田中氏が語る「うっかりミス」の原因

 
前述の発掘から出版までの経緯を踏まえた上で、田中氏が説明する「うっかりミス」の原因を見ていきたい。

朝日新聞 1985年(昭和60年)11月24日 3面
うっかりミスで意図的でない
 
松井石根大将陣中日誌」の編者・田中正明氏の話
 
日誌の原本は、一昨年大将の養女からその存在を聞き、承諾を得て判読作業に入った。半年後に判読を終えたころ体調を崩して入院、校正を病院で続けた。五月に予定した松井大将をしのぶ会の開催に間に合わせようという出版社の要望もあり、かなり急いだ。違いが九百ヵ所とは驚きだ。
 
 加筆したのは、東京裁判へ向けて松井大将が日記とは別なメモをつけており、この日付で日誌を追加した。そのむね注をつければよかったが気づかなかった。削除したのはうっかりだし、原文にない言葉が入ってしまったのは記憶にない。言い逃れになるかもしれないが、体調などの悪条件が重なりミスしたもので、決して虐殺を虚構だという自分の主張に合わせて加筆や削除したのではない。申し訳ない。

『民族と政治』1987年5月号 P22〜27
 『南京事件の総括』を書き終えて  田中正明
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 私はその翌年、『松井石根大将の陣中日誌』という著書を芙蓉書房から上梓した。この著作から校正にいたるまでの間私は二回入院した。すなわち一回は前立腺手術で立川の共済病院へ、二回は胆嚢摘出手術で虎の門病院へ、病魔と闘いながら、七転八倒の苦痛に耐えながらの作業で、最後の校正などは、看護婦の目を盗んで消灯後毛布をかぶって、原稿との引き合せもせず、読むだけの杜撰なものであった。五月十八日が松井大将が発願した興亜観音の例大祭であり、この日大将の遺徳を敬迎する人びとによって結成された「孤峯会」の創立総会があり、拙著をこの会までにどうあっても間に合せ度いという要望に応えるためこの様な無理をかさねたのであった。
 著書は辛うじてこの祭典に間に合ったが、残念ながら内容の不備はまぬがれなかった。
 なにぶんにも兵馬倥偬の間に走り書きされた日記で、しかも大将独特の難解な草書体で、読みとることのできない不明な個所が多く、その中の一字を判読するのに、三時間も四時間も要し、それでもなお読みとることができなかった例がいく箇所もあった。
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出版までの間に2回入院し、そのため5月18日の催しに間に合わせる為に杜撰な校正になってしまったこと。また松井大将の文字が難解で判読に時間がかかったことを原因としてあげています。
しかし朝日新聞へのコメントでは、書籍出版(or改竄発覚)の一昨年(83年)に養女の方から日誌の存在を聞いたことになっている。これは1982年に発掘したという以前の説明と矛盾します。また、文字の判読に関しても、見慣れていたとする以前の説明とは違和感を感じさせます。