松井日誌発掘から出版まで


松井日誌の発掘から、書籍出版、捏造発覚の時系列は大雑把に以下のようになっている。

1982年5月or11月 田中氏が松井日誌の存在を知る・発掘
 
1983年8月 田中氏『諸君』1983年9月に「"南京虐殺"・松井石根の陣中日誌」を発表
 
1984年6月 『"南京虐殺"の虚構』出版
 
1985年5月 『松井石根大将の陣中日誌』出版
 
1985年11月 下記のメディアで捏造発覚
   『歴史と人物』(冬号)で板倉氏による告発
    朝日新聞朝刊で報道 (24日、25日)

 
時系列でも記してますが、日誌を発掘した時期に関し田中氏は二種類の説明しております。*1
以下引用文、強調は太字。
最初に『諸君』1983年9月号「"南京虐殺"・松井石根の陣中日誌 *2」における説明。

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 まず最初に、私がこれらの文献をどうして手に入れたかについて説明したい。
 毎年五月十八日は、熱海市伊豆山にある「興亜観音」の例祭日である。私は昨年ここにお詣りした。
 この興亜観音というのは、松井大将が中国から帰還して、自分の部下将兵二万一千三百余の英霊と、この戦いの犠牲となった多くの中国軍民の霊を祀るため、わざわざ南京や大場鎮の血に染った激戦地より土を取りよせ、瀬戸市の陶工加藤春二(のち人間国宝)に観音像を創らせ、これを本尊として祭祀した観音堂である。その他小倉右一郎、芝山法風共作の高さ一丈の興亜観音露仏像が祀られている。(昭和十五年建立)
 大将は観音堂の麓に居を定め、「無畏庵」と号し、鳴沢山の中腹にあるこのお堂までの山道を毎朝、毎夕登り、観音経をあげて、日中両民族の霊を慰め、興亜を祈念するといった只管読経三昧の生活に入った。
 大将によれば、日支両国民が払ったこの多くの犠牲は、アジア復興のための犠牲である、やがて西欧の帝国主義に抑圧されたアジア諸民族は解放され、日中は協和親睦し、大東亜復興の日が来るに違いない。この度の日支両民族の犠牲は、その為の礎石であり、守護霊である---大将は『興亜観音縁起録』にそう書いている。
 レーリング夫妻も参拝
 東京裁判で処刑された松井大将や東條大将を含む七人は、横浜市の久保山火葬場で火葬に付されたが、その遺骨は占領軍に持ち去られ、遺族には渡らなかった。三文字正平弁護士(小磯被告担当)と興禅寺住職市川師と飛田火災場長の三人の生命がけの苦心により、深夜秘かに残骨灰が採取された。
 そしてこれを、興亜観音の『七士之碑』の下に隠した。七人の遺骨は今なおここに埋葬されている。
 七士之碑というのは後年吉田首相の筆になる七人の慰霊碑のことである。さらに近くにBC級処刑者一○六八人の慰霊碑も建立されている。この観音堂はインド代表判事パール判事も、さきごろ来日されたオランダ代表判事レーリング夫妻も参拝し、堂守の伊丹妙真尼を感泣させた。
 私はこの観音堂の例祭に出席した。その時同席した大将の養女松井久江さん(堺市鳳西町在住)から前述の大将の日誌が御殿場の板妻自衛隊に保管されているということをきいた。
 早速私は板妻に飛んだ。一冊の陣中日誌と四冊の獄中日誌は、自衛隊バラック建のカビ臭い倉庫の中に埃をかぶって眠っていた。まさしく見慣れた大将の文字である。鉛筆で、ペンで、あるいは筆墨で、質の悪いやや小型の仙花紙の日記帳にビッシリと達筆で書き込まれていた。私は震えるような感動を覚え、祈る気持で、一頁一頁を繰った。
 大将直筆の文献は、やはり久江さんの紹介で当時の自衛官であった高田昇氏(三島市つづじヶ丘団地)が保管していることがわかった。高田氏は松井家と板妻自衛隊の間をあっせんした人で、現在同自衛隊資料館には大将の軍服、勲章、軍刀天皇・皇后からのご下賜品等が陳列されている。
 高田氏が保管していた資料は次の通りである。
支那事変日誌抜粋』(昭和二十年十二月記)
『我等の興亜理念并に其の運動の回顧』(昭和二十一年一月記)
『検事の取調べの要旨』(昭和二十一年三月七日−四月五日)
『起訴状に対する意見』(同年五月記)
『キーナン主席検事の冒頭陳述に対する意見』(同年六月十五日記)
南京虐殺・暴行に関する検事側証言に対する抗議』(同年八月十二日)
『宣誓口供書=松井石根草稿』(法廷第三四九八号)
 ついでながら昭和十二年の『陣中日誌』は、同年十一月一日から南京攻略戦のいわゆる「南京大虐殺事件」なるものをはさんで、その翌年の二月帰還命令が出、参謀総長並に天皇に復命して、大森の自宅に帰った二月二十八日までの日誌で、一日も欠かさず記載されている。
『獄中日誌』は、大将が巣鴨に入獄する前日の昭和二十一年三月五日からはじまり、六月十五日迄が第一巻、六月十五日から十月十四日までが第二巻、十月十五日から翌二十二年の四月十日までが第三巻、四月十一日以降の第四巻−−の四冊である。その外に便箋に書いた日誌があるが、それは昭和二十三年四月十六日から同年十一月十二日の「絞首刑」を宣告されるまでの日誌と、大将が死刑の宣告を受けたのち文子夫人に遺書としてしたためた獄中第百三十八信とである。
 この最後の便箋日誌と遺書は、文子夫人存命中に筆者が借りうけ、「日本週報」に発表したことがある。(昭和三十二年二月二十五日号=三九八号)
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少し冗長な文章ですが、これを読む限り、1983年の前年である1982年に行われた興亜観音の例祭日(5月18日)に、松井大将の養女から存在を知り、すぐに発掘したと述べております。
次に『松井石根大将の陣中日誌』*3における説明。

 『陣中日誌』発掘
 松井石根が処刑されてから三十四年を経た昭和五十七年の十一月、私は松井の養女松井久江さん(大阪府堺市在住)から、大将の恩賜の銀時計、恩賜の軍刀や勲章をはじめ、中支派遣軍司令官のとき天皇、皇后から拝領したご下賜品や軍服、胸像のたぐいいっさいが、静岡県御殿場市自衛隊第三十七連隊(板妻駐屯部隊)に保管されていることをきいた。私は直感的に、もしやその中に大将の日記類や手記などがありはしないかと思い、そのことを尋ねたところ、記憶はさだかではないが、あるかもしれないという返事であった。
 私はすぐさま御殿場にとんだ。中才部隊長(一佐)はこころよく私の申し出に応じて、大将の遺品類を所蔵してある倉庫保管係りの小林秀次曹長に命じ、私を案内させた。倉庫といってもバラック建の物置である。
 板妻駐屯部隊は翌五十八年、立派な「資料館」を新築し、松井大将の遺品は、同連隊出身の日露戦争における軍神橘大隊長の胸像や遺品と共に、今では大きなガラスケースの中に保存されている。しかし当時は薄暗いバラック建ての物置であった。その物置の木箱の底に、松井大将の日記五冊が、ホコリをかぶって眠っていた。私は緊張にわななくような思いで、そのいちばん上の一冊を手にした。正しく見覚えのある松井大将の筆跡である。博文館のA5版の平凡な市販の日記帳であるが、その最初にページには『陣中日誌』とある。次のページには「昭和十二年十一月一日」とあり、「周宅に軍司令部移転」という書き出しからはじまっていた。この陣中日誌は、十一月一日からはじまって、南京攻略を終えた大将が、内地に帰還し、天皇に復命したのち、参謀本部に行き、陸軍大臣、同次官立会の下に閑院宮参謀総長殿下に出征以来の状況を報告した翌年二月二十八日まで、ほとんど一日の休みもなく、びっしり書き込んである。これこそ南京問題に関する「未公開の第一級史料」である。私の胸は早鐘のように鳴った。そこに松井大将の亡霊が現れたような幻覚さえ覚えた。

ここでは例祭日の話は出てこず、単に1982年の11月に養女の方から話を聞き、すぐに発掘したと述べております。
養女の方から聞き板妻駐屯地で発掘した経緯は一緒ですが、養女の方から聞いた時期が5月と11月と半年もの差が生じています。前者は単に、興亜観音の話をしたくて、適当にでっち上げたのかな?とも思いますが、少なくとも『松井石根大将の陣中日誌』が出版される1985年5月までは、約2年半以上の期間があったということが確認できます。
また「見慣れた」「見覚えのある」と松井大将の文字を評していることも注目すべきポイントです。
 

*1:あくまで私が見つけた中で二種類です。

*2:P65〜66

*3:P35〜36