南京事件 「 三派合同 大アンケート 」

月刊 『諸君!』 2001年2月号(P164〜203)に掲載された特集。
映画『南京の真実』掲示板で少し話題になっていたので、
図書館でコピーしてきました。


三派とは、まぼろし派・中間派・大虐殺派を表したもの。
アンケートの質問項目は全部で17問。
質問項目は → コチラ ※別ウィンドウで並べてみると良いかもしれません。
このうち。とりわけ虐殺規模に関わってくる[1]〜[6]までを以下に抜粋します。
それ以外の項目に関しても、気が向いたらしてみたいと思います。
あとこのアンケートは、あくまで2001年段階での回答者の認識である点を留意下さい。*1

渡部昇一 上智大学教授


1 (13)を選択。一般市民は四十〜五十人程度。
2 (4)を選択。一般市民に限られる。
3 (1)を選択。
4 (3)を選択。
5 市民でゲリラ(便衣兵)と間違えられた者やその他の巻き添えを受けた一般市民を虐殺と考える。
6 (1)を選択。

鈴木明 ノンフィクション作家


1 (13)を選択。史料不足のため全く想像がつかない。
2 (2)と(3)の中間ぐらい。日本の侵略戦争の要素は多分にあるが、近年百年来の歴史に照らして"一方的な侵略戦争"ということはない。喧嘩する時には、双方に喧嘩をする理由がある。
3 (4)を選択。昭和十二年十一月中旬から昭和十三年の元旦まで。南京維新政府の前身となる中国人による自治委員会が元旦に出来ているので、それまでの間の出来事と考える。
4 中国側は(3)を主張しているが、(1)を選択。上海戦の結果、南京戦が生じたのだから。
5 戦闘中の死を虐殺とはいわないが、戦闘がほぼ終了してからも行われた、銃殺や銃剣による刺殺は虐殺になる。
6 (4)を選択。南京にいた中国兵は、近郊の農民などでかり出された新兵も多く、訓練も不十分だった。だから、正規兵もいただろうが、単なる市民的な人もいた。

阿羅健一 ジャーナリスト


1 (12)を選択。
2 (3)を選択。
3 (2)を選択。
4 (3)を選択。
5 東京裁判でいわれはじめており、東京裁判が虐殺と言っているものをさす。市民や敗残兵などの殺戮。
6 (1)を選択。

小林よしのり 漫画家


1 (13)を選択。虐殺があったという一次資料が存在しない以上、この質問には答えようがない。
2 (4)を選択。これも同様に一次資料がない以上答えようがない。
3 しいていえば(3)だが。
4 (5)を選択。南京事件というものがそもそもあったのかどうかすら分らないのだから、南京事件はここからここまでの範囲だというのも不思議な話で答えようがない。
5 これまた同様に答えようがない。
6 便衣服に着替えていたというのなら、これは便衣兵しかあり得ないということになるから、しいていえば(1)の便衣兵と言うしかないけど。

冨士信夫 東京裁判研究家


1 (13)を選択。虐殺(不法殺害)した者は居ないと思います。
2 (4)を選択。日本軍が中国を侵略したとは考えません。盧溝橋で演習中の日本軍にいずこからか銃弾を打ち込まれたのが原因して日中両軍が交戦するようになったものと思っております。従ってその交戦の結果の死亡者は戦死者であり、日本軍による虐殺者ではありません。中国兵中軍服を脱ぎすてて民衣をまとい(便衣兵になり)、それが発覚して処刑された者はあったようですがこれは虐殺には入りません。
3 (2)を選択。
4 (3)を選択。
5 私は南京では日本軍による「虐殺」はなかったと考えておりますから、「虐殺」の定義は出来ません。
6 (1)を選択。

高池勝彦 弁護士


1 (12)を選択。私は、南京において日本軍兵士の違法行為が一件もなかったとはもちろん思っておりません。しかし、それは南京事件とは何の関係もない別事件です。ここで南京事件とはいわゆる南京大虐殺のことです。
2 (2)(3)を選択。但し侵略戦争ではない。
3 (2)を選択。私は南京事件はなかったと考えていますから、いつからいつまでの出来事かという質問には本来答えられないのですが、いわゆる南京事件といわれているものは(2)のことを指すのではないでしょうか(私がいうのではなく、南京事件を主張している人たちの当初の主張です)。
4 (5)を選択。南京城内及び若干の周辺地域(たとえば下関)を含む。ここでも私は南京事件はなかったと考えていますから、どこからどこまでという質問には答えられないのですが、肯定論者の当初の主張は南京城内及び若干の周辺地域だったのではないでしょうか。「南京市内」というと城内の数倍という広範囲となります。
5 肯定論者の当初の主張は、集団で手足を針金でしばったり、生きたまま川にほうりこんだり、大量に残虐な方法で殺すことを意味したと思います。
 現在捕虜の処刑をどのように考えるかが一部で議論されていますが、これは当時の国際法に照して純学問的に究明されるべき問題で、虐殺とは関係ないと考えます。究明された結果違法であるということもあり得ます。
6 一般論としては便衣兵である。

田中正明 松井大将建立の「興亜観音を守る会」会長


1 (12)の限りなくゼロに近いを選択。南京に虐殺事件があったという証拠はどこにもない。例えば安全区に常駐し南京市内外を自由に視察できた米・英・独・デンマークの十五人の委員だれ一人として大虐殺を見たものもいないし、記録もない。
 また虐殺があったなどと言ってもいない。当時相手国の蒋政権も共産党も事件当初は、虐殺があったとは言っていない。
2 (3)を選択。軍服を脱ぎ捨てて安全区に逃げ込んだ兵隊を便衣隊又は便衣兵というが、彼らは戦時国際法の違反者であり、彼らの処断は虐殺には入らない。
3 (2)の解釈が正しい、元朝日新聞記者の本多勝一氏ら多数虐殺派の論者の中には「南京三十万の虐殺というのは、上海戦から南京戦終了までで、地域も南京周辺の府県等も含む」と時間と場所を広げる論者もいるが、これは間違いである。
4 (2)を選択。但し、南京周辺の紫金山、雨花台、新河鎮、下関などの南京郊外の激戦地も含まれる。
5 「虐殺」とは非戦闘員を命令により殺りくすることである。日本において「南京大虐殺事件」いわゆる「南京事件」として喧伝されるようになったのは「東京裁判」以後のことである。
 東京裁判で日本を「人道に対する罪」で裁くためには、南京で大虐殺があったことにしなければならぬ。そこでマ元帥は南京に密使を送り、ネタ探しを依頼した。南京政府は医師会、弁護士会、商工会など十四の団体幹部を集めて日本軍の虐殺事件の摘発を行った。最初は口を噤んで誰も発言しなかったが、あの手、この手を用いて誘導した。一人の男が「私は二十七万九千五百八十六人の死体を見た」と発言した。こうしたでたらめな発言を寄せ集めて三十四万人の虐殺を東京裁判に報告した。その集計も間違っている。その結果東京裁判はあまりのデタラメにその数をしぼって、日本軍二十万人以上の虐殺(松井大将には十万人以上)という二重の判決を下したのである。
6 (1)の便衣兵である。

大井 満 戦史研究家


1 (12)を選択。
2 (3)を選択。
3 (3)を選択。
4 (3)を選択。
5 一般市民の殺害。
6 (1)を選択。

松村俊夫 南京事件研究家


1 (13)を選択。「虐殺」を不法殺害と捉えるならば、アメリカの日本占領軍を含む他国軍隊と同様、日本軍のなかにも皆無と言えなかったであろう無法者による例外的なケースと、後述する便衣兵に間違えられて処刑された者が対象となる。その総数は不明、しかし恐らく間違えられた者を合計しても百名単位。三十万人とはジャッキー神父の名を借りてティンバリーが最初に言い出した数字である。戦死者と、逃亡後、戦闘行為として逮捕された安全区内の兵の処刑者は虐殺されたとは言うべきではない。
2 (4)を選択。使者には戦死者と処刑者が含まれているので、この二者を総称して、特殊用語になっている「被虐殺者」という言葉は採らない。
3 (4)を選択。十二月十三日前後から、『南京安全地帯の記録』とティンバリーの『戦争とは何か、外国人の見た日本軍の暴行』が記録している二月中旬まで。何故ならば、「南京国際委員会」の、しかも一部のアメリカ人を発信源とする「南京事件」であったから、まとまった伝聞情報としてはこの二書によって伝えられていたもののみで、それ以外に当時は「南京事件」はなかったのである。ダーディン等の記事も国際委員会ベイツからの伝聞であり、中国紙の記事も亦発信源は同じであった。ダーディン・スティール等は、自分達が実見したことを記事にしていない(十二月十五日の南京埠頭での「処刑」以外には)。
4 (4)を選択。外国人情報は、殆ど安全区内の出来事だった。スマイス調査による農村地帯の死者は、加害者を日本軍と特定していない。それの範囲が広まったのは南京軍事裁判に提出された国民政府によって作られた証拠からであり、更に上海戦云々になったのは狭い範囲では何万にものぼるという虐殺数が不合理になると考えた日本の所謂「大虐殺派」の考案による。
5 前記2の如く、南京事件の死者を「虐殺」されたと言うのは間違っている。若しそれを虐殺というのなら古今東西の戦争による死者すべてを「被虐殺者」と呼ぶべきである。
6 次の7の答えを参照されたし。
7 この時の将兵には(イ)訓練されて最初から安全区への潜入を計った便衣兵、(ロ)正規兵として戦ったが南京陥落後予め準備されていた便衣服に着替えて再起を計っていた者、(ハ)ただ命惜しさに便衣を難民から強奪して安全区に逃げ込んだ者、という三種のカテゴリーに分けられる。この何れも降伏したのではないので、市民とは言えない。
 従って、彼等は戦時国際法に想定していなかった特殊な立場だったから、外国人達はその処刑を不法殺害だと言えなかった。そしてただ「ここはアジアだ」と自分達の感覚では理解不能であると強調した一因ともなった。

藤岡信勝 東京大学教授


1 (12)を選択。
2 (3)を選択。
3 (2)を選択。
4 (4)を選択。
5 「虐殺」とは、1.非戦闘員たる一般市民を理由なく殺害すること、および、2.捕虜を戦時国際法に違反して不法に殺害すること、である。
6 (2)を選択。

原 剛 元防衛研究所戦史部主任研究官


1 (9)を選択。捕虜・便衣兵の不法殺害が約二万に近い数、一般市民が数千人。
2 (4)を選択。捕虜・便衣兵を第一線部隊などが勝手に処断したものおよび兵士が散発的(個々又は小集団)で一般市民を戦闘行為外で殺害したもの。
3 (2)を選択。
4 (2)を選択。
5 戦争放棄に違反した不法殺害。
 捕虜・便衣兵軍法会議・軍律会議の手続をふまず第一線部隊が殺害したのは不法殺害である。
 便衣兵を捕虜とみなさないのであれば、軍律会議で審問し、処罰すべきである。
6 (2)を選択。

中村 粲 獨協大学教授


1 (10)を選択。数千人から一万人前後か。但し、原則として一般市民を除く。
2 (2)と(4)を選択。但し、所謂「侵略戦争」ではないと考える。被虐殺者の大部分は捕虜となった兵士である。
3 (2)を選択。しかし、特に(3)の時期に集中したと考えられる。
4 (2)を選択。但し、正確には日本軍が南京を陥落させる直前に激戦があった紫金山など城市に隣接する南京郊外も含まれる。
5 <定義1>残酷なる方法で殺害すること。合法か不法かを問わない。※残酷な方法とは、不必要な苦痛を伴う方法を謂う。
 <定義2>大量に不法殺害すること。殺害方法が残酷か否かを問わない。※不法とは正当防衛あるいは緊急避難上の理由のないこと。
6 (1)と(2)を選択。組織(便衣隊)に所属するか確信犯的便衣兵。単に逃亡するため便衣に着替えた正規兵。この両方が居た。

畝本正己 戦史研究家


1 (13)を選択。投降捕虜や善良な市民の組織的・計画的殺害はなく、個別的偶発的殺害である。幕府山捕虜を解放途中で殺害した者や、難民区掃蕩の際、誤って拉致処刑された一般市民などを含む。
2 (2)、(3)を選択。
3 (4)を選択。南京陥落(12/13)から12月20日頃までの期間。
 事件の主体は(3)の期間、すなわち、南京城占領(入城残敵掃蕩、難民区掃蕩)、入城までの、南京戦略戦(軍事作戦)に付随した事件(行動)である。
 (4)の12月20日の警備、治安維持体勢へ移行した時期までに発生した事件とするも(広義に)入城後に発生した件数は少ない。
4 (5)を選択。南京城外から安全区までの範囲。
5 1.日本軍に投降した者を収容し、正式に捕虜としたものを、不法に殺害したもの。2.善良な市民を理由なく殺害すること。3.難民区掃蕩にあたり、誤って善良な市民を巻き添えにしたもの。
6 (1)を選択。

岡崎久彦 博報堂岡崎研究所所長


1 処刑対象となし得る便衣隊の確実な数がわからないから三百人乃至三万人という意味で、(10)の一万人前後を選択。
2 (2)が常識であろう。
3 どれでも良い。ただし、(3)が念頭にある。
4 (3)の回答と同じ。ただし、主として(3)が念頭にある。
5 一般市民の殺害、暴行、俘虜の殺害、便衣隊の十分な証拠によらない殺害。いずれも今となっては数の特定困難。
6 (1)と(3)は、ケース・バイ・ケースによる。

櫻井よしこ ジャーナリスト


1 (10)を選択。
2 (2)と(3)を選択。
3 (3)を選択。
4 (4)を選択。
5 避難民にまぎれこんだ便衣兵を探す段階で行われた一般の非軍人に対する殺傷行為。
6 (2)を選択。

田辺敏雄 昭和史研究家


1 (10)を選択。
2 (2)を選択(但し、侵略戦争かどうかは留保)。
3 (2)を選択。
4 (2)を選択。
5 「ハーグ陸戦法規」の「交戦者の資格」を基準とし、「無抵抗の非交戦者」(捕虜、一般市民など)の殺害。定義にあてはまらないところは「常識」で判断するしかないと思います(欧米の近代軍の水準から見れば、中国軍の軍隊が前近代的であったこと、日本軍もその傾向があったことを考えないわけにはいきません。「アジアの戦争」だったのだと思います)。
6 (1)を選択。

藤原 彰 一橋大学名誉教授


1 (4)を選択。事件研究の開拓者・故洞富雄氏は、一貫して「南京城内外で死んだ中国軍民は、二十万人をくだらなかったであろう」(『決定版・南京大虐殺』)という説をとっており、私もこれを支持してきた。これは戦闘における死者をも含んだ数だが、戦死者よりは不法殺害の犠牲者の方がはるかに多いことは確かである。死者の数を正確に算定するのは極めて難しいが、今後もその努力が必要であろう。
2 (4)を選択。戦闘による死者(戦死者)を除く兵士、市民の犠牲者。つまり捕虜、投降者、摘出された敗残兵などは大部分が不法に殺害された者であり、市民の犠牲者ももちろん虐殺の被害者であった。
3 (2)を選択。ほぼこの期間だが、起点は南京攻略戦がはじまった十二月初旬としたほうがよい。次項の質問とも関連して。
4 (5)を選択。南京城市と近郊六県を含む行政区としての南京市。
5 2の回答と同じ。
6 (4)を選択。戦意を喪失し、武器を捨てた元兵士。

江口圭一 愛知大学教授


1 (5)〜(6)を選択。
2 (2)を選択。
3 (1)を選択。
4 どちらかというと(1)。
5 通常の戦闘行為による戦死者を除き、投降・裁判の機会を与えずになされた敗残兵(武器不携行、戦意喪失)、投降兵・捕虜、元兵士(武器不携行)にたいする処刑・殺害および一般市民の殺害。
6 (4)を選択。武器不携行戦意喪失の一種の敗残兵である。

井上久士 駿河台大学教授


1 (13)を選択。少なくとも十数万。
2 (2)を選択。なお「侵略戦争だったかもしれない」ではなく、「侵略戦争そのものだった」と認識している。
3 (4)を選択。十二月上旬から翌年三月まで。
4 (5)を選択。当時の南京市政府の管轄地域(南京城内・下関および郊外の浦口・考陵衛・燕子磯・上新河・陵園)と近郊六県(江寧・句容・溧水・江浦・六合・高淳)
5 捕虜の殺害、女性を含む一般市民・農民の殺害。
6 (4)を選択。便衣兵か正規兵かという区別は無意味である。戦意を喪失して武器を捨てて逃げ込んだものであるから、いずれにしてもこれを捕虜として扱うべきであり、まして軍事裁判もなしに殺害してよいというものではない。

姫田光義 中央大学教授


1 (5)を選択。
2 (1)を選択。
3 (2)を選択。
4 (2)を選択。
5 イ.非戦闘員(婦女子、老人)および田畑で働いていた農民たち。
 ロ.武装解除された捕虜。
 ハ.戦闘意欲、抵抗感なき敗残兵(役人などを含む)。
6 (4)を選択。実際に抵抗した「便衣兵」は少数で、殆どは逃走用に「便衣」に着替えた敗残兵。

笠原十九司 都留文科大学教授


1 現在の研究・資料状況から推測できるのが、十数万人から二十万人前後、今後の史料の発掘・公開と研究の進展によって、被虐殺者数は増えていく可能性がある。
2 (2)を選択。ただし「侵略戦争」であったことは、日本政府も公式に認めているので、設問は、「侵略戦争であったが」とすべき。
3 (4)を選択。中支那方面軍が南京区に突入した一九三七年十二月四日前後から、中華民国維新政府が南京に成立した、一九三八年三月二十八日までの期間。
4 (5)を選択。南京城区とその近郊六県を合わせた行政区としての南京特別市全域。それは、南京攻略戦の戦区であり、南京陥落後の日本軍の占領地域であった。
5 戦時国際法である「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」で殺害を禁止された負傷兵、捕虜、投降兵ならびに敗残兵(武器を捨て戦う意志を放棄した者)の状態にある中国兵に対する集団あるいは個別の殺害。日本軍の包囲殲滅戦、残敵掃蕩戦の犠牲になって殺害された民間人、敗残兵狩りにより元兵士と思われて殺害された成人男子、さらに日本兵の気まぐれで射殺・刺殺された民間人、こうした非戦闘員であった民間人に対する殺害。南京事件において、日本兵による強姦事件が多発したが、強姦罪親告罪であったので日本軍憲兵に告訴させないために、あるいは証拠湮滅のため、特に農村部では強姦・輪姦された後に殺害される女性が多かった。
 こうした強姦・輪姦殺害も当然ながら虐殺行為にあたる。
6 (4)を選択。便衣兵とは戦う意志をもって公然と兵器を携帯している兵のことである。安全区に逃げ込んだ中国兵は、すでに戦いを放棄し、兵士とみなされて殺害されることを恐れて(日本軍は捕虜、投降兵も殺害した)、武器を捨て、軍服を脱いで民間人服に着替えて生き延びようとした敗残兵であり、便衣兵とは明らかに違う。
 安全区国際委員会も元中国兵士を武装解除したうえで難民として安全区に収容していた。

高崎隆治 評論家


1 (4)を選択。
2 (4)を選択。2の設問は「侵略戦争だったかもしれない」となっていますが、私は「侵略戦争だった」という認識をもっています。しかし「通常の戦闘行為」での戦死者は虐殺者数に含めるべきではないと考えます。
3 (1)を選択。
4 (1)を選択。
5 無抵抗な一般市民の殺害および投降した捕虜を殺害する行為。
6 (2)を選択。

吉田 裕 一橋大学教授


1 (13)を選択。現在の段階では、少なくとも十数万と推定します。特に南京近郊農村部での虐殺の実態がほとんど明らかにされていませんので。
2 (4)を選択。明らかな侵略戦争であるが、戦争である以上、通常の戦闘行為による戦死者は虐殺に含めるべきではないでしょう。
3 (4)を選択。大本営が南京攻略を命じた一九三七年十二月一日から治安がほぼ回復する一九三八年三月頃までの期間。
4 (5)を選択。3で回答した期間内に中支那方面軍が制圧した地域。したがって(1)は含まれませんが、南京市内に限定することはできず、南京特別市(南京城区プラス近郊農村部)の全域をも含みます。
5 1.捕虜、投降兵の殺害。
 2.軍服と武器を捨て難民区に潜伏していた中国軍敗残兵の処刑(捕虜として収容すべき対象でした。また仮に実際の敵対行為があったとしても、処刑には軍律法廷の手続きが必要でした)。
 3.戦意を失った敗残兵の殺害(少なくとも捕虜として収容する努力をすべきでした)。
 4.一般市民の殺害。
6 (4)を選択。戦意を失った正規軍の敗残兵。それを軍律法廷の手続きもなしに処刑したため、兵士と誤認された一般市民まで処刑されることにもなりました。

 
 

*1:肩書きも当時のものです。また回答者のうち田中正明氏と藤原彰氏、鈴木明氏は他界されております。