続・田中正明の反論

 
「田中正明の反論」の続き
 ・松井石根大将日誌改竄問題
 ・朝日新聞の報道(1985年11月24、25日)

世界日報 1985年(昭和60年)12月30日 8面
「松井大将日誌」は南京虐殺と無関係
「抜萃」の原資料が違う
 
朝日の非難に反論する
 
朝日新聞田中正明著『松井石根大将の陣中日誌』に改ざんの疑いあり、と報道した。朝日の狙いは、田中氏は「南京大虐殺かくし」を企画したと決めつけることによって、南京攻略戦による二、三十万人もの大虐殺があったとする自説にあくまで固執するところにある。そこで田中正明氏の反論を掲載する。
 
証言段階で手直しした形跡
 
虐殺事件どこもでてこない
 朝日新聞は二日間にわたって私の編著した「松井石根大将の陣中日誌」(芙蓉書房出版)を改ざんがあるとしてたたいた。十一月二十四日には三面トップ見出しで、「『南京虐殺』史料に改ざん/900ヵ所原文とズレ」と報道し、翌日の二十五日には本田勝一編集委員の署名入りで「"南京虐殺"ひたすら隠す/戦後資料にも"創作"上海と南京をすりかえ」といったあくどい見出しで私を非難した。
 まず九百ヵ所も原文とズレがあるというがこれを冷静に点検してみると、不鮮(すくなからず)、如此(かくのごとき)、不詳(くわしからず)、併(ならびに)、方(まさに)、不審(つまびらかならず)、仍而(よって)、太(はなはだ)、此(かかる)、遽(にわか)・・・・・・等々数えあげれば際限ないが、これらの漢文調の文字がいっぱい出てくる。これを現代の読者、ことに青年にそのまま示したのでは読みくだすことができないという配慮からかなまじり文に直した。
 また「已む(や)むなし」「已まず」「已む」「已(のみ)」「已(すで)に」の已が全部「巳」に誤植されていること、それから私ではどうしても読みとることのできない不明の個所が多く、実はその一部を判読するのに二時間も三時間もかかり、それでもなお読み切ることができなかった例がいくらもある。それと誤読および校正ミス、明らかに大将の誤記の修正といったものがかなりある。以上述べたような個所がそのほとんどであることをご理解頂きたい。ただこれらのことを断り書きか注書きすべきであったが、一級資料だけにそれをしなかったことは誤りであり、責められてもやむを得ないと思う。
 だが、はっきり申しあげたいことは、私は松井大将日記をあれこれ改ざんして「南京虐殺ひたすら隠し」をしようなどという気もちで作為的に手を加えたり省略したりした覚えはまったくないということである。だいいち重大な改ざんだと称する個所を全部寄せ集めても、虐殺事件はどこにも出てこない。つまり虐殺と日誌とは全く無関係だということである。
 しかるに本多記者は「自分の"創作"した文を勝手に加えたりしてひたすら虐殺の事実をかくすための工作につとめている」という。本来日記には何もふれられていない「大虐殺」があたかも実在し、それを私がかくしたのだとプロパガンダしているのである。これこそとんでもない誣妄(ふもう)であり、為にする曲筆といわざるを得ない。
 
大将の真意をそのまま描写
 
 私が加筆したと称される所は二個所ある。十二月二十三日と一月十日でいずれも外国通信員との記者会見の記述である。これは松井大将が伊藤清弁護士に与えた「伊藤清弁護士への覚書」の中に日付まで入れて明記しているのでこれを同日付に加筆したものである。
 さらに本多氏は大将の「支那事変日誌抜萃」にもない次の文章があるのはおかしいと指摘しているが、これも大将の「伊藤清弁護士への覚書【日誌より抽出】」として「日誌抜萃」の中にペラでメモ風に挿入してあったのでこれを用いたものである。
 「終戦暫くして、南京に於て一般人、俘虜、婦女子等に対し、組織的な大規模の虐殺、暴行事件がありたるや米国内で放送しありとの情報を聞き、予は驚き、旧部下をして調査せしめたるも左様な噂は全く虚妄にして予の在任中は固より帰還終戦に至る迄斯くの如き報告及情報に接せず、上海に於る列国新聞通信員との屡次に亙る会見に於ても之を耳にせず、全く誣妄なることを附言す。」(「諸君!」一九八三年九月および拙著「"南京虐殺"の虚構」日本教文社)
 この一項はよほど大将が強調したかったとみえて、松井石根宣誓、口供書の中にもこの文章の内容そのままが繰り返されており、また起訴状に対する意見の中にも「予が虐殺事件なるものを初めて耳にしたるは、終戦後米国側の放送なり、予はこのことを聞きたるをもって当時の旧部下をして其真否を調査せしめた」とある。
 このように注意不足や資料処理において誤りはあったかもしれないが、私は決して松井大将の意思の理解において寸毫(ごう)も誤ったおらず、大将の真意そのままを忠実に描写しあものと固く信じている。
 
記憶違いなどで補正を加える
 最後に同氏が調べたと称する松井大将の「支那事変日誌抜萃」はタイプ印書されたものであり、私が保管しているのは大将直筆のペン書きで、同じ原資料といえど幾種類もあるということを申しあげたい。
 大将に逮捕状が出たのは昭和二十年十月十九日であるが、大将は病気中であり、巣鴨に入獄したのは翌年三月五日である。「抜萃」は大将が自宅療養中の十二月に執筆したもの。入獄して間もなく、すなわち三月十四日にこの「抜萃」が検察側の手によって五十部タイプされた。その一部が外務省資料館にあるものである。
 大将が証言台に立ったのは、二十二年十一月二十四日である。いうまでもなくそれまでマタイス、伊藤の両弁護人との綿密な打ち合わせがなされ、万遺漏なきを期した。大将の記憶違いや誤解、補足などが行われ、当然ながら原本にそれなりの補正が加えられたものと推定される。
 証言台で検事の反対尋問に間違いなく回答するため「抜萃」の最終ページに細かい字で月日と事柄を列記したメモを作っている。その最初にあるのが十二月二十三日の倫敦タイムズのフレーザーと紐育タイムズのアベンドとの会見である。ついで十一月三十日と、一月十日の記者会見をメモしている。この二回の記者会見をメモしている。この二回の記者会見が日記にないため大将は前記したように伊藤氏に「覚書」を示したものと思う。
 大将がなぜ記者会見、ことにアベンド氏との会見にこだわるかというと、最初の検事の取り調べを受けた時、大将はアベンド氏(当時彼は在上海外国記者団のボス的存在であった)を買収して情報操作を行ったのではないかと疑われ、執拗(よう)にこのことを追求されていたからである。案の定この日反対尋問に立ったノーランド検察官は松井に「十三年一月アベンドとの会見」模様について追求し、情報操作ではないかと疑う。
 これに対し伊藤弁護士も「一九三八年一月 松井が新聞記者アベンド氏に会見を求めたことは(略)中国人の口から面白半分に伝えられる風聞に対して松井が知っている限りの事実報告を彼に提供せんとしたのみで他意はない」と弁護し、松井も同趣旨の回答をしている。「抜萃」で十一月十日記者会見とあるのを一月十日に修正してあるのも、上海の治安と南京の治安がおきかえられているのも、このような経緯と背景があってのことと推察される。(大将の日記を見ても十一月十日は記者会見はしておらず、大将の勘違いであったことがわかる)
 これは一例であるが、このように証言段階で伊藤弁護士と協議の上各所に手直しした形跡があり、この修正された原本と外務省資料館にあるタイプ印書と相違するからといって改ざんであると非難されるのは心外である。
 いずれにせよ巷間(こうかん)に伝えられるごとき南京二十万人も三十万人もの大虐殺があったとする俗論は歴史の真実をゆがめる全くの虚妄である。ことにこの虚妄を教科書にまで記述し次代を担う小国民にかかる自虐的な、祖国嫌悪の教育を施しつつあることは何としても許し難い民族の恥辱である。このありもせぬ大虐殺をでっちあげる魂胆から松井大将日記の弱点を突いてきたものと思われるが、幾度もいうように大将の日記と虐殺とは何ら関係なく、むしろ俗論一掃を立証するものといえよう。
 私は今後ともこの歴史的虚構一掃のため不退転の決意で一層の努力を重ねたいと思っている。すでに虐殺虚構の第二弾として「南京事件の総括」(仮題)を脱稿し、近く刊行を予定している。大方のご支援とご理解をお願いする次第である。