笠原十九司×楊大慶

 
月刊『論座』2008年1月号に掲載された対談
 
笠原十九司(かさはら・とくし) 1944年、群馬県生まれ。東京教育大学大学院修士課程中退。中国近現代史専攻。著書に『アジアの中の日本軍』『南京難民区の百日』『南京事件』、共編著『現代歴史学南京事件』など。近刊に『南京事件論争史』。
 
楊大慶(Yang Daquing:ヤン・ダーチン) 1964年、中国・南京生まれ。ハワイ大学シカゴ大学修士課程。ハーバード大学で博士課程終了。歴史学専攻。共編著に『国境を越える歴史認識』。論文に「歴史家への挑戦『南京アトロシティ』研究をめぐって」など。
 

「世界史の中の南京事件
 
笠原
 南京大虐殺事件、私どもは略称として南京事件と言いますが、なぜそう呼ぶのか。英語では「Nanjing Massacre」と言い、中国語では「南京大屠殺」ですが、そう言うと「殺した、殺された」という殺害の問題だけに論点が絞られ、かつ議論が数の問題にいってしまう。日本軍の南京占領前後に起きたさまざまな事件、レイプ、略奪、放火、拉致、最も大きいのは中国人の生活破壊が後々まで尾を引いたという、戦争犯罪の総合性、深刻性が見えなくなってしまうので事件と言い、略称を南京事件と言っているわけです。
 南京事件東京裁判で取り上げられ、元・中支那方面軍司令官の松井石根、元首相の広田弘毅が不作為の罪で(広田は「平和に対する罪」もあるわけですが)死刑となった。南京事件に関する判決も出て、日本はサンフランシスコ平和条約第11条で、その判決を受諾したのです。
 その後は中国でも日本でも問題にされない時期が続いた。1970年代に冷戦構造が少し変動してきた中で、朝日新聞本多勝一記者が中国を訪ね、被害者の側から日本軍の加害行為を明らかにする視点に立ってインタビューを行い、「中国の旅」を71年に連載し、72年に本を出した。南京大虐殺を全面的に取り上げたのではなくて、16章あるうちの1章だった。
 だが、百人斬りがあったと聞いたという被害者の話を紹介したところ、その問題だけを取り上げたノンフィクション作家の鈴木明氏が『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋、73年)で、南京の軍事裁判で処刑された4人の日本人将校は冤罪だったと書き、百人斬りが事実化どうかをめぐる論争が始まりました。
 今から見ると、それは本質をずらす役割をした。本多記者は中国の被害者の証言を紹介したのに、百人斬りの話から、被害者は日本の将校にすり替えられてしまった。あた、このときの特徴は虐殺に否定的な論客が、学者でなかったこと。評論家の山本七平氏や田中正明氏です。
 

 実は70年代以前にも、日本人の作家や研究者が南京事件について書いていたが、論争までいかなかった。例えば50年代の始めごろ、堀田善衛氏の「時間」という作品があった。三島由紀夫氏を短編小説「牡丹」(55年)を書いたし、早稲田大学教授の洞富雄氏が67年に著書『近代戦史の謎』(人物往来社)に1章を割いており、本格的な研究は始まっていたわけです。70年代初めに論争が始まったのは、日中国交正常化とか、何か政治的な雰囲気があったからではないでしょうか。
 
笠原
 そうですね。その後、家永三郎先生の教科書『新日本史』の南京大虐殺の記述が、検定で不合格にされた。それを契機に家永先生は第3次訴訟を84年に起こす。それと82年の教科書問題です。侵略性を弱めた記述になったと、韓国の中国から批判が出た。南京虐殺も問題になり、とくに中国は危機意識を募らせ、日本が否定するならば中国は後世に伝えようと「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記紀念館(南京大虐殺記念館)」が85年にできる。
 日本では84年に南京事件調査研究会ができます。歴史研究者や弁護士やジャーナリストに市民も加わり、私もそのメンバーですが、活発な資料収集と資料集の発行と、歴史書の出版が続いた。
 
論争の中で出始めた新資料
 

 論争の影響で新しい資料が出てきましたね。東京裁判や裁判の時点では、日本側の一次資料がほとんどなかった。80年代以降、アメリカ人宣教師らの記録や、ドイツ側の資料も出てくる。
 
笠原
 歴史事実としてあったかどうか証明しようという点で、ある意味で生産的な論争であったと思う。歴史学者秦郁彦氏は86年の『南京事件』(中公新書)で、4万人だが、虐殺はあったと明らかにした。80年代後半から90年代前半にかけて急速に資料が収集され、歴史事実の解明が進んだ。家永教科書裁判でも最高裁で事実認定されました。
 また、95年の戦後50年を機に、侵略や加害の問題に決着をつけようという政府・財界の動きと、自民党単独政権の崩壊が重なった、加害の問題が積極的に報じられた。歴史書もずいぶん出ました。この中で大きいのは、陸軍士官学校卒業生の組織である偕行社が『南京戦史資料集』(89年)と『南京戦史資料集?』(93年)を出し、公式な部隊記録、上級将校の陣中日記などを公開したことです。これによって南京攻略戦と虐殺の実態がかなり明らかになった。
 97年に私は『南京事件』(岩波新書)を、藤原彰先生は『南京の日本軍』(大月書店)を書きました。教科書の記述も改善され、97年の中学の歴史教科書には20万人とか30万人とか、数もきちんと書かれていました。
 

 私は最近、靖国神社の「偕行文庫」にある文書をみたのですが、一部の軍関係者には「自分の手で軍の名誉を傷つけることにならないか」と抵抗感があった。執筆にあたった編集委員は、一時的に名誉が若干傷ついても、事実を覆い隠して、後世「軍人は信用できない」という汚名を着せられたくない、と書いている。
 
笠原
 自民党の「日本の前途と歴史教育を考える会」南京問題小委員会の「調査検証の総括」(07年6月)では、「『偕行南京戦史』は戦後のイデオロギーが混入している」と資料的価値を否定しています。
 

 先の編集委員には、軍の立場から歴史を書かないと「虐殺肯定派」の論点が定着してしまうから、不法殺害は少数だが認めて「大虐殺とは言えない」という形にする狙いがありました。
 
笠原
 89年の昭和天皇の死もあった。旧軍人が感じていたプレッシャーが、ある面でなくなり、良心に基づいて、自分たちのやったことを言っておかなければいけないと、加害についての証言を始めます。
 その後、非自民の連立政権ができ、93年に細川首相が戦後初めて「侵略行為や植民地支配」に「深い反省とおわび」を表明しました。羽田内閣も村山内閣もそれを受け継いだ。村山内閣は95年に、日本の侵略戦争と植民地支配を反省・謝罪する国会決議の採択を目指しましたが、与党・自民党はそれに反対し、「戦没者への追悼・感謝」の決議を全国の県議会と市議会で採択させました。
 97年には安倍晋三氏が事務局長の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」ができる。さらに「新しい歴史教科書をつくる会」(つくる会)と日本会議の結成によって、日本の戦争を肯定する草の根保守主義の組織化に成功し、自民党も勢力を回復する。
 

 背景に、90年代の経済の不安感が、日本の誇りを失わせてしまったことがありそうですね。「つくる会」などの運動は国民のそういう気持と関係があった。歴史の解釈で日本の犯罪を否定することによって、自信を回復する。また、中国の台頭に対する抵抗感や不安感も関係あると思います。
 
変質した否定キャンペーン
 
笠原
 そういう中で盛んに南京大虐殺否定のキャンペーンが張られたわけですが、その主張は変わってきた。今までは虐殺があったかなかったかだったのが、基本的事実が証明されたために、正面から否定できなくなり、周辺の新たな問題を探して虐殺を否定しようとした。亜細亜大学教授の東中野修道氏は、日時の場所を特定できる南京虐殺の写真が一点もないと言い、立命館大学教授の北村稔氏は、南京大虐殺を最初に世界で報じたジャーナリストのティンパレーは国民党国際宣伝処のスパイだったと言う。
 その論は実はトリックで、ティンパレーが宣伝処の顧問になったのは本を書いた後です。彼は平和主義者で、人道正義の立場から、日本の中国侵略を国際世論に訴えて阻止しようとした。国民党政府は日本の侵略を阻止するために、米英などから支援を得ようと、日本軍の残虐行為を積極的に世界に宣伝しようとしたわけですが、それは当然な行為といえます。
 写真も周辺の問題で、虐殺写真がなくても文献史料や証言によって事実を明らかなのです。それを虐殺写真の証拠はないから(それも、完全に否定できない写真は「検証」から除去しておいて)南京大虐殺も証明できないというトリックを使うわけです。それが詳細を知らない素人には効果がある。
 戦争状態でもないのに、「南京大虐殺は中国やアメリカの情報戦による謀略である」という虐殺否定派の論理は、冷静に考えれば非現実的だとわかるはずですが、政府やメディアに力をもつ否定説の情報量は多い。だから、国会議員も含めて、虐殺はなかったのではないかという思いが広がって、日本の民主主義もちょっと危うい状態にある感じですね。
 

 90年代以降の新しい現象として、「南京虐殺=宣伝」を強調する人の中には歴史学者も入っています。東中野氏や北村稔氏は大学の歴史の先生ですね。
 
笠原
 藤岡信勝氏も東大の先生でした。
 

 彼らを支えるほかの先生もいます。
 あと、彼らは日本側の公文書や関係者の証言は大事にしますが、被害者の証言はあまり信用しません。南京事件だけでなく、慰安婦問題でもその傾向がある。
 
笠原
 それから、論争の核心部分で負けると、論点をずらすわけですね。例えば捕虜や投降兵、敗残兵の殺害や便衣兵の問題について、虐殺否定派は「中国の敗残兵や捕虜の殺害は合法である」という言い方を今まではしていた。それに対して一橋大学教授の吉田裕氏が、「南京事件論争と国際法」という論文を書いて「便衣兵と疑われても、軍事裁判をしないで殺害した場合は違法である」と、戦時国際法に違反している事実を明らかにすると、反論できないので写真の問題などに論点をずらすのです。
 そういうふうに論争を避けながら、新たな周辺の問題を見つけては否定する。そうすると巷では、相変らず論争が続いていると思う。学界は、そういう虐殺否定論の横行を抑制するような、もっと批判的な対応をしてよいのではないか。
 
−−アメリカはどういう状況ですか。
 

 アメリカでは、南京事件の研究者は周辺から核心に迫るのではなくて、虐殺があったことを前提に、簡単な構図を複雑にしていくという傾向がある。歴史研究や事実認定では、定説を修正する必要があることもちゃんと認めています。
 
笠原
 あと、欧米では多くの歴史家が論争に参加する。日本の場合は、東中野氏や北村氏を批判するのは私たちだけで、他の研究者たちは傍観している。
 

 アメリカで南京事件について初めて書かれた単行本は、アイリス・チャンの『レイプ・オブ・南京』(97年)です。被害者に同情する立場で書かれた本と言えますが、彼女は歴史研究者ではない。日本語はできず、中国語もうまくないし、基礎的な知識が足りないので、いろいろ問題がある。でも、それ以前に三項になる研究が少ないから、一時、彼女の本は独走状態でした。
 
笠原
 60万部を越えるベストセラーになりましたね。
 

 少なくとも一般の学生や読者の中で南京事件に対する関心が高まる、一つのきっかけになった。日本の論争もアメリカの学界に影響を与え、90年代末になると本格的な研究が始まりました。
 あとは資料ですね。南京安全区国際委員会委員長のジョン・ラーベの日記が発見され、笠原さんが以前から調べていた宣教師のミニー・ヴォートリンの日記は、07年にアメリカで出版されました。
 
笠原
 日本では翻訳が99年に出ています(『南京事件の日々』大月書店)。
 

 学者や西海岸、アジア系の人たちだけではなく、一般の人たちも今はかなり関心を持っています。例えばAOL社の重役の一人が、アイリス・チャンの本と彼女の死に感動し、自分の金で作ったドキュメンタリー映画アメリカのある映画祭で賞を取りました。07年12月にアメリカで上映されます。
 また、研究はまだ不充分だと思いますが、何人かの研究者が本を書きました。例えばワイオミング大学の山本昌弘氏。最近は記憶の問題として、西ミシガン大学の吉田俊氏が『日米中の戦後における南京事件』を出しました。また、ヨーク大学の若林正氏が、だいぶ前の会議の論文に基づいた本を出しました。『南京アトロシティ 1937-38』副題はComplicating the Pictures(構図を複雑化すること)。基本的に虐殺を否定するものではなく、中国の従来の研究に対しても批判的に見る立場だと思います。
 
笠原
 日本と違うのは、アメリカには研究者がある程度いるでしょう。日本では一般の歴史学者が敬遠してしまうことで、虐殺否定派と、虐殺は事実だという研究者の数は同じぐらいになっている。
 日本はまだ事実を否定しようという人たちとの論争という段階なので、アメリカとはレベルが違う。アメリカのほうが事実を前提に論争できるので、歴史学的には問題関心が上だと思います。
 

 私はアメリカについては笠原さんよりちょっと厳しいんですけど。学界ではそれほど南京事件を扱っていないようです。私は96年に、アジア学会で初めてパネルディスカッションをやりました。吉田俊氏と私とカリフォルニア大学のジョシュア・フォーゲル氏ですが、それだけ。あとは、プリンストン大学の97年のシンポジウムも、ワシントン大学で00年に行われたシンポジウムも学生が中心です。
 
笠原
 でも、日本の歴史学会では全然そういうことをやらない。
 

 一つの理由は、大虐殺派、虐殺否定派、中間派がはっきり設定されているからでしょう。つまり、イデオロギーが先行していて、研究より政治的な色が強い。そういうイメージができているとすれば、学会はどこに参入するか問題です。
 
笠原
 発言する場合はまず自分のイデオロギー的立場を表明する形になる。確かに一般の人たちが参入したくない状況ですね。
 

 大虐殺派と虐殺派(いわゆる中間派)は、本質的に違いはないと思います。虐殺否定派とは本質的に違いますが。
 
笠原
 中間派は「虐殺はなかった」という説を批判するほうが普通だと思いますが、逆に批判の矢はこちらに向いてくる。虐殺否定派に与していわゆる大虐殺派を批判する。本来は秦郁彦氏たちと私たちの説はあまり違わない。違うのは、投降兵、捕虜、敗残兵など中国兵の殺害された状況を虐殺と見るか戦闘の延長とみるかという差なのです。なのに、彼らは否定派に与して私たちを大虐殺派といい、中国に通じていると批判する。
 

 虐殺否定派と大虐殺派を平等に扱うのはおかしい。中間派の立場からこっちもあっちも悪いというのもよくないです。研究面でも道徳の問題としても。
 
−−メディアの責任も大きいと思います。極端な議論でも賛成派と反対派を同じように扱うので、非常識な議論をしていても、同程度のものだと誤解されてしまうのではないでしょうか。
 
笠原
 あと、いわゆる実証主義の伝統ですが、実証研究は政治とは関係ないとか、政治性がないとかいうことが自慢話のようになっています。しかし、それは非現実的ですね。とくにこういうテーマに直面する限り、中立はないですね。
 
実証的になりつつある中国
 
−−中国側の研究はどうなっていますか。
 

 本格的に研究が始まったのは、80年代前半の教科書事件以降で、日本の虐殺否定的な動きに対抗するために発足しました。その意味では政治性が強い。今とは全然レベルが違いますが、80年代にいくつかの資料集を出しました。例えば南京大学の高興祖氏が中心になっていました。90年代後半以降は江蘇省社会科学院歴史研究所の孫宅巍氏が、中国側の一次資料を扱っています。00年以降は世代交代し、南京師範大学に南京大虐殺研究センターができて、活躍しているのは30〜40代の若手研究者です。
 最近の特徴は史料の重視でしょう。05年末、28巻の資料集ができました。重要な仕事だと思います。日本語の史料を中国語に翻訳して出版しているのですが、07年中にあと27冊出版されます。
 
−−一般の人たちの認識はどうですか。
 

 歴史教育記念館や記念活動、マスメディアの影響が強いと思います。それも教科書問題がきっかけです。85年に南京に南京大虐殺記念館がつくられたとき、私は大学3年生でしたけれど、それ以前は南京事件のことをあまり知りませんでした。今、12月13日は南京虐殺記念日で、サイレンや汽笛が一斉に鳴ります。
 教科書でも南京事件がすごく強調されていて、例えば学生に宿題を課しています。南京事件をめぐって、日本の中学生に手紙を書いてくださいとか。また、死者30万人にこだわる傾向が教科書にまだあります。本もたくさん出て、映画も80年代後半から何本か作られました。
 
笠原
 現在、陸川監督が「南京! 南京!」という大がかりな映画を作っていますね。
 

 「シンドラーのリスト」のような映画を作りたいと。でもなかなか難しいのが現実です。ちょっとそういう映画が多すぎて、飽きてきているのではないでしょうか。アメリカの企業家が作った「Nanjing」というドキュメンタリー映画は、欧米人の証言や記録に基づくものですが、中国では07年夏に上映されました。すごくPRしたにもかかわらず、南京以外の都市ではそんなに人気がなかったようだという報道がありました。
 
笠原
 中国の歴史研究者も実証的な研究をしてきて、南京大学の張憲文氏を中心に、さまざまな大学の若い研究者たちが「南京大屠殺史研究会」を作りました。そのメンバーがドイツ、アメリカ、イギリス、日本に滞在して資料を集めています。例えば日本では日本軍の資料を集め、日本軍将兵の心理を分析しています。05年に南京大学で討論会がありましたが、これは日本でもできるぐらい実証的なもので、もう誰も死者30万人なんて言わない。
 でも、彼らが中国のメディアや教育界にどこまで影響力があるのかと言えば、まだまだ小さい。中国には南京大虐殺愛国主義教育の一つ、歴史の教訓として教える政府の立場と、実証的な研究者の立場と二つあって、歴史研究者が政府の見解を変えるほどの力は持っていない。
 日本も我々がこれだけ歴史学的に明らかにしているのに、まだそれがメディアを通して国民の認識になっていないという、同じ状況ではないか。でも、以前と比べると中国も変わってきています。
 

 変わりつつありますね。一般の人と研究者の認識がずれがあるのは、政府の教育のせいもありますが、研究者の実証的な本よりも、一般読者のためのちょっとセンセーショナルな本のほうが人気があるからでしょうね。その意味では、日本と似ているかもしれない。でも、研究の中身も水準も変わりつつある。例えば、昔は南京虐殺の原因は「日本の軍国主義」で終わりでした。今は日本側の心理など、もっと詳しく問題を検討しています。
 
笠原
 私のところにいる留学生が今年、南京で若者にインタビューしたら、今までのように南京虐殺に対して感情的に怒るよりも、こだわらないという反応があると言っていました。むしろそれでいいのではないかと思います。感情的に語るのではなく歴史事実として語ることが、若い世代に出てきているのではないか。
 

 日本の一部の人がアイリス・チャンの本や映画「Nanjing」に対抗する、新しい映画を今作っていますね。すでに日、米、中はある意味で連動している。
 
笠原
 日本で虐殺否定派が活発に活動すると中国側で反発して日本批判を強める、すると日本の否定派がさらに中国批判をエスカレートさせる、という悪循環が続いているのは憂慮すべきことです。お互いが対話できあにで、非難し合っている。
 
20世紀の残虐事件の中で
 
−−歴史上のほかの残虐事件の研究や和解への試みと比較するとどうですか。
 

 20世紀の残虐事件には、論争になる事件も、ならないものもありますね。論争になるもので最大なのはホロコースト。レベルが違う。80年代にはドイツで「歴史家論争」がありました。これは、事実認定よりは解釈の問題です。ホロコーストの最も基本的な原因は何か、世界史の中で唯一の残虐事件かどうかという問題です。だから、南京とはちょっと違う。
 今、アメリカで問題になっているのは、オスマントルコによるアルメニア人の虐殺です。事実認定の問題は他にもたくさんあります。ユーゴ崩壊後の残虐行為も論争があります。しかし、歴史対話や共同研究が始まっているようです。
 考えるべきは、ホロコーストだけではなくて、ヨーロッパにおける第二次世界大戦中のいろいろな出来事ですね。その場合、ドイツが侵略国として残虐行為をしたとまず認めた上で、ドイツ側にも、特に終戦直後の一般ドイツ市民にも被害があったと言う。そういう前提があるからこそ、構図をもっと複雑にしていく議論の可能性が出てくる。
 ホロコーストについても難しい問題はありました。例えば、ドイツの国軍はどこまで残虐行為に参加したのか。やはり事実認定が重要ですが、細かい周辺の問題によって核心を否定することまでは許されなかったのが重要だと思います。
 まだ解明されていないのが、東ヨーロッパにおけるユダヤ人の殺害です。ナチスドイツだけがユダヤ人を殺害したのではなくて、現地の人もかなり参加した。にもかかわらず、今はナショナリズムによって、ナチスに協力した人は、旧ソ連の支配に対抗した民族英雄とも認定され得る。ナショナリズムによって歴史を再解釈するという点では、南京事件の論争と似ている部分がある。ヨーロッパといっても、すべて解決済みとは言えない。
 
笠原
 私たちは今年(07年)、南京事件70周年で連続国際シンポジウムを企画して、アメリカから、イタリア、フランス、ドイツでシンポジウムを開催してきました。そこでは、南京虐殺事件は日本軍を極悪非道な犯罪集団と見るとか日本人を残虐民族と見るとか、虐殺否定派が言っているような次元の議論はなく、第二次大戦期の国家犯罪の一つとして究明していくことの必要性が議論されました。
 イタリアは最終的にはファシズム政権を倒し、連合国側になったから「良きイタリア人」と言われてきましたが、実際にはエチオピアで毒ガスを使っているし、東欧のアルバニアなどでパルチザンを虐殺している。自国が犯した住民虐殺、ジェノサイドの戦争犯罪を明らかにしようという動きがイタリアで出てきている。すると、日本とドイツ、イタリアが同じファシズム国家として、どういう戦争犯罪をやったか、それをどこまで解明し、被害者との対話をしてきたかという問題で比較できる。歴史が一地域の問題というより、世界的に連関していることを実感しています。
 それから、昨日までソウルでのシンポジウムに参加してきて、韓国もずいぶん変わってきたと感じました。韓国は過去の政府による犯罪も含めて真実を究明し、被害者認定しようという、「過去事」を究明する委員会ができて、スタッフが270人いる。その中で、朝鮮戦争における民衆虐殺の事実なども明らかにしつつある。彼らも南京虐殺について、日本が事実にどう向き合うのか関心を持っていました。
 そこで、話題になったのは歴史の連続性です。48年の済州島事件は、住民が共産主義になっていると李承晩政府の軍隊が疑念を抱き、住民とゲリラを区別せずに、焦土化作戦を実施した。その方法は、日本軍の三光作戦のやり方を継承したものでした。731部隊が開発した細菌爆弾はアメリカが朝鮮戦争で使用したし、ベトナム戦争における戦略村の設定も、三光作戦における無住地帯の設定と集団部落の設定のやりかたを継承したものです。戦争におえる住民虐殺として連続性を持っている。
 虐殺否定派が言うような、犯罪民族としての烙印を押す、といった問題ではありません。戦争における民衆の犠牲を繰り返さないために、第二次大戦における戦争犯罪や住民虐殺の実態を解明していくという共通の目的を持って研究を進める段階にきている。そう考えると、日本はまだ閉鎖的だという感を強くしました。
 
国境越える共同研究を
 

 ヨーロッパの研究者の間でも、すべてドイツの侵略と加害ということで決着という構図が少し変わり、例えばフランスの協力者の問題が80年代から出てきた。いい意味での修正主義といいますか。もしドイツの歴史研究者のかなりの部分が、ドイツの侵略と加害を否定したら、周りの国の抵抗感は強くなるでしょう。そういう前提が維持された上で、いい意味での修正主義が、従来の構図を少し複雑にする動きが可能になる。ヨーロッパの研究はアジアの研究にヒントを与えるでしょう。
 また、(西)ドイツ政府は戦後、主な交戦国で歴史研究所をつくりました。最初はフランスで58年。70年代はイギリス、アメリカ、90年代にはポーランド、3年前にはロシア。ドイツと現地の大学院生から教授まで、幅広い交流が進んでいる。政府のイニシアチブでそういう仕事をしている点は、すごく関心します。戦争をめぐる共同研究だけでなくて、あらゆる分野です。国境を越える歴史研究者のコミュニティーをつくるのはとても大事なことです。
 
笠原
 ドイツ政府は共同研究に金を出すが、口は出さず、歴史研究者の主体性を尊重している。日韓・日中共同歴史研究が始まりましたが、日本政府は政府サイドの研究者を委員に選定する傾向がある。
 

 ヨーロッパの場合、ドイツは国内でコンセンサスがあるから問題にならないでしょう。日本では難しいですね。国内事情を考えなければいけない。
 ただ、近年、東アジアでも共同研究の頻度が高くなり、質も上がってきました。80年代初めには国際会議で中国の公的な立場をそのまま紹介するだけでしたが、今はそうではない。史料に基づいて、お互いに批判する方向になっています。
 また、会議をやって終わりではなく、数年かけて成果をまとめ、中国語、日本語、韓国語で出版するという、新しい段階に入っている。研究者のコミュニティーをつくるために、定期的な会合があればいいと思います。私は『国境を越える歴史認識』(東京大学出版会)にまとめられたプロジェクトに参加しました。この本は中国語でも出版されましたが、次は対話を続けることが重要だと思います。今考えているのは、中国と日本の若手研究者で、日中関係史の年報を毎年、中国語と日本語で出すことです。
 
−−南京事件について、日中間でも共同研究が進んでいくでしょうか。
 
笠原
 そう思います。南京で若手研究者が開いたシンポジウムは我々も対話できるものだったし、05年の南京大学のシンポジウムは、日本や欧米の学会と同じようにコメンテーターが付いて活発に討論した。欧米のやり方を中国も取り入れ、変わってきている。日本が南京虐殺研究のタブー視を取り払い、「あった」という事実認識を国民に定着させれば、その後、歴史事実をもとに、どうとらえるかという歴史学的な論争が可能になる。
 ストックホルムの国際平和研究所を訪ねたととき、ドイツとポーランドの歴史対話にかかわってきたポーランド人研究者は、結論を性急に求めるのでなく、対話のプロセスが大事で、それによってお互いの理解が可能になると言いました。
 

 対話が始められる最低条件は、自分が歴史研究者であることを自覚して、参加することでしょう。資料をどう読むか、事実をどう認定するかという問題を中心に建設的な討論や対話をすれば、いい方向にいけると思う。
 
笠原
 歴史研究の交流が進み、共同シンポジウムや学会が頻繁になる中で、一般の人の歴史認識にほとんど反映にほとんど反映しない状況を克服することが、次の課題です。
 

 研究者も、象牙の塔で議論するだけでなくて、大衆にアピールする方法を考えなければならない。テレビのドキュメンタリーや、メディアのインタビューなど、努力が必要です。
 
笠原
 やっぱりマスメディア、特に映像ですね。ドイツの場合は60年代前半までは、ナチスについて国民の認識はほとんど定着していなかったわけですが、アメリカのテレビ映画「ホロコースト」(79年)と、映画「ショアー」(85年)の影響は大きかった。「ホロコースト」はドイツの59%の人が見たといいます。
 日本の場合、NHKが06年と07年、ようやく南京事件について放映しました。それまでは右翼からの圧力や妨害、あるいは自民党政治家からのクレームを恐れていたのです。でも、歴史学者を含めて多くの国民が妨害するほうを批判すれば、メディアも報道できるようになる。07年はさまざまな国で南京関連の映画を10本くらい作っているので、それをどこまで日本で見られるかということも大きい。
 南京事件について外務省のホームページにも事実であったと書かれ、時点や小、中、高の歴史教科書にも書いてある。だから、南京虐殺はなかったという若い人はいない。ただ、残虐な事実があったと思いたくない心情があるので、虐殺否定派の説に傾く人がいる。でも、多くの場合、あったらしいけれども実態が分らないし、あまりにも政治的に激しい論争をやっているように見えるので、嫌気を感じることになる。メディアできちんと伝えることが、多くの国民が認識することにつながっていくと思うのです。
 
歴史学者は誰に何を語るか
 
−−歴史学者が論争に入っていかない傾向がありますね。
 
笠原
 それは歴史学者は誰に何を語るか、という自己の仕事への自覚の問題です。専門家としての力量があるのだから、それをどう社会的に役立てるか。初歩的な事実さえも否定する動きがある中で、自分が歴史学者として知ったことを人々に知らせることが必要だと思う。
 ただ、日本ではそういう人は少なく、非政治的なのが学者のあるべき姿だという風潮がある。しかし、現代史そのものが政治的ですから。政治を研究しながら、非政治的な立場に固執するのは矛盾だと思うのですが、政治や市民運動から一線を画するのが学者であるという意識が根強い。
 

 日本国内では論争になりやすいテーマの場合、第三者と共同研究をし、成果を反映させることが大事です。
 
笠原
 そうですね。日中だけだとそれぞれのナショナリズムが表出してしまうので、第三者を入れると、ナショナリズムを越えた学問的な討論ができると思う。
 

 南京事件は戦争の中の一つの出来事だという面も重視する必要がある。中国はとくにそうだと思いますが、南京事件の位置付けを考えなければいけない。
 私は毎年、南京に戻ると研究者たちと座談会をしますが、彼らはよく人道主義の価値観で南京事件を認識する必要があると言う。それは大事で、共同研究や共通認識の基盤の一つだと思います。
 
笠原
 中国では、日本の高校にあたる高級中学校で「中国近代現代史」という上下2冊の教科書を使って勉強する。中国の歴史教育を暗記式なので、南京虐殺を暗記せよということですが、近現代史をそれだけしっかり教えるわけです。
 韓国も、7割以上の高校生を選択する「韓国現代史」という授業があります。それに対して日本は、近現代史をまったく軽視している。歴史認識、特に現代史の認識は、民主主義を担う国民の教養として非常に大事です。でも日本ではあまり教えない。交流が進み、若者が歴史問題について対話するときに、ギャップがあまりに大きい。
 

 アメリカの話を一言。クリントン政権末期に議会がある法案を作った。アメリカ政府が所有しているナチスの犯罪と関係ある文書はすべて公開すべきだというものです。それと関連して、日本帝国の犯罪に関する文書も公開すべきだと。
 アメリカでは南京事件だけではなくて、旧日本軍の戦争犯罪への関心が近年高まっています。従軍慰安婦に関する決議が議決で採択されたのは、単に一部の中国系や韓国系アメリカ人が活動したからではなく、アメリカの主流の政治家たちの間でも、安倍政権や歴史修正主義に対する警戒が高まっているからです。それは日本もちゃんと認識しておかなければいけないと思います。