田中正明は『大亜細亜主義』編集長だったのか?

 
田中正明が他界された後に出版された著書『「南京事件」の総括 』文庫版には、
弟子の水間政憲さんが「まえがきに代えて」として文章を寄せている。
その中に次のような記述がありました。強調は引用者。

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 田中氏は、戦前、日中両国民の固い協力を柱に全アジアの団結と解放を志す「大アジア協会」の機関紙『大アジア主義』の編集長であった。同時に松井石根大アジア協会長の秘書も兼務していた。「大アジア協会」は孫文の思想を基調としている。
 その松井会長が、東京裁判で「南京大虐殺」の責任者として起訴され処刑された。このことの憤りが、田中氏の言論活動の原点になっていた。しかし、それは単なる私憤ではなく「公憤」だったのである。なぜなら松井大将の名誉を回復することが、国民に刷り込まれたGHQの政治宣伝の呪縛を解く鍵になるからである。
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 田中氏は、一九三八年『大アジア主義』の編集長として、南京の取材している。それゆえ、『南京事件の総括』は、戦争を知らない研究者が検証できない論点も明らかにしてくれている。
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『大アジア主義』。正確には『大亜細亜主義』の編集長で、1938年に南京を取材していたらしいことが分かる。
確かに田中さん自身も『民族と政治』1987年5月号で次のような文章を記している。

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実はかく申す私も、十三年八月南京に足を踏みいれ、南京の治安状況その他について調査しているのだ。松井軍司令官が退役後会長となった「大亜細亜協会」の編集部に勤務していた私は、従軍記者として、大将から紹介状を頂き、兵站の将校宿舎に宿泊して南京およびその近郊を約一ヶ月間視て廻っている。
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気になる点*1が他にもありますが、ここでは『大亜細亜協会』の「編集部に勤務」して南京陥落の翌年昭和13年(1938年)8月に南京を訪れたと述べております。
 
そこで、当時の『大亜細亜主義』を確認してみました。
で、結果なんですが、「田中正明」の名前は、唯一1937年11月号に講演会の弁士の一人として記載されている他、編集長や編集者そして記者としては確認できませんでした。因みに編集者としては「中谷武世」という名前が一名書いているだけです。また、1938年8月号以降の紙面で「南京の治安状況に関する従軍記事」といえるような記事も確認できませんでした。
 
とりあえず、水間さんの言う当時の「編集長」はガセ臭いなと思って、いろいろ調べたところ。意外にも田中さんが画期的な改竄をしたことで有名な『松井石根大将の陣中日誌』の序文に、『大亜細亜主義』編集者として記載されていた中谷武世氏により「松井大将と大亜細亜主義 -序に代えて-」という文章を寄せられていました。以下に全文引用します。

松井大将と大亜細亜主義 
−序に代えて−
 
 今回、田中正明君が『松井石根大将の陣中日誌』という書物を出版されるに当って、私に序文を書くように求められ、私は非常に光栄と思ってお引き受けしたのだが、私としては松井大将に関する想出が非常に沢山有って、筆紙に盡しがたいものがあるが、主として松井大将と大亜細亜協会との関係について要約して書いてみることとする。
 大亜細亜協会というのは、昭和六、七年頃私が下中弥三郎満川亀太郎、中山優、今岡十一郎、清水董三等の諸君と共に作っていた「汎亜細亜学会」というのが、当時参謀本部の第二部長であった松井少将の切なるすすめで、発展してこれを母体として昭和八年三月一日創立されたもので、アジア民族の団結と独立解放を目的とし、公爵近衛文麿松井石根、末次信正、徳富猪一郎、広田廣毅、下中弥三郎平泉澄、鹿子木員信、その他各界多数の名士が発起人となって創立されたものである。創立後の役員は、会頭松井石根、副会頭東大名誉教授村上堅固、京大名誉教授矢野仁一、最高顧問海軍大将末次信正、理事長下中弥三郎、常任理事兼事務局長中谷武世、という陣容で、理事には陸海軍、外務省、学界、言論界等各界の中堅実力者が参加していた。当時青年であった田中正明君は編集主任として機関紙の「大亜細亜主義」の編集に当っていた。「大亜細亜主義」という名称は、理事の一人であった、鈴木貞一中佐(後中将、企劃院総裁、A級戦犯の唯一の生存者として九十六歳の高齢で現存)が、「我々は孫文の大亜細亜主義を基調として日中両国民の堅い協力を柱に全アジアの団結と解放を志すものであるから会の名称も「大亜細亜協会」、機関紙も「大亜細亜主義」ということにしよう、と主張し、創立委員が全員これに賛同して此のように命名されたのである。
 私は東大在学当時から、「日の会」という民族主義の団体を主宰して学園内の民族運動を始めてから、八十七歳の今日、「日本アラブ協会」の会長としてアラブ諸国と日本との友好親善に努力しているものであるが、その六十余年の民族運動を通じて最も精魂を傾倒したのが大亜細亜協会の運動であり、その間、人間的にも最も親しく交わり、思想的にも、最も信頼し合った同志的関係に在ったのが、松井大将であり、下中弥三郎であり田中正明君であった。此の三者が一体となって実質上大亜細亜協会の中軸としてアジア民族運動を推進し、内外に多大の反響を呼んだのである。
 松井大将はいわば軍服を着たアジア民族主義者であって、特に中国と日本との親善提携関係の強化、これを中軸として全アジアの団結と独立の達成に非常な熱意を傾注されたのである。特に松井大将は日中両国民の友好親善に最も重きを置かれ、中国人を愛すること時に日本人に対するそれを超えるほどのものがあったこと、これは大将の観音信仰から来る仁愛の思想の現われとして大将を知る者の斉しく敬服したところである。それほど中国と中国人を愛した松井大将が如何なる運命の皮肉か極東国際軍事裁判−−東京裁判に於て南京虐殺の罪でA級戦犯として訴追せられ、昭和二十三年十二月二十三日刑死されたのである。実に悲痛痛恨の極みであるといわなければならない。
 私は昭和二十二年十一月七日、東京裁判の証言台に立ち、ノーラン検事の訊問に答えて、松井大将が熱心な大亜細亜主義者であり、孫文三民主義の理解者でもあって、日中両国民の親善と提携を前提としてアジア民族の団結と解放を推進するため大亜細亜協会を創立して、自らその中心となった経緯を詳しく説明したのであるが、私や下中氏やその他の証人諸氏び熱誠罩めた証言も遂に対象の冤罪を雪ぐことが出来なかったことは残念至極である。
 熱海の興亜觀音は、上海事変に斃れた日中両軍の戦死者の血の滲んだ大場鎮の土を以て松井大将が建立したものであるが、此の興亜觀音こそ右に述べたような松井将軍の思想信條の結晶であって、最近此の興亜觀音に詣でる人が非常に増えて、外国からの参詣人さえ尠くないということである。松井大将は雅号を自ら「孤峯」と名付けられたが、徳は孤ならず、興亜觀音の参拝者が此のように年々増えているということは、大将の終生の念願であった大亜細亜主義の思想が、それだけ汎く拡がっていることを示すものであって、心強く有りがたいことであると、合掌して此の序文の稿を結ぶと共に、田中君の此の著書が松井大将の人となりその思想信條に対する尊敬を一層深め且つ廣めることに大きく寄与することを心から期待するものである。
昭和六十年四月六日
日本アラブ協会会長 中谷武世

「編集長」ではなく「編集主任」というのが正解のようですね。
ただ、松井大将、下中弥三郎と並んで中心人物として名前をあげられており、その影響力はかなりのものであったことが推測できます。逆に言えば松井大将周辺の「大亜細亜」主義に基づいた対支那統治戦略が圧倒的に失敗した責任の一旦は彼にも有り、また自覚もしており。それを忌避したいが為に、戦後松井大将の名誉回復を名目に、資料改竄を始めとしたエキセントリックな活動をしたのだとすると、個人的には非常にシックリときます。とりあえず「大亜細亜主義」及び「大亜細亜協会」等に関して全く勉強不足なので、田中さんの足取りを辿りつつ追記していきたいなと思います。

*1:田中さんの従軍体験は今までお目にかかえってない