまって、東京裁判や教科書との関係、本件と虐殺論、否定論を網羅し、欧米のマスコミや米・英・仏政府のこの事件に対する反響や対応にまで手を伸ばし、「南京事件五十年目の節目」を期して、その全貌と真相に迫った決定版のつもりであります。
 いずれにせよ、巷間伝えられるがごとき南京に二○万人三○万人もの大虐殺があったとする俗論は、歴史の真実をゆがめる歴史の改ざんであり、虚妄であります。ことにこの虚妄を教科書にまで記述し、次代を担う小国民にかかる自虐的な、祖国呪詛のいつわりの教育を施しつつあるということは、許し難い父祖の歴史への冒涜であり、民族の恥辱であり、国をあやまることこれ以上はなはだしきはありません。
 私は今後ともこの歴史的虚構−日本罪悪史観−一掃のため、不退転の決意でいっそうの努力を重ねて参りたいと思っています。
   ○
 本著の出版にあたって、種々のご高教、ご助言をたまわった鵜飼敏定、井本熊男、阿羅健一、谷口厳、畝本正己、高木桂蔵、中山有良、鴨野守、岡田尚、森本真章、水津満、板倉由明、犬飼総一郎、半本茂の諸氏および瀧川政次郎博士、青山学院大学教授の佐藤和男博士、ならびに貴重な資料や体験談をいただいた土屋正治、土井申二、高橋義彦、西坂中、浜崎富蔵氏ら南京攻略戦参加の各部隊の将兵の皆様に深謝申しあげます。
 最後に、謙光社社長鬼塚萃氏の本著に対する情熱をこめての献身的ご協力に対して、また本著の校閲に当って下さいました富士信夫氏に対して、さらに本著のために「薦める詞」下さいました東京大学教授小堀桂一郎先生に、深甚の謝意を表します。
 南京事件五十年目の昭和六十二年如月
武蔵野如石庵にて 著者しるす

 

『民族と政治』1987年5月号 P22〜27
南京事件の総括』を書き終えて  田中正明
 
◇「人だましの本」の酷評
 昭和五十九年六月、私は『"南京虐殺"の虚構』という本を日本教文社から出版した。このときは、例の日本のマスコミによる「侵略」を「進出」と改訂したという虚報から端を発し、中・韓両国政府の内政干渉となり、これを受けて宮沢官房長官の謝罪という前代未聞の土下座外交に対し世論が湧いている時でもあり、この土下座外交の結果、日本の中・高校の歴史教科書の自虐的偏向はますます激しくなり、私を含め七人の有志による国(文部省)を相手取っての教科書是正訴訟も起きている時でもあり、南京事件に対する世論の盛りあがりがあった。そうしたタイミングの良さもあって、この本は出版頭初から国民の関心を呼んだ。竹村健一氏の『世相講談』でも取り上げたし、新聞、週刊誌等も書評で紹介し、たちまち三版、四版と増版を重ねた。また出版記念会も盛大に開かれ、参会者三百余名、会場は熱気でムンムンするほどであった。
 この本は国内だけでなく、国外でも反響を呼んだ。中共政府は"三十万南京大屠殺"を内外に宣伝するため「侵華日軍南京大屠殺過難同胞記念館」を建設したが、この建設にあたって、よほど私の著書が目ざわりとみえて、中国共産党の機関紙「世界知識」で拙著を「人だましの本」であると非難した。中共ばかりでなく、モスクワの"赤い電波"までも拓大講師田中正明著『"南京虐殺"の虚構』は軍国主義を美化するものだ・・・・・・といって私を名ざしで誹謗した。
 売れゆきもよかったが、それだけに反響も大きかったわけである。
 
◇理不尽の朝日新聞の非難
 このことは"虐殺派"の連中にとっては癪の種であったにちがいない。
 私はその翌年、『松井石根大将の陣中日誌』という著書を芙蓉書房から上梓した。この著作から校正にいたるまでの間私は二回入院した。すなわち一回は前立腺手術で立川の共済病院へ、二回は胆嚢摘出手術で虎の門病院へ、病魔と闘いながら、七転八倒の苦痛に耐えながらの作業で、最後の校正などは、看護婦の目を盗んで消灯後毛布をかぶって、原稿との引き合せもせず、読むだけの杜撰なものであった。五月十八日が松井大将が発願した興亜観音の例大祭であり、この日大将の遺徳を敬迎する人びとによって結成された「孤峯会」の創立総会があり、拙著をこの会までにどうあっても間に合せ度いという要望に応えるためこの様な無理をかさねたのであった。
 著書は辛うじてこの祭典に間に合ったが、残念ながら内容の不備はまぬがれなかった。
 なにぶんにも兵馬倥偬の間に走り書きされた日記で、しかも大将独特の難解な草書体で、読みとることのできない不明な個所が多く、その中の一字を判読するのに、三時間も四時間も要し、それでもなお読みとることができなかった例がいく箇所もあった。
 このほかに、不鮮(すくなからず)、如此(かくのごとき)、不詳(くわしからず)、併(ならびに)、方(まさに)、不審(つまびらかならず)、仍而(よって)、太(はなはだ)、此(かかる)、遽(にわか)・・・・・・に等々数えあげれば際限ないが、これらの漢文調の文字を、現代の読者に読みやすくする配慮から、かなまじり文になおし、あるいは新かなづかいにそって、おくりがなを付したり、句読点を付すなどした。また大将がメモ用紙に、同じ日付のページを挿入してある文章を、注記しないで日誌の中に加えた(二ヶ所)り、日記一枚分が脱落したりといった不備ないし字句の取扱いに粗漏のあったことは認める。しかしそれは校訂のあやまりであって、松井大将の真意をいささかも曲げたものでないことはもちろんである。
 しかるに朝日新聞はこの点をとらえ、六十年十一月二十四日、五日の二日間にわたり総合社会面トップで私を非難する記事を掲げた。白ヌキ見出し、十段カコミという派手な扱いで、「『南京虐殺』資料を改ざん/900ヵ所原文とズレ」と題し、さらに翌日は「『南京虐殺』ひたすら隠す/田中氏の松井大将の日誌改ざん」と題して大々的に私を誹謗した。
 前日、拙宅に「朝日」の記者が来訪し、コメントをもとめられたが、私は「改ざんの覚えはない、どこがどうズレているのか、調べるまで発表を待ってほしい」と言ったが、しかしその翌日前述の記事となり、しかも私が言いもしない「申訳ない」という詫び言まで捏造して、いかにも意図的改ざんを私が認めたかのごとき記事になっておる。全く有無も言わせぬ斬り捨てご免の弾劾記事である。反論も弁解も許さない一方的な断罪である。私はさっそく「朝日」の釈明の一文を投稿した。しかし一顧だにされず没書となった。
 「朝日」という新聞は、本著でも一章をさいてくわしく紹介しているように、終始一貫南京に大虐殺があったとしてキャンペーンを張っている新聞で、そのためにニセ写真まで使い、正体不明の日記まで登場させ、インチキ投書や尻の割れるウソの証言まででかでかに報道している新聞である。私の抗議や反論など取りあげようはずはなかった。数百万部も発行部部数をもつ大新聞が、二日間にわたって理不尽にも私を非難し、その釈明の余地さえ与えないということは、いったい私の人権はどうなるのか。
 
東京裁判から始まった事件
 私は、このことがあって以後、心に固く誓った。いわゆる"南京大虐殺"なるものの実態を徹底的に究明し、朝日新聞をはじめ虐殺派の主張を徹底的に洗いなおし、当時南京で何があったのか、事件の真相は何なのか?これをきわめるための多くの参戦将兵や特派記者やカメラマン等の証言を得、さらに戦闘詳報はじめ諸記録その他の資料等読みなおして、ガッチリした一指もゆびさされない立派な本を書きあげようそう誓った。
 幸にして健康も回復したので、満々たる闘士をもってこの事業に立ち向うことができた。
 教科書には「当時日本は国際的非難もあびた」とか「世界の非難をあびた」とある。これを調べるため私は外務省資料館や国会図書館に通い、当時そのような事実があったか否か徹底的に調べてみた。当時<昭和十二年末から十三年一〜二月>世界の世論を代表するニューヨークタイムズやロンドンタイムズ、あるいは米の著名な週刊誌タイムやサンデー・エキスプレス等を全部調べ、南京事件はドイツのナチスによるユダヤ人六百万の大虐殺や広島・長崎に投下された原爆にも匹敵する人類史上稀にみる大虐殺事件だと言われているが、当時そのような記事はどこにもなく、社説にも取り上げられていないことがわかった。
 「ナンキン大虐殺」として小学校の教科書にまでのるようになったが、いったい日本の小・中・高校の教科書にこの事件がいつからどのような形でのるようになったか?これを調べるため私は教科書図書館に何日も通った。結局教科書に初めてのるようになったのは五十年以降のことで、ことに宮沢官房長官の中・韓両国政府の抗議に屈伏して以後、全教科書に<小学校の教科書まで>七〜八万、十万、二十万、三十万といった数字まで記載するようになったことがわかった。
 私が面接した南京入城者の数は、前後合せて百人以上を超える。これらの方々の異口同音の声は「南京に大虐殺事件があったなどと言うことを初めて知ったのは、東京裁判においてである。もちろん虐殺している場面も見てもいないし、だいいち城内にはほとんど屍体などなかった」という回答である。これらの貴重な証言も今度の本にできるだけ収録した。
 結局、南京事件東京裁判からはじまった事件なのである。それまでにはなかった事件なのである---ということがわかってきた。
 
◇信念と自信と希望
 また私は、あの浩瀚東京裁判の記録も読みなおしてみた。当時南京市民のほとんど全部が避難していた「難民区」は、一件の火災もなく砲撃撃もうけず、全員無事安泰、日本軍はこの難民区に米や肉類を補給し、ここを管理していた第三国人から感謝の手紙や日記まで提示されていることがわかった。ということは、婦女子や市民の虐殺など全くなかったということである。
 私は今年七十六歳である。このエネルギーや情熱はどこから生れるのか。私自身おどろいている次第であるが、それはアメリカのサミュエル・ウルマンの「青春」という詩を私は坐右の銘としてこれを掲げ、自らの心の在り方を日夜反省しているが、まさにこの詩文の通りであると思う。 
 人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
 人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
 希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる
 
 信念と自信と希望−この三つが今日の私を支え、この本を書かしめたと言っても決して過言ではなかろう。

◇"虐殺派"の出版続々出る
 朝日新聞は、私を二日間にわたって誹謗したのち、すなわち六十一年一月、大虐殺派のリーダー格の洞富雄氏の『南京大虐殺の証明』という本を出版した。この本は私を筆頭に板倉由明、畝本正己、渡部昇一山本七平、畠中秀夫、阿羅健一の七名の名を裏表紙に大きく掲げ、それらの所論を反駁し、批判したものである。とくにこの本の七○〜八○パーセントは前掲の私の著書や「文藝春秋」、「諸君!」等に掲載した私の諸論文の批判に終始している。さらに洞氏のこの本と前後して、一橋大の藤原彰氏が岩波ブックレットから『南京大虐殺』という本を出版し、その弟子の吉田裕氏が『天皇の軍隊と南京事件』を青木書店から出版した。いうまでもなく、この二著も洞氏同様、中共の政治宣伝通り、南京に三十数万の大虐殺があったことを一所懸命に書きつらねている本である。さらに続いて拓大の秦郁彦氏が中央公論社から「南京事件=『虐殺の構造』」という本を出した。秦氏は中間派と自称し、被殺害者数を四万と推測しているが、洞氏同様に、東京裁判史観を展開して、殊に松井石根大将に対するいわれなき誹謗讒言のかぎりをつくし、日本軍の残忍性をひたすら綴っている。
 これも私にとっては反面教師で、これら四氏の偏見や歴史の歪曲を徹底的に批判し、反論することができた。また先年(五十八年)出版された中共部の公的発表と称する南京市文史資料研究会編の『証言・南京大虐殺』にもられた白髪三千丈式の大でたらめの被害者の証言も徹底的に批判し、各部隊の戦闘詳報や、当時の一級資料をふまえて、しかも新しく発掘した資料や証言を駆使して、南京事件の真相に迫った。
 だいたい占領当時の南京の人口は十五〜二十万。ここを守備した中国兵四〜五万という記録が難民区を管理した「南京安全区国際委員会」の記録はじめ諸記録の中にはっきり出ている。その人々が虐殺によって急減したのではなく、反対に急増しているのである。占領四日目ころから治安は回復し、附近に避難していた難民が続々帰ってきているのである。治安の回復した都市でどうして"大虐殺"などあり得よう。
 
◇中国側の記録にもない
 日本と戦った当の相手は蒋介石の国民党軍であるが、その最高責任者である何應欽将軍の戦闘状況はもとより、戦死傷者の数まで明記した詳細な「軍事報告」の中にも、南京で大虐殺があったなどということはその片鱗さえも窺うことはできない。現在の北京政府、つまり中国共産党および共産軍の記録の中にも出て来ない。日本が負けて東京裁判がはじまってから、はじめて中国はいろいろな資料−たとえば死体埋葬一覧表などを急造して提出し、被害者と称する人物の中国一流の誇大宣伝や「屍体は累々として山をなし、流血は二条の河となって膝に没する程なり」といった文学的作文まで東京裁判に提出し、またそのように証言せしめた。東京裁判には日本軍の悪口に関するかぎり「偽証罪」というものがなかった。もちろん検証もなかった。これらのウソ八百の証言や記録を全部採択して、虐殺者二十万(松井大将の個人判決の場合は十万)だと言って裁いのが東京裁判である。
 占領中第三国人十五人によって南京安全区(難民区)は管理されていたが、それによると日本軍による被殺害者は四十九人と記録されている。その中の一人、金陵大学の社会科のスミス教授が、十三年の三月から四月にかけて約一ヶ月間大勢の学生を動員して「戦争被害調査」を実施している。二人一組となって五○戸に一戸の割合で、城外近郊部落まで含め、抽出調査を実施している。その結果、日本軍による殺害者数は二千四百人となっている。戦争直後のベテラン教授による戸別訪問調査にしてからがこの状況である。
 
◇目撃者のいない"大虐殺"
 それから三月ほどたった十三年の夏、上海駐在の腕ききの外国通信社や新聞記者十四、五名が飛行機をチャーターして南京の戦線視察にやって来る。彼ら外人記者クラブの樹てた計画に従い、報道官の説明を受けながら紫金山、両花台、下関、江東門、仙鶴門鎮等のいわゆる大虐殺のあったと称される地域も視察するのであるが、一行とともに巡察した当時同盟特派員の小山丈夫氏(元ドラゴン会長東京都品川区在住)によると、この一行の間から虐殺事件に関する片言隻句の質問すら聞かなかったと言う。小山氏自身「東京裁判で初めてこの事件を知った」組なのである。
 実はかく申す私も、十三年八月南京に足を踏みいれ、南京の治安状況その他について調査しているのだ。松井軍司令官の退役後会長となった「大亜細亜協会」の編集部に勤務していた私は、従軍記者として、大将から紹介状を頂き、兵站の将校宿舎に宿泊して南京およびその近郊を約一ヶ月間視て廻っている。もし二十万、三十万の大虐殺があったとするなら、いかに厳しい言論統制や箝口令を布こうと、必ずや噂話やそれなりの流言蜚語があるはずである。だいいち二〜三十万からの人間の屍骸は一週間や二週間で片付くものではない。その屍臭は街を覆い一と月や二た月で消え去るものではない。
 入城した数万の日本軍の将兵、百二十余名の新聞記者やカメラマン、そのほか前後して入城した大宅壮一、西城八十、草野心平木村毅林芙美子石川達三といった高名な作家や詩人がいる。これらのうち誰一人としてこの様なな酸鼻修羅の光景を見た者はいないのである。
 こうしたことを知れば知るほど、私のこの著書に対する情熱はかき立てられ、ファイルは限りなき燃焼を続けた。真に"自信"と"信念"と"希望"がこのファイトを青を我にもたらしたものと言ってよかろう。
 この書は足かけ三年をかけて生み落した雪辱の所産である。と同時に本年は南京事件から五十年の節目の年である。今こそ歴史の真実を究明し、当時南京であったかを克明に追及して事実を明らかにすることが、真の日中の友好親善のためであると確信し、この著を上梓した次第である。大方のご賛同とご愛読を得ば幸甚である。
(発行所 謙光社=東京都豊島区要町一ノ五一 電話○三(●五七)六七八九番定価一、八○○円 〒300円)

 

*1:見つけしだい追記予定

*2:再発版や文庫版では掲載されず