NNNドキュメント'08「兵士たちが記録した 南京大虐殺」

 
遅ればせながら拝見しました。
やはり映像の持つ説得力というのはスゴイですね。
特に小野さんの調査活動の一旦*1が窺えたのは非常に貴重でした。
また、こういった放送を契機に、更なる情報提供者が現れることも期待できます。
 
私のブログでも、このドキュメンタリーのベースとなった、
南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』の中から、
南京陥落後の1週間だけを抜粋してにまとめてあります。*2
 南京陥落後一週間企画*3
 
さて次に、偕行社による「証言による「南京戦史」」では、この幕府山の虐殺はどのように記述されていたのかを以下に引用します。

1985年2月号 P8*4
 
▼幕府山捕虜の取扱い
 12月15日、山田支隊が幕府山砲台付近で収容した捕虜については、戦史叢書は次のように述べている。
 「南京占領後の捕虜の処遇は十分とは言いがたい。これは、激戦直後の将兵の敵愾心、捕虜収容設備の不備などによるものであるが、捕虜殺害の数はさほど大ではないようである。」
 第十三師団において多数の捕虜を虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。ところが、半数が逃亡した。
 警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、17日夜、揚子江対岸に釈放しようといて江岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより、捕虜約一、○○○名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下七名が戦死した。
 なお、第十六師団においては、数千名の捕虜を陸軍刑務所跡に収容している。」
(筆者注)
 既刊の『歩兵第六十五聯隊−郷土部隊奮戦記』鈴木明『南京大虐殺まぼろし』を踏まえ参戦者の証言により、その真相を探ってみたい。
 山田旅団長、両角聯隊長の人柄---。戦場指揮とくに捕虜処遇には、指揮官の性格が非常に影響する。山田栴ニ旅団長18期は出征前、陸軍士官学校予科生徒隊長であり、のち仙台幼年校々長となられる教育者であった。
 両角業作聯隊長22期は後年、第三十師団長として、ミンダナオ島で戦い、無事帰国されたが、温厚な文人肌の軍人である。
 収容捕虜の半数逃亡---。非戦闘員を釈放して残った約八千人を、砲台の付属の建物に収容したが、監視も十分にはできないが、幸い砲台地下室に中国軍の食料が残されていたので、彼等に自炊させたが、長期間の給養は不可能である。部隊は近く揚子江北岸に転進しなければならない。旅団長は捕虜の処置に困り、軍司令部の指示を仰いだ。
 ところが、軍司令部は「捕虜はとらない」という意向である。八千人の捕虜をもてあましていたが、15日夜、炊事中の火事の混乱に乗じて約半数が逃亡した。聯隊の幹部は「内心少なくなってホッとした」と述懐している。聯隊の実兵力は、上海以来の激戦で半減し約一、五○○人にすぎない。武器を持たない捕虜であるが、この多人数が暴れだしたら手がつけられなくなる。
 翌16日、旅団副官を軍司令部に派遣して「軍みずからの収容」を交渉したがラチがあかず、調査にきた憲兵将校にも「この大勢を処分することなどできるものか」と説いたが、依然軍司令部は「捕虜は速やかに処置せよ」である。
 釈放中の悲劇---。思案の末、旅団長・聯隊長は、揚子江の中洲・北岸へ解放する策を考えたというのであるが、夜半、江岸に連れ出された捕虜は逃亡のチャンスとみたか、殺害の危険を感じたか、数発の銃声をきっかけにして暴動がおこり、そのため千人余の犠牲者が出たが、日本軍も将校一人、兵六人が戦死した。
 
栗原利一氏と平林貞治氏の証言
 最近、毎日新聞(昭和59年・8・7)は栗原利一氏(田山大隊の伍長、小平市住)のスケッチ入りの証言をとりあげて、従来の自衛発砲説を覆す証言と報道しているが、直接取材したところ「真意は逆である。大虐殺の立証に利用されて迷惑を感じている」とのことであった。捕虜があばれだしたから、命令によりMGを射ったという。栗原氏の発言は結局聯隊史を裏づけることになり、ご本人は真面目な戦闘行為と受け取っておられる。スケッチに画かれた中洲は小さいが、実際は大きな中洲であり、海軍第十一戦隊は溯航の際、この中洲から発砲されており、ここに中国兵が多数潜入していたことは確実である。スケッチの日本軍の態勢は、江岸と東方が開放されて「包囲・皆殺し」の態勢ではない。
 また連行した捕虜の数を一三、五○○人と報じているが、実数は約四〜五千人であったという。
 問題の核心は、どのような状況で「撃て」と命令されたかであるが、平林貞治氏(聯隊砲中隊小隊長・福島氏住)は次のように証言した(『世界日報』59・7・17)
 「船がきていない。ワァーという声があがり、続いて"パンパン"という音がして捕虜の暴動が起きた。将校の一人が軍刀を奪われて斬りかかられた。これは大変だと発砲した」

 
『南京戦史』*5を初めとする「上級将校による戦後の証言」に、いかにバイアスがかかっているかが、小野氏の収集した陣中日記と比較することでよく分かります。
南京占領時1,500人の部隊でこれだけの陣中日記が収集可能だったわけですから、南京戦参戦者全体だと相当数の日記が現存している可能性があります。もし南京事件を「否定」したい側が本気になれば、これらの日記を収集して用いることは比較的容易なのでは?と思います。それが未だ殆どなされていないのは、やはり都合が悪いのだろうと私などは考えてしまいます。

*1:なぞってるだけでしょうが

*2:当期間に幕府山における捕虜虐殺を含んでおりますが、細かなディティールを確認するため、是非図書館で他期間に関しても目を通されることをお勧めします

*3:歩兵第65連隊、山砲兵第19連隊等が該当します

*4:証言による「南京戦史」偕行 (11)<最終回>  46期 畝本正巳

*5:「偕行」における連載「証言による「南京戦史」」を単行本化したもの