佐藤振壽関連[1]

 
稲田朋美さんの著書『 百人斬り裁判から南京へ 』より、証人となった佐藤振壽さんに関する部分をダラダラとコピります。
まずは証人尋問前のヒアリングにおいて百人斬りに関わる部分を抜粋。
 

P57-61
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 さて、佐藤さんは二人の少尉が所属する第一六師団に従軍することになった。昭和一二年一一月二十五日、無錫では市街戦に巻き込まれてあやうく命を落とすところだったという。この市街戦のことを佐藤さんは紙に地図を書いて教えてくれた。その戦いで、読売新聞の記者が佐藤さんの目の前で死亡した。
 読売新聞の記者がどのようにして弾にあたったかまで佐藤さんは記憶していた。それほど衝撃的な出来事だったのだろう。二九日朝、無錫を出発して常州に向かったが途中で東京日日新聞の車に出会い、常州まで車で行った。常州のホテルにいると同じように従軍していた東京日日新聞の浅海一男記者が呼びに来た。それが二九日常州に入った後なのか、翌日三○日の朝だったのかについてはいろいろ記憶に呼び起こしてもらったが結局わからなかった。
 ここにいう浅海記者こそ「百人斬り」を記事にした人物である。佐藤さんにいわせると浅海記者はなかなかの時代を見る目をもった人間で、演説も上手だったという。戦中は「百人斬り」をはじめ、読ませる記事を書いた。戦後は労働組合の委員長になって活躍した。浅海記者は毎日新聞を退社してから一家で中国に渡り、日本向けの北京放送の仕事に携わった。放送用の原稿を書いていたようだ。日本ジャーナリスト会議から上海に行き、演説したときは「昔自分が上海にいたときは、あのビルもこのビルも、屋上にユニオンジャックやフランスの三色旗がはためいていた。しかしいまやどのビルにも中国国旗がはためいている。諸君は諸君の親や兄に感謝しなければならない」といって大喝采をあびたという。
 
 呼びに来た浅海記者は佐藤さんに「兵隊さんにたばこをあげてほしい」というので一緒にいくと二人の将校がいた。浅海記者の話によると二人の将校はここから南京陥落までにどちらがさきに一○○人中国兵を斬るかの競争をするというので、写真を撮ってほしいというのだ。佐藤さんは二人に「一○○人斬ったかどうかだれが数えるのか?」と聞いた。「お互いの当番兵を取り替えて数えるんだ」ということだった。佐藤さんは「なるほど」と思ったものの、やはりその話はうそだと思った。
 佐藤さんは二人の将校の写真をとったがその後このことは忘れてしまったという。二人の少尉が所属する冨山大隊と一緒に泊まったこともあるが「百人斬り」について聞きもしなかったという。記念写真も含め佐藤さんの日記に「百人斬り」のことは一行もでてこない。
 佐藤さんは「百人斬り」のような法螺話が陸軍の検閲に引っかからなかったことがおかしいといい、最大の責任は陸軍省にあると言っていた。
 佐藤さんによれば、当時、戦意高揚の法螺話が新聞にのるということは結構あったらしい。例えば、中国兵がトーチカから機関銃で射撃してくる中、日本兵が匍匐前進してトーチカから出てくる機関銃を取り上げてトーチカの中の中国兵を全滅させたというような記事が新聞に載ったことがあったが、冷静に考えて射撃直後の機関銃はとても熱く、手で取り上げるということは不可能である。そんな記事が新聞に載ったということは、やはり戦時中でもあり、戦意高揚のための法螺話は検閲を通ったということではなかったかと佐藤さんは分析する。
 佐藤さんが実際に浅海記者の「百人斬り」の記事をみたのは、翌年の一月に南京から上海に帰ってからだったという。そのときの印象は「浅海はうそっぱちをうまく書いたな」だった。それなりに読ませる記事だったということである。
 
 昭和四六年、本多勝一朝日新聞の連載記事「中国の旅」で「百人斬り」を書いて、話題になった。ところが当時本多や朝日新聞社から佐藤さんに問い合わせがきたことは一度もなかった。
 佐藤さんは自分に聞かないで「百人斬り」のことがわかるはずがないと思った。抗議の意味で朝日新聞の購読をやめた。
 戦後、佐藤さんは浅海記者が東京裁判の検事から呼び出しをうけたときに電話がかかってきて「君のところへ検事から呼び出しはこなかったか」と聞かれた。
 佐藤さんは、浅海記者が検事に一言「あれは法螺話だった」といえばよかったといい、「やっぱり、新聞記者のプライドが嘘を書いたと認めたくなかったのかなあ」と締めくくった。

 それからあとも何度も佐藤さんのオタクにおじゃましたが、ある時私は「毎日新聞が来ませんでしたか?」と聞いた。毎日新聞は昔佐藤さんが勤務していた新聞社であるし、今回は訴訟の被告なのだから、佐藤さんのところに来ているかもしれないと思ったのだ。
 そうすると佐藤さんは「来た。人の家に菓子折も持たずに来て、何時間もいて失礼な奴らだった」といった。しかし佐藤さんは菓子折をほしがるような人では断じてない。前にも書いたように私たちが訪問するときはいつもレーズンクッキーを用意してくれるのは佐藤さんのほうだった。
 ただ、佐藤さんは横柄な態度、損得ずくめというのが大嫌いだった。この裁判の支援者のなかにも佐藤さんの逆鱗にふれ、出入り禁止になっている人がいた。佐藤さんによれば「金もうけしようとした」というのである。
 また、南京を研究しているある人が佐藤さんに細々とした南京の情景を書いた手紙で、「これをみたことがありますか」と質問してきた。佐藤さんはその手紙の最後に「みない」と大きくかいて返送していた。
 佐藤さんらしいなあと思った。
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