『「南京事件」の探究』におけるアンケートの引用

北村稔さんの『「南京事件」の探究―その実像をもとめて』において、
上記アンケートが引用*1されていたので、以下にその箇所を抜粋します。

雑誌『諸君!』のニ○○一年二月号に、各派の論者に対し「南京事件」に関する十七項目のアンケートを行った特集記事が掲載された。詳しくは雑誌『諸君!』を参照して戴きたいが、笠原十九司氏(大学教授)、吉田裕氏(大学教授)、鈴木明氏(ノンフィクション作家)、田中正明氏(松井石根大将建立の「興亜観音を守る会」会長)、櫻井よしこ氏(ジャーナリスト)、原剛氏(元防衛研究所戦史部主任研究官)ら二十三名の人々が回答を寄せた。『諸君!』の編集部はアンケートに回答した二十三名のうち、笠原、吉田氏を含む七名を「虐殺派」に、鈴木、田中氏を含む十名を「まぼろし派」に、櫻井、原氏を含む六名を「中間派」に分類している。秦郁彦、板倉由明、東中野修道の各氏は、この特集記事に登場しない。アンケートの十七項目は、第一項目<殺害された人数>から、第十六項目<ナチスホロコーストに匹敵する犯罪か或いは通常の戦争行為の行き過ぎか>、さらには第十七項目<論者自身が「南京事件」に対する認識を以前と現在で変化させたか>に至るまで、さまざまな内容で構成されている。これらの十七項目の中から本書でも論じることになる四つの論点に焦点を絞り、「虐殺派」の笠原・吉田、「まぼろし派」の鈴木・田中、「中間派」の櫻井・原、の各氏の回答を紹介してみよう。アンケート項目と回答は漸くしたが、特に内容が関連する第六、七、八の項目は一つにまとめた。


第一項目 殺害された人数について
 笠原・・・十数万から二十万人前後。
 吉田・・・十数万。
 鈴木・・・史料不足のため不明。
 田中・・・限りなくゼロに近い。
 櫻井・・・一万人前後。
  原・・・二万から三万。捕虜と便衣兵が二万。民間人は数千人。


第三項目 虐殺の進行した期間について
 笠原・・・一九三七年十二月から翌年三月まで。新日政権が南京に成立まで。
 吉田・・・一九三七年十二月から翌年三月まで。治安がほぼ回復まで。
 鈴木・・・一九三七年十一月から翌年元旦まで。中国人による自治委員会が南京に成立まで。
 田中・・・一九三七年十二月から翌年一月末まで。日本軍の掃討作戦の終了まで。
 櫻井・・・一九三七年十二月中旬の数日間。十二月十七日に松井大将が南京に入城までの出来事。
  原・・・一九三七年十二月から翌年一月末まで。日本軍の掃討作戦の終了まで。


第六、七、八項目 軍服を脱いで潜伏した兵士の処刑は国際法違反か否かについて
 笠原・・・国際法違反である。
 吉田・・・国際法違反である。
 鈴木・・・事件の全容が解明されておらず、回答は不可能である。
 田中・・・国際法違反でない。
 櫻井・・・回答なし。
  原・・・処刑には裁判の手続が必要。処刑を目撃した外国人は裁判を経たものと考え、国際法違反という批判を展開しなかった。


第十六項目 ナチスホロコーストに匹敵する犯罪か、通常の戦争行為の行き過ぎか
 笠原・・・偶発的要因の重りという側面がある。戦争行為の行き過ぎは日本側も認めていた。ホロコーストに比較しうるのは、このあと日本軍が共産党支配地区に大して行った皆殺し戦略の「三光作戦」である。
 吉田・・・首都攻略に際して発生した戦争犯罪であり、「三光作戦」とは異なる。
 鈴木・・・戦争行為の行き過ぎはあったが、ホロコーストとは全く異質である。
 田中・・・通常の戦争行為であり、行き過ぎも無い。ホロコーストとは次元が異なる。
 櫻井・・・戦争行為の行き過ぎはあったが、ホロコーストとは全く異質である。
  原・・・戦争行為の行き過ぎはあったが、日中両国の首脳・軍司令官の国際法への関心が薄かった。

コメント欄でグリフィンさんに教えていただいたのですが、
北村さんは、第一項目の質問を、
南京事件で日本軍が虐殺(不法殺害)した中国人の数」
 ↓
「殺害された人数」
このようにハショって記述したため、映画『南京の真実』掲示板などでは
単に「殺害」されたのだから、「虐殺」ではないと誤解された方がいたようです。


水間政憲さん*2が、「國民新聞」上で北村稔さんを誹謗している記事
北村稔 立命館大教授 正体晒す
敵味方が分りづらいですねぇ...
 
 

*1:P13〜16

*2:オリジナリティ溢れる陰謀論を展開する戸井田とおる衆議院議員のブレーン