"虐殺派" "中間派" "まぼろし派"全員集合


南京陥落70周年記念企画といった感じで、
『諸君!』 1985年4月号*1 においての行われた特集記事
  "虐殺派" "中間派" "まぼろし派"全員集合
  南京大虐殺」の核心
  ひとまず、イデオロギーをはなれて議論の席に就こう!
を丸写ししてみました。
 
座談会メンバー
■司会
半藤一利 ・・・ 文藝春秋編集委員
 
■出席者
洞 富雄 ・・・ 元早稲田大学教授
秦 郁彦 ・・・ 拓殖大学教授
鈴木 明 ・・・ ノンフィクション作家
田中 正明 ・・・ 拓殖大学講師
 ※肩書きは当時のものです。
 

■競走馬がスタートを切った
半藤
南京事件」につきましては、さまざまな議論がおこなわれています。今日は、まず最初に南京攻略戦が戦史のなかで、あるいは昭和史のなかでどういう位置づけをもっているかというあたりからはじめてみたいと思います。



 ざっと経過を申しあげますと、昭和十二年七月盧溝橋事件が起きました。それ自体は小規模な偶発的事件ですが、これをどう処理するか、陸軍部内で拡大派と不拡大派が対立して、結局、内地から陸軍部隊を派遣することになり、七月末から華北で戦闘が開始されました。八月になると上海へ飛び火して日本海軍陸戦隊と中国軍との間でいわば自然発生的な戦闘になります。そこで上海の日本人居留民を保護するという名目で、陸軍の上海派遣軍が上海へ送られます。ところが当時の石原莞爾参謀本部作戦部長が、不拡大派だったので、兵力の逐次投入になってしまい、日本軍は上海戦で非常な苦戦を強いられる。この膠着状態を打開すべく、十一月に第十軍(柳川平助中将指揮)が杭州湾に上陸して、敵の腹背を衝く形をとりますと、上海の中国軍はナダレをうって南京方向へ敗走する。陸軍中央部としては、この段階でも上海よりさらに軍を進めるかどうか方針がはっきりしていなかったんですが、上海派遣軍司令官の松井石根大将---この人は東京出発の時から、南京攻略を主張していたのですが南京に向けて追撃戦を開始する。中央も、結局、現地軍に引きずられて、いわば"追認"という形で南京総攻撃の命令を下し、十二月十三日南京が陥落します。問題の南京事件は、陥落の前後、特に直後に起こったといわれているんですね。


田中
 松井大将は最初五個師団を希望するのですが、結局二個師団しか与えられない。そのため上海戦では大苦戦を強いられ、戦死者二万人以上を出します。杭州湾に上陸した第十軍・柳川兵団は無血上陸であって、非常な勢いで南京に突っ走るんですね。まさに競走馬がスタートラインを切ったように走るんですね。その勢いに押されて、中国軍も総退却をはじめる。これを追って上海派遣軍が行く。いわば、松井大将の率いる上海派遣軍と第十軍・柳川兵団の対南京先陣争いのような格好になるわけです。松井大将が出発前から南京攻略の強硬論者であったなど、全く聞いていませんし、また中央の意向を無視して南京総攻撃を下したというのもウソです。



 日中戦争を"戦争"でなく、"事変"としたのは大きな問題だと思いますよ。



半藤
 宣戦布告をしていない。したがって、これは戦争でなく局地的紛争であるという方針だったですね。そこは、石原莞爾の不拡大方針があったからなんですか。



 最大の理由は、アメリカの中立法との関係だと思います。日本は主としてアメリカから軍需物質や原材料を輸入していたのですが、国際法上、宣戦布告をやりますと、アメリカが中立法を発動して物資が入ってこなくなる。それで"事変"のままに放置したのです。



 そうなんですね。



 昭和十二年十一月に大本営を設置しているぐらいですから"事変"ではおかしい。実態も意識としても完全に全面戦争ですよ。ただ、本来やるべきでない戦争をしているという意識もあって、早く切り上げたい。そういう焦りは政府も軍部も共通していたと思います。
 ところが、いくら「無名の師」(大義名分のない戦争)でも、戦争をはじめて大量の戦死者が出ると、無条件で撤兵というわけにはいかない。そこで、和平条件の問題になってくるんですが、それが決まらないうちに、現地軍が首都南京占領まで行ってしまったんですね。そうなると、国民世論も強硬になって、全面降伏が当然という空気になってくる。結果論ですが、私は南京占領前に和平すべきだったと思うんですがね。


半藤
 事実、トラウトマン工作が進んでいて、中国駐在のドイツ大使トラウトマンが蒋介石と和平の条件を十二月一日に話し合うところまできていた。


田中
 その十二月一日多田駿参謀次長が松井大将のところへきて、大本営の方針として南京を攻略せよ、と伝える。十二月五日松井大将は中支那方面軍司令官に昇格し、朝香宮鳩彦中将が上海派遣軍司令官になられるわけです。


半藤
南京攻略命令を受けてからですね。これで和平への芽はなくなった。



 近衛手記によると、松井大将は、東京出発に際して見送りにきた近衛文麿首相と杉山陸相に、「どうしても南京まで行く」と言って二人をびっくりさせているんですね。和平に持ちこむなら、南京をとって中国のメンツをつぶしちゃいかん、という意見もあったようですが、大勢は、首都を占領すれば中国は手をあげるだろうと楽観していた。この見こみは全然はずれてしまいましたがね。



■「大虐殺」の定義
鈴木
 南京事件というものを考えるとき、まず第一に、同時代に起った他の事件と比較対照してみることが必要だと思います。たとえば、毛沢東中国共産党の首席になった有名な遵義会議(中共政治局拡大会議)なるものは南京事件の二年前の出来ごとのはずですが、あれほど重大な会議の内容も正確には知られていない。前年の西安事件もそうですが、つまり中国で起った出来事そのものが、非常に混沌としていた最中に起った出来事であって、これを今日の情報化時代と同レベルでとらえ直すというのは、かなりむずかしい側面があります。
 もう一つの例として、南京事件のほんの半年前にスペイン戦争で、これも有名な"ゲルニカ"が起きています。上海で一番最初に南京事件を報道したと思われるマンチェスター・ガーディアンのティンパリーなり、南京攻略戦の只中にいたニューヨーク・タイムズのダーディンなりは、当然"ゲルニカ"のことが頭にあったと思われます。彼等はデモクラチックな西欧人の眼から当時のアジアを見ていたわけですが、西欧の一角で起ったスペインの事件と、数億人が低生活にうごめいていたアジアの事件に対しては、アングルも当然違うわけです。つまり、一九三七年にアジアの真空地帯とでもいうべき南京で起った事件は、彼等によって始めて報道されたわけですが、それははじめ、あくまで西欧人の眼から見た事件であった、ということです。


田中
 "大虐殺"とは何かという定義からまずはじめましょう。私はやはり、当時の日本軍が計画的組織的に虐殺をやったかどうか・・・・・・発令者がいて、命令を伝達する者がいて、かつ実行者がいたのかどうか。そういう計画性の有無を論じたいと思うんですよ。



 賛成ですね。ぼくは、大虐殺という言葉は好きじゃないんです。もっとも、大虐殺にはちがいありませんがね。あれ、一体、いつ頃から言いだされたんですか。


半藤
 一般には、"南京事件"だったですね。



 ええ。私は前に書いた本は『南京事件』としました。ただ、のちに版元の要請で「大虐殺」になっちゃった。(笑)ことに今度の本なんか『決定版・南京大虐殺』となった。(笑)「決定版」はほんとに困るんだ。


田中
 ぼくの本も『"南京虐殺"の虚構』という本のタイトルからして"まぼろし派"のように言われていますが、決してそうではない。東京裁判史観や「自虐派」が言うところの"南京大虐殺"なんてことは絶対ありえない、と言っているだけですからね。(笑)タイトルだけで"あった派""なかった派"だの"まぼろし派"などというレッテル貼りはよくないですよ。



■英語では「アトロシティ」
鈴木
 『南京大虐殺まぼろし』を書いたのはぼくですから、それなりに責任は感じています。(笑)だけど「の」まぼろしと言ってるのであって「は」まぼろしと言ってません。「の」というのは、「南京大虐殺」という固有名詞の生み出したさまざまなあいまいさ、つまり、まぼろしの部分について焦点をあてたというつもりだったのです。しかも中身は"百人斬り報道"をふくめた一種の新聞批判なんです。"南京大虐殺"問題をベールに包んでしまったという意味で表現したつもりなんですが、いつのまにか"まぼろし"だけが一人歩きしてしまった。


半藤
 そうすると、みなさん、大虐殺か虐殺かは別にして、そこに近似したある種の状況はあったと認めておられるわけですね。では、"大虐殺"という表現は何時ごろから出てきたんでしょうか。


鈴木
 東京裁判でも出てきませんでしょう。


田中
 東京裁判では「南京暴虐事件」になっています。



 英語では"アトロシティ"なんですね。あとは、これをどう訳すかが問題となる。



 それは"大虐殺"と訳したわけですか。


鈴木
 もしそうだとすると、本多勝一さんの『中国の旅』ではじめて出た言葉じゃないですか。『中国の旅』の第四章にハッキリと"南京大虐殺"と出てきますから。これは一九七二年の出版ですから、ちょうど日中国交回復のちょっと前くらい・・・・・・。



 一九六八年に出た家永三郎さんの『太平洋戦争』の方が古いわけですが、これも初出かどうかわかりかねます。いずれにしても、中国では"南京大屠殺"と言っておりますので、その言いかえでしょう。


半藤
 南京事件のアウトラインはこのくらいにして、具体的なことに入って行きたいと思います。とにかく、十二月一日に多田参謀次長がやってきて南京攻略の大命を伝える。それからものすごい勢いで上海派遣軍の第九師団、第十六師団、第十軍は第六師団と第百十四師団が主力で、後詰めとして、第十三師団、第十八師団が行く。南京事件で問題となるのは、上海派遣軍の第十六師団と第十軍の第六師団ですね。これらが十二月十三日から十四日にかけて、敗残兵、投降兵、捕虜、便衣兵などと入り乱れてぶつかりあった。そこへ市民が巻きこまれたという状況ですかね。


鈴木
 陥落当時南京には中国の行政官も高級将校もおらず、無政府状態になっていたわけですが、それを後にどういう資料で確認しうるかということですね。例えば、ダーディンのレポートとか、ラーベあるいは南京安全区国際委員会の後身である難民救済国際委員会の人々のレポートが出ています。これら客観的に、かつ綜合的に見たものを、同時代に書かれた一級資料とみるのが順当だと思いますね。


田中
 それらの一級資料には"虐殺"は全然出てきません。


鈴木
 ところで、そのダーディンにしても南京防衛司令官の唐生智が揚子江を越えて以来、南京をコントロールする者がいなくなってしまったと嘆くほどですから。じゃあ、そういう混乱状況のなかでどうやって情報を集めたかという疑問が残ります。だいたい戦場では、となりの分隊同士がおたがい何をやっているかわからない状況だと言われますからね。


田中
 入城したら街には(難民を除いて)人っ子一人もいなかったというのですからね。


鈴木
 まず、そういう極端な情報不足のなかで、この南京事件が起きたという基本的状況を認識しておく必要があると思うんです。



 ええ。ダーディンにしたって占領後三日ばかりいただけなのに、どうしてあれだけ取材ができたのか。もっとも、あの人の数字がどれだけ信頼できるかどうか、それは問題ですね。それに、十五日までしか南京にいないので、捕虜の大虐殺なんかは、まだ彼の知らないことなんです。さっき田中さんは、「一級資料には"虐殺"は全然出てきません」と言われましたが、この発言はひとまずお預けにしていただきましょう。


田中
 東京日日新聞が十二月二十日付で南京在任の某外国人の日誌を発表しています。十一月十五日から十二月十三日までを記したものですが、これなんかは充分信憑性ある一級資料と思われますが。



 ダーディンの日記ですか。


田中
 ダーディンではなく、マギーかフィッチじゃないかと言われていますが、確証はありません。



 十二月七日に蒋介石が脱出、十二日・・・・・・日本突入の一日前の夕方に守備軍司令官の唐生智が南京城内から脱出しますね。そのあとは無政府状態になるわけですが、攻めこんだ日本軍にも南京占領後の軍政に対する準備がなかった。とても近代軍の首都攻略戦とは思えない。


鈴木
 ダーディンがニューヨーク・タイムズでこう書いていますね。「この南京戦の攻防は、多くの点で中世封建時代を思わせるものである」と。さらに、こうも言います。「城壁内に閉じこめられていた防衛軍、あるいは市街部から何マイルも離れたところにある村落、邸宅、繁華街等の、まず、最初中国軍による灰燼作戦、その後南京占領後の日本軍による虐殺、強姦、略奪など、どれをとってもこれは近代の戦争以外のなにものでもない」と。



 前に言ったことですが、ダーディンが短時日にあれだけの取材ができたのは驚異的なことだと思うんです。言っちゃ悪いけど、日本の新聞記者は何をやっていたのか。まぁ、検閲されたりして、さまざまな困難があったんでしょうが・・・・・・。



■"百人斬り"の虚構
鈴木
 "百人斬り"の話しもそうなんですね。向井少尉や野田少尉という「斬った」といわれる人たちも、これを書いた浅海さんという記者も同罪だと思うんです。いずれも時局に便乗したんですよ。向井、野田の二人が捕虜を斬ったのなら可能性もあるんだけど、少なくとも、戦闘中に百人もの敵を斬れるわけがない。一振りの日本刀が一丁のピストルにかなうわけがない。



 馴れあいなんですね。記者も捕虜の処刑か投降兵の斬殺であることはうすうす気づきながら、二人の将校の語るままに武勇談にしてしまったのでしょう。


田中
 しかも、それを裁いた南京の戦犯裁判、あれこそまさに中世の暗黒裁判といえる。第六師団長の谷寿夫中将の裁判など全くひどいもので、まともな裁判とはとても言えないじゃないですか。



 鈴木さんが"百人斬り"はありえないと結論されたあと、野田少尉が戦争中に母校の小学校で講演して、「百人斬りといっても、ほとんどは捕虜を斬ったんだ」と告白したのを聞いたという人がでてきましたね。


鈴木
 捕虜じゃなくて、防空壕かなにかに入っている敗残兵に「来々」とか言って出てくるのをやったという話しではないですか。



 捕虜というか投降兵というか、どっちにしても戦ってやっつけた話じゃなさそうだ。



 鈴木さんは"百人斬り"を本に収められていますが、私は、これを"南京大虐殺"に結びつけるのは無理だと思います。そういう意味で、私の今度の本からは「百人斬り」は抜きました。


田中
 私もその点では賛成です。


鈴木
 あれは、いわば"南京"というものを問いかける発端というか、象徴として書いたわけでしてね。事実、南京事件で実際に処刑されたのは、谷寿夫中将(第六師団長)と向井、野田両少尉、田中軍吉大尉の四人だけですね。


半藤
 "百人斬り"は南京攻略戦でみられた功名争いといった面もあるんでしょう。


鈴木
 ええ。柳川軍(第十軍)と中島今朝吾中将の第十六師団とか、他にもいくつか考えられますが、この二軍が一番の精鋭軍ですから、両軍の先陣争いの象徴として野田、向井という二人が出てきたということでしょう。



■「中島日記」の問題部分
半藤
 『歴史と人物』増刊の最新号で「中島今朝吾日記」がはじめて発表されました。その中に、中島が剣道の達人を招いて捕虜の試し斬りをやらせていますね。何人斬ったかという数の問題ではなくて、当時の日本軍が捕虜を斬ったというのは動かしがたいと思いますが。


田中
 私は従軍記者もやり、応召して軍隊におりましたから、いろいろな話を聞いていますが、私の部隊では全然そういうことはないんです。ただ、中島さんという人は、秦さんもご指摘のようにちょっとサディスティックなところがあったようですね。
 だから、「中島日記」もそこだけをとり出して論じても意味がないと思うんです。虐殺をし、処理をした遺体の数などを見ると、佐々木到一少将の旅団だけでも一万五千、太平門における処理が千三百、その他仙鶴門が七、八千、合せて二万三千となっていますが、佐々木支隊は明らかに敵の「遺棄死体」ですし、仙鶴門の捕虜はちゃんと収容所に収容しています。



 数の問題にしても、「中島日記」では"処理"という表現をしていますが、ここをどう解釈するか・・・・・・やはり処刑したということでしょうか。



 それが、軍命令か、師団命令か、あるいは方面軍の命令かが問題になる。


田中
 ここらで、いったい南京には軍民合わせていくらいたか、全体の数字を確認した方がいいんじゃないでしょうか。たとえば、唐生智が率いていた南京守備隊は五万といわれています。この点異論ないと思いますが、なのに十万の捕虜などとあるのは初めっからおかしいんじゃないですか。



 それは、最後に籠城した兵隊が五、六万ということで、南京城の外郭防禦線にいた兵隊は相当数にのぼるんです。ことに紫金山あたりに多かった。それに鎮江のほうから逃げてきたのも多いようですが。



 それに民兵もいましたし。


鈴木
 その点については、中国軍からの数字があいまいですね。いまのところダーディンの資料しかない。しかも、彼はある消息筋によると「南京市内及び周辺の中国軍隊」という言葉を使っていて、南京防衛軍という言葉は使っていないんですね。
 それによると、南京城には合せて中国軍十六個師団が参加したといわれます。一番最初に南京防衛軍の方で記者会見をやったのが唐生智ですから、これにはかなりの信憑性がある。すると兵力は五万人ぐらいではないか。もっと沢山いたのであれば、あれだけ堅固な南京城の城壁なんですから、ものの二日ぐらいで、"落城"するとは思えません。やっぱり、防衛軍の数はかなり少なかったのではないかと考えているんですが・・・・・・。



 そういう論者は相当います。しかし、中国兵が外郭防禦線まで含めて十何万いたと証言する旧軍人もおります。たとえば鵜飼敏定氏などは、最終段階の南京保衛軍はまだ、周辺外郭陣地の防禦六万、城内直接守備八万、計十四万の兵力を有していたことが推定される、と言っているのです。また、上海派遣軍の戦果発表でも、中国軍十万と言っております。


田中
 東京裁判では、南京戦の中国軍は五万と言っています。ジェームス・エスピーというアメリカの副領事も国務省への正式報告の中で「実際僅か五万に過ぎざるなり」と書いています。ダーディンも五万と言っています。



■処断=殺害?

 私の考えは、最終段階の籠城兵力が5万で、外郭陣地にいたものまでいれたら相当の人数になるという見方なんです。五万という兵力については、東京裁判の判決も、ダーディンも、エスピーも、私と同様に見ています。
 南京保衛軍の兵力が十万以上だったと推測されることは、南京城内外での捕虜や便衣兵や、掃蕩戦で殲滅された投降兵の数が意外に多かったことも、その一つの証拠といえようかと思います。外国人や中国側の証拠にはいっさい目をつぶり、われわれがいま目にしうるだけの日本側の戦闘詳報類や関係者の日記・手記や、生存者の証言などのうち、信憑性があるとみられる資料にもとづいて、いまいった中国兵の数を計算してみましたところ、捕虜・便衣兵が約八万八千名ないし七万九千名、殲滅された投降兵が約二万七千名(第十六師団の下関掃蕩戦、第九師団の城内掃蕩戦、第六師団の城内外掃蕩戦の「戦果」)合せて約十一万五千名ないし十万六千名というたいへんな数字が計出されました。関係資料が全部そろっているわけではありませんから、総数はもっと大きくなるわけでしょう。もちろん、個々の数字には、たぶんに誇張や誤断もあろうかと思いますが。



 中国(台湾)の公刊戦史では、当初は十万、落城時に三万五千ないし五万と書いていますね。一方参戦者の話を聞きますと、論功行賞の関係もあって当時の日本軍の戦闘詳報では、死体とか捕虜の数は平均三倍ぐらいに膨張しているそうです。ですから捕虜十万とあれば、実数は、三万前後と見ていいんじゃないかと思います。ですから「中島日記」に出てくる数字も、あるいは三分の一ぐらいが実数なのかもしれません。



 それについては、私がそのうち全部証拠をあげて本を書きますから、皆さんで検討してみて下さい。(笑)



 南京戦に参加した日本軍の戦闘詳報で残っているのは、第十六師団の歩兵第三十八連隊(奈良)と第三十三連隊(津)だけなんです。三十八連隊の詳報に捕虜七千二百という数字が出てきます。この捕虜がどうなったか、戦闘詳報ではわからない。三十三連隊の方は、「捕虜三千九十六(処断)」とあるんです。「処断」というのは、殺したと解釈していいでしょう。「中島日記」には捕虜七、八千を「片づけ」とありますから、ひょっとしたらこれが三十八連隊の七千二百に該当するのかもしれません。



 十二月十四日に第三十八連隊の第十中隊が仙鶴門で捕えた捕虜ですね。



 ええ。



 『野戦郵便旗』の著者佐々木さんが、十二月十七日に中山門でも七千二百人の捕虜を見たと記してますから、これはいったん城内にい入れて、監獄に収容したんじゃないでしょうか。



 正確に言えば「中島日記」には「処理する予定(十三日)」と書いてありますから、いったん城内へ入れたのかもしれないですね。


田中
 「処理」と言っても。即殺害とは限らないですよ。南京の中には、捕虜収容所が二つあり、馬群にもありました。ここに収容したり、上海の収容所に送ったといいますね。もう一つは、本多勝一さんが多数の捕虜を釈放している情景を書いています。同じ内容の手紙が二十連隊の衣川武一という人から私のところに来ています。それによると数百名の捕虜を弁当まで持たして釈放したというのです。ですから、「処理」即殺害を意味しないのです。



■命令の出所はどこか

 それもありましょうけれど、ごく最近知ったのですが、いったん刑務所に収容されたらしい問題の七千二百名の捕虜も、けっきょくは処刑されたようです。佐々木さんは『野戦郵便旗』のもとになっている従軍日誌をお持ちですが、それには、「七千二百名とかで、一挙に殺す名案を考慮中だと、引率の将校が話した」云々とあります。


半藤
 数の問題はともかく、これまでのお話をうかがっていますと、捕虜を命令によって組織的"処断"したことはどうやら動かないことのようですが、では、その命令はどこから来たのか。師団長クラスなのか、もっと上の中支那方面軍ないし第十軍や上海派遣軍という軍単位の上部から来たものなのか。「中島日記」を見るかぎり、最前線の戦闘部隊の判断ではなく、もっと上から来たようにも思えますが。



 方面軍の方針として伝わったのはたしかでしょう。命令というか示唆というか、その辺がまだハッキリしませんが・・・・・・。そうした方針に対する対応は部隊によって違っていたようです。指揮官の性格にもよるでしょうし・・・・・・。


半藤
 第十六師団は方針に忠実だったわけですね。



 中島指弾は命令の如何にかかわらず、積極的にやったようですが、連隊レベルでは、文字通りに実行したところもあれば、山田支隊のように、黙殺して捕虜を釈放したところもある。結論として、捕虜の処刑は、南京戦に参加した師団全部にわたってやっていたと言えましょう。


半藤
 命令の出所はどこなのですか。



 以前から、長勇中支那方面軍参謀の名前が出ています。田中隆吉は、長が松井軍司令官の名前をかたったと述べたのを聞いたと書いていますが、それが正式命令なのか私的命令なのか微妙なところです。捕虜を沢山かかえこんだ部隊は、上級司令部に問い合せたと思います。それに対して居あわせた参謀が適当な返事をするというケースも考えられる。
 私の推測では、おそらく文書形式の軍司令官命令は出ていないだろうと思いますが、軍司令官や参謀の大多数は、捕虜を処断すべしという長の主張を黙認したのではないでしょうか。


鈴木
 第十三師団の山田栴二(歩兵第百三旅団長)さんという元少将を取材したことがあります。彼の部隊は直接戦闘をしたというより戦力を失った捕虜の方から勝手にやって来た形なんですね。そこで万を越える捕虜をどうするんだと方面軍に問い合せたところ、長勇からメッセージが届いた。その内容は「殺せ」という意味だったらしい。しかし、山田少将はメッセージをもってきた若い将校に、「君、これが殺せるか」と言ったところ、その将校はクリスチャンでインテリでしたから「閣下のおっしゃる通りです。もう一度帰って長さんにその旨報告します」と帰っていったんですが、返事がなかった。時間はどんどんたつし、このまま放置すれば全員餓死することになる。


半藤
 そこで、山田少将は独断で捕虜を釈放しようとしたんでしたね。


鈴木
 そうです。揚子江の対岸に逃がさないと、後方の本隊に対して、司令官として面目が立たない。で、舟を捜したが、おいそれとは見つからないわけです。実を言いますと、この時の有様を細かく日記の形で記している少尉がいましてね。是非みせてくれと言ったのですが、さんざん迷った挙句「これは棺桶にもっていくのだ」ということで見せて頂けなかった・・・・・・・



■私物命令か幕僚指導か

 少尉の日記の話は、はじめて聞いたように思いますが、先日ある伍長が、捕虜の対岸釈放計画はウソだと証言していますね。



 捕虜の処刑については、長勇が「オレがやらせた」と得意気にしゃべっているのを聞いた人が、何人もいるんですね。


田中
 軍隊用語でいう、「私物命令」というやつですね。命令には必ず師団長なり、司令官なりの署名を必要とします。参謀が命令など出せません。



 「私物命令」なのか「幕僚指導」なのかはっきりしません。


田中
 松井大将は十二月七日に「南京攻略戦に関する命令」を示達しています。それによると、「部隊ノ軍旗風紀ヲ特ニ厳粛ニシ、支那軍民ヲシテ皇軍ノ威武ニ敬御帰服セシメ、苟モ名誉ヲ毀損スルガ如キ行為ノ絶無ヲ期スルヲ要ス」とあり、また「掠奪行為ヲナシ又不注意ト雖モ火ヲ失スルモノハ厳罰ニ処ス」と命令しています。
 軍司令官が捕虜の殺害など命令するはずがありません。だいたい、長勇とか田中隆吉などは、いわば、軍隊のアウトローですよ。



 「私物命令」を出せばすぐバレるはずですから、しかるべく処罰されてよいのになされなかったということを思うと、方面軍も黙認したと考えざるをえない。


田中
 それは軍隊のことをご存知ない方のおっしゃる言葉です。


鈴木
 この辺は、司令官が参謀をコントロールできないほど当時の日本軍のタガがゆるんでいたということでしょうか。


半藤
 松井軍司令官が、この事件を聞いて愕然としたという記事がありますね。「泣いた」かどうかは別として、犬飼健が『揚子江は流れている』に書いていますね。松井さん自身は、黙認するまでは至っていなかったのではないか。



 そうかもしれません。しかし、仮に後で知ったとしても、松井は長を処罰できなかったのですから、アウトロー的参謀にはまったく無力だったのでしょうね。


田中
 秦さんは、松井軍司令官が中島師団長や長参謀をクビにできるとお考えですか。



 上申すればいいんですよ。ガタルカナル戦でも旅団長が第一線で総攻撃に移る直前に師団長命令で職務停止になっているし、インパール戦でも牟田口軍司令官が上申して、三人の師団長をクビにしているのですから。


田中
 松井軍司令官の下に上海派遣軍司令官の朝香宮中将がおられ、その隷下に中島師団長がいるのですよ。朝香宮から中島師団長をクビにしたいという相談があれば別ですが、しかしそれでも師団長は親補職ですから、陛下の命令がなければできません。まして朝香宮をさしおいて、その上にある松井軍司令官が師団長をクビにはできません。軍隊というのは、そういうところです。



 本当に、松井大将は何もできなかったのですかねえ。疑問です。



 やろうと思えばできたと思います。陸軍の最長老ですからね。それに南京陥落直後に阿南人事局長が現地をまわって幹部クラスの勤務評定をやっています。評判が悪い人は、その後の昇進がストップしています。ところが、中島中将は評判が悪いのに、軍司令官へ昇格するんですよ。
 

田中
 いかに最長老でもそれ相応の軍規にのっとった手続がないとダメですよ。



■松井大将の「戒告」と「嘉賞」

 手続にかかわらず、この件については、松井大将は徹底的に調査究明して責任を問うべきだったのに、やっていませんね。しかも松井大将自身が戒告を受けているのに、「中島は言うことをきかぬ」とあちこちでこぼすだけで、中島を戒告することはやっていない。


田中
 いかに長老でも「軍の統帥」は乱せません。秦さんは、松井大将が「戒告された」とおっしゃいますが、中支那方面軍司令官を戒告できるのは、天皇以外にないんじゃないですか。参謀総長陸軍大臣が戒告できるはずはありません。


半藤
 天皇のお言葉を、参謀総長が松井大将に伝えたということではないのですか。


田中
 それはいつでしょう。天皇は松井大将に対して、戒告どころではなくて嘉賞までされているんですよ。松井大将は、十三年の二月二十六日、葉山御用邸に伺候して天皇に拝謁を仰せつかっているんです。


半藤
 凱旋してからですね。


田中
 そこで詳細な軍状報告をいたします。陛下からは非常にご苦労であったということで、銀製の花瓶一対と金七千円をご下賜されているんです。さらに次のようなお言葉を賜わった。「卿前ニ上海派遣軍司令官ニ任ジ、次デ中支那方面軍司令官トシテ、?こん外(国境の外に出征する軍隊のこと)ノ重任ヲ荷ヒ、錯綜セル国際関係ト困難ナル戦局トノ間ニ処シ、克ク皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ。朕 親シク復命ヲ聴キ、更ニこ卿ノ勲績ト将兵ノ忠烈トヲ惟ヒ、深ク之ヲ嘉ス」というお言葉をいただいているんです。これは、今度、出版される『松井大将伝』にも載っていることです。



 それには、戒告を受けたという記事はないんですね。


田中
 ないですよ。だから、戒告を受けたという話がどこから出たのか、誰が戒告したのか不思議でならないです。



 典拠は当時の参謀本部作戦課長河辺虎四郎大佐(のち中将・参謀次長)の回想録です。そのなかに、「南京攻略の直後、私が命を受けて起案した松井大将宛参謀総長の戒告を読んだ大将は、誠に済まぬと泣かれたと聞く」とあります。ですから、田中さんがおっしゃる御嘉賞の言葉というのは戦闘行動に対するもので、戒告の方は非軍紀的行為に対するものとして、私は分けて考えたいんです。


田中
 戦闘行為は嘉賞するが、非軍紀的行為は戒告する。さあ、そんなバカなことがあるでしょうか。常識では考えられません。



 戒告と御嘉賞が同時に出るというのは当時の日本の姿を象徴していますよ。



■国際的大問題になったのは戦後

 さっきの松井大将がガクゼンとしたという件ですが、これは捕虜の集団虐殺もさりながら、むしろ日本軍将兵の南京市民に対する無差別殺戮や強姦・掠奪といった残虐行為があまりにひどかったことを知ったからではないかと思いますが。


田中
 松井大将の名誉のために申しあげますが、大将は決して天皇から戒告など受けていません。参謀総長には、戒告の権限はありません。秦さんの本(『日中戦争史』)のなかに、当時、そういうこと(虐殺事件)があったことは言わないように口止めされていた、すなわち箝口令が布かれたというくだりがありますね。



 「報道を禁止された」という表現だったと思います。


田中
 ええ、その「報道禁止」があったから南京のことは日本国民に知らされなかったとおっしゃりたいわけでしょう。


半藤
 それは、日本内地の話ですね。


田中
 いや、内地にしろ外地にしろ。



 命令はなくても、それに類したことはあったんでしょう。


田中
 いや、ないです。絶対にないですよ。



 事実上の検閲ということですよ。書けば石川達三の『生きている兵隊』のように発禁になってしまうんですから。


田中
 私自身も南京に行っており、また南京に入城した兵隊さんに会うたびに聞くんですよ、「南京でのことを内地に帰って喋ってはいかんと口止めされましたか」って。そうすると、答は「そういうことは全然ない」という。当時の新聞記者の人々にも聞いています。新聞記者諸氏の答も揃って「そういう制約は何一つなかった」といってます。


半藤
 逆をいえば、南京事件そのものを日本軍は重大視していないということだったのではないですか。国際的な大問題となったのは戦後のことで、当時としては、それほど大問題ではない。こう田中さんは見ているわけなんですね。


田中
 ちがいます。虐殺などなかったんです。中国側の何応欽上将の「軍事報告」が十三年六月に出ていますが、これは中国側の「第一級公式資料」です。この中には上海・南京戦を含む中国側死亡者は七万六千四百六十人とでています。捕虜の処刑も南京虐殺についても何も出てこないんです。日本の教科書はどれも筆を揃えて「世界の非難を浴びた」と書いているが、当時は、世界の非難など浴びてはいません。国民党も中共軍もともに非難してはいません。なかったことを非難するわけにはいきませんからね。



 田中さんはなにを証拠にそういわれるのか知りませんが、『出版警察報』や、森恭三さんの『私の朝日新聞社史』を見ただけでも、そんなことはいえませんね。軍事報告ではともかく、当時、漢口で出ていた『大公報』や中共系の『新華日報』も盛んに書いています。


田中
 非難した国があったらどこの国か教えていただきたいものです。当時の南京の人口にしても、米・英・独等第三国人十五人によって組織された「南京安全区国際委員会」が発表している数字によると、占領当時二十万人の人口が、三週間後の正月になると二十五万人に増えています。



 それについて、ちょっかいを入れていいですか。


田中
 どうぞ、どうぞ。



■一日に五万人が殺された

 たしかに田中さんの言われるとおりです。なぜそうなったかといえば、登録をやった結果なんです。それが十六万という数字になる。このなかには、老人とか子供とかは入っていないから、それを基礎に推定しなおして二十五万人となるわけです。その差、五万人は外から城内へ帰ってきたものだと、簡単にはいえませんね。二十万、二十五万といっても、数字自体はかなりいい加減なものです。


田中
 南京の人口問題については、私は詳しく調べたことがあるんですよ。『文藝春秋』昭和十三年二月号にリリー・アベックという婦人が「南京脱出記」というのを書いています。これには「いま、南京の人口は十五万人を数える」と書いてあります。また米誌『ライフ』には「日本軍は、十五万人の南京市民が避難した安全区を、ちょっぴり尊重した」と書いています。
 松井大将は、「陣中日誌」の中で、南京の残留市民は十二、三万人と書いている。佐々木到一少将は「城内に残った住民は、おそらく十万内外であろう」と書いています。ダーディン記者は約十万と見ている。そして、そのどれにも安全区以外には住民はほとんどいなかったと書いてあるんです。
 さらに南京の日本大使館の発表によれば、一九三八年二月上旬に難民区を出て自分の家に帰った人々の統計がでています。南京を五つに分けて、そのうちの二つの居住区に十万人の市民が戻ったとなっています。一月十六日から二月四日まで一万百十五戸、人口にして五万四百四十六人、これが第一区に戻った。一月十三日から二月四日までに一万二千七百九十六戸、人口にして四万五千七百四十六人が第二地区に戻って居住した人々です。この両者に、難民区の十五万人をあわせると二十四万人、ちゃんと安全区国際委員会の発表している数字と合っているんですよ。



 スミス(金陵大学=現在の南京大学教授)の調査ですと、三月末の安全区の住民は九万五千余名ですが、十五万人というのは、やはり大使館発表に見えている数字でしょうか。それともともかく当時の状況下で、一月にすでに五万人もの市民が避難先から帰ってきたなどということが信じられますか。


田中
 三月末のスミスの調査は二十二万千百五十人ですよ。ともかく市民の人口はどんどん増え続けているのです。(新聞のコピーを示して)この写真は「朝日」の河村特派員が十七日に撮ったものですが、この通り大勢の難民が帰ってきています。人を見れば殺し、女を見れば強姦し、家を見れば火をつけ、死屍累々、町の中には二条の血の河が流れていた---そんな生き地獄のような所へ、どうして難民がこのように帰ってきますか。毎日人殺しが続いた。一日に五万人ずつが殺された---。



 その写真のことなら、田中さんが昨年十月号の『文藝春秋』に発表された論文を読んで知っております。そのとき縮刷版をひらいて確かめたんですが、問題の写真のキャプションは「行軍に保護される避難民の群」とあるだけで、その「避難民の群」が城外から復帰した市民だという説明はついておりませんでしたね。それに、毎日五万人ずつ殺されたなどというそんな記事が何にあるんですか。



■そばづえと無差別殺害
田中
 こんど出ました中国側の公式発表と称する『証言・南京大虐殺』をごらんになりました?



 読んじゃいますが、毎日五万人なんて、そんな記事は見てはいませんね。


田中
 しかし、このでたらめが中国政府が始めて発表した公式資料による本だというので、朝日、毎日あたりは高く評価しています。 



 いや、あれは公式資料とは反対の「内部資料」で、中国側も未検証として、公表していないものです。朝日はなにも報道していませんよ。ともかく「毎日五万人」はあなたの創作だ。(笑)
 こりゃ問題になりませんね。ただ、十二月十三日から十四日にかけての掃蕩戦ではある程度市民も巻きこまれて殲滅されたでしょう。


半藤
 大混戦ですから、たしかに巻きこまれたと思いますよ。



 あとは、便衣兵狩りのそばづえと、兵隊の無差別殺害ですね。



 その点については、スミスの統計はかなりの信用度があると考えられます。あれだけのお金と努力をかけてやったんですからね、読者の方で、スミスの統計をご存じない方がいらっしゃると思いますので、ごくファンダメンタルなことを申し上げます。スミス調査というのは、日にちまで非常に細かく書いてあります。十三年三月八日から二十三日まで、まず、農村調査があり、引きつづいて都市調査が行われています。これは、五十所帯に一所帯の割で調査したもので、精度は非常に高いものです。


半藤
 ただ、当時の調査方法が現在のように進んでいないので、誤差は若干ありますね。


鈴木
 ええ、統計上のミスというのはあると思います。ただし、スミスは調査員をわざわざ養成して、さらに農業経済学部で養成された経験者が管理者として加わった、と言っていますから、その点では信用度が高い。
 これによりますと、南京市の人口は、日本占領前最大時で、約百万と推定されています。が、たびかさなる戦闘があった結果、調査した時期には二十二万一千五百人であったと報告します。うち、この時期に難民キャンプに残っているのは、全人口の一二%に減っていて、二万七千五百人となっています。この難民キャンプというのは収容所のことです。さらに非武装地帯である安全区には六万八千人の人がいました。ですから、両者とあわせますと四二%、約九万五千人の人々が非武装地帯にいることになります。
 スミスは、大変注意深くて、中国人、日本人という名前をこの中で使っていません。つまり戦争の被害という観点から物事を見ているわけで、一応、ここで考えられることは、南京陥落直後、人口の九○%以上の人々が集っていたとみられる難民区から、三ヶ月か四ヶ月たつとおよそ半分の人が出ていったことになります。


半藤
 それは、安全区から住民区に出ていったというよりも、安全区の人口そのものが減ったというだけの意味ではありませんか。


鈴木
 減ったという意味です。ただ、今申した通り、当時南京の人口は約二十二万人であった。そのうち難民区にいたのが九万五千人ということですから、結果としてその分だけ出ていった、出てゆけるような状態になっていたということになると思うんです。



 出ていったとおっしゃいますが、あれは日本軍が「出ろ」といった命令によるのですね。出なければ、収容所を閉鎖すると脅しているんでしょう。


鈴木
 いや、その点は、この統計のなかからはわかりません。



 いや、統計じゃなくて、私の調べによると、そうなんです。必ずしも自発的に出たわけじゃないんです。


鈴木
 そうなんですか。



 出ていったら強姦されて、また戻ったり・・・・・・。結局、治安が確立するのを待ってみんな出ていくんです。


田中
 私の調査によれば、南京入城式の翌日の十二月十八日には、もう露店が出るんですね。市民の日常生活が始まっている。理髪店が街頭に出るとか・・・・・・。



 たしかに、そうしたことが当時の日本の新聞に出ましたが、どこまで確実で、一般的なことか・・・・・・。



■一面だけの記事の危険性
半藤
 これまでの議論で確認できるのは、十二月十三日、十四日の掃蕩戦及び便衣兵狩りで、沢山の市民も巻きこまれただろうということですね。城内、城外を問わずです。しかし、十七日の入城式を終ったあとは、城内ではかなり治安が保たれていたということは、言えると思いますね。



 一応は、そう言えます。ただ、このあとでもう一回、ピークが来るんですね。十二月の末から一月の初めにかけてです。下関附近で日本軍が大量処刑をやっています。収容所に入れていた捕虜や国際安全区から便衣兵を引き出したものと思われますが。


半藤
 たしかにそうです。おっしゃる通りのピークがもう一度来るんですが、一方で、姑娘が晴着を着飾って歩いていたというのもまた事実だと思うんですよ。


田中
 私もそうだと思いますよ。



 それは、それで正しいことだと思います。 



 私の場合は、歴史家として、そういう面だけを書いた記事を重視するわけにはいかないんですよ。できるだけ沢山の真偽とりまぜの資料を集めて、これを一々、充分に史料批判して、これは本当らしい、いやこれは違うと選りわけた上で、それを綜合して、真実に近いものを描き上げていくのが、歴史家のやり方なんです。一面だけの記事なり、資料などで、ものを論じるのは危険なんですよ。
 十三日、十四日の掃蕩戦の時に、市外からなだれこんでいた農民たちには入る家がないでしょう。みんな、家を閉めきっているんだから。路上にあふれていたのが、いわゆる敗残兵と一緒に相当やられてると思うんです。中国側は、このような難民で屠殺されたものが非常に多かったことを主張していますが、最近、板倉由明氏がそうした難民の死亡者を四、五千人と計出しています。もとより板倉氏とて、これを確数として認めているわけではないでしょう。


鈴木
 しかし、ダーディンの手記を見ると、掃蕩戦の時には、城門を閉めきっていますよ。


田中
 歩哨も立っていた。どうして十三日、十四日の掃蕩戦の最中に、城門を超えて難民が入ってくることができますか。


鈴木
 城門の南の方の周囲数キロは、国民党の軍隊が焼き払っています。そして、焼き払ったあと、城門も全部閉めており、南京攻撃戦のとき日本軍もそこをこじ開けて通っていない。全部城壁を乗り越えて入っています。ですから、郊外からの住民が城門になだれこんだということはありえないと思うんです。



 そりゃもちろん、周辺の住民が城内に入ったのは十日以前のことでしょう。



■良民と便衣兵の区分は困難
田中
 さきほどのスミス博士の「戦争被害調査」が、一番科学的で信憑性のある数字だという話がありましたが、そのスミスの調査によると、日本軍の暴行による南京市民の被害は二千百三十六人です。また、金陵大学大学の学生が南京周辺の六県を全部調査しているんです。農作物、農機具の破損状況、家屋の破壊状況をです。学生が二人一組になって農民から聞き取りをしているんですが、「ここで何人もの農民や兵隊が殺された」などという話を彼らは全然、聞いていません。聞いておればそのことをスミスは「注意」か何かに記録するはずです。



 あれは推計調査ですから、調査員が周辺の町村で軍民大虐殺の話を聞いたからとて、まとめられた調査報告にそのことが書かれるわけもないでしょう。
 では、もう一つ先に話を進めますが、東京裁判の時、このスミス報告をなぜ弁護側は証拠資料にしなかったのか。これは弁護側にとっては有力な証拠ですよね。


田中
 それには諸説ありまして、裁判長が握りつぶしたという説、また当時の弁護側というのは手弁当でやっていましたから、そういう生活のなかで、南京まで行って証拠をとってくるなどできなかった、という説です。



 普通の場合ですと、書証が却下されれば、そのことが速記録に必ず載りますよね。それに、これは印刷物ですから、そう入手しにくい資料ではありませんしね。


鈴木
 スミス報告書の序文を書いているのがベーツですね。ベーツは検事側の証人です。刑事側証人が序文を書いている本を弁護人側が使うのはちょっと、という心理的なものがあったのではないでしょうか。



 しかし、あの資料こそ弁護側が逆手にとって使える資料ですからね。



 南京事件については、日本側弁護人には徹底的に争うという姿勢はなかったと思います。速記録を読んでもわかるのですが、三十万が二十万になろうと、十万になろうと、数の問題を争ってもしようがないと判断したのか、最初から熱意を欠いていますね。


半藤
 南京事件を問題にする時、どうしても避けて通れないものに便衣兵(隊)がありますね。この便衣兵と市民の区別は、どうなんでしょうか。一説には姑娘狩りも便衣兵を探すためだと言われましたが・・・・・・。



 姑娘狩りと便衣隊狩りは別物です。便衣隊狩りで見当をつけ、兵隊が上官の目をかすめて、次に姑娘狩りへ出かけたようです。



 便衣兵狩りで一般人がどれくらい巻きぞえを食ったか、これがよくわからない。スミスの調査だと、拉致されたまま消息不明になった者は、四千二百名と推計されてはいますが。


田中
 便衣隊と市民の差がなかなか見分けにくい。


半藤
 本当はそこが問題なんですね。


田中
 信夫淳平博士が「戦時国際法講義」という本を書いています。この中に、交戦法規というところがあります。簡単に言うと、交戦者というのは、一は、指揮者がいるということ、二は、遠方より認識できる記帽や制服を着ること、三は、公然と武器を携帯していること、四は交戦の法規、慣例及び手続きに従って行動することとなっています。そして、信夫博士は、一九○七年の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(一九一ニ年二月十二日 施行)に、「以上の条件を具備せざる武装隊は交戦者たるの資格を有せざる者として、これを正規の敵兵とは認めず、捕えた場合は、裁判によらずして処断することを得」と述べておられます。


半藤
 要するにスパイということですね。



 問題は、助川連隊の記録が表現しているように「良民と便衣兵の区分困難なり」というところにあるんです。区分が困難だ。じゃ、どうするかといえば、入城式で宮様へ危害が及んでは大変だから良民も一緒にやってしまえということになったんでしょう。



 戦意を失っているだらしのない連中が大半なわけでしょう。もともと軍人なんだから、これを捕まえるの当然ですが、なぜ、武器ももたない「便衣兵」を捕虜としての扱いをしなかったのか。


田中
 松井大将の日記によれば、難民区に便衣隊が大分入っている中山北路などは便衣隊が脱いだ軍服、軍帽など山のようにあった。その数、五、六千人といわれます。そこで第七連隊が捜査するんですね。すると、その難民地区から機関銃とか対戦車砲とか、拳銃とか武器・弾薬が続々と出てくるんです。彼らがいつ日本軍に対して反旗をひるがえすか解らない、当然そうした危惧はあったと思います。



■便衣戦術に閉口

 福田篤泰氏も、安全区から隠匿武器が発見されたと言っていますね。だが、お二人ともまちがってるんじゃないいでしょうか。第七連隊が掃蕩戦で武器を鹵獲したのは、十二月十四日、その担当区域である、安全区の西側と西北側を掃蕩した際のことで、その記録ならあると思いますが。



 歩兵第七連隊の記録に「掃蕩実施に関する注意事項」というのが残っています。その第四項に「青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と看做し、すべてこれを逮捕、監禁せよ」とあるんですね。これを読むと弁別は無理だという前提に立っているようです。


半藤
 全部引っ張るわけですね。


田中
 いや、それは、ちょっと違う。どうして秦さんはこうも日本軍のことを悪く悪く解釈するんでしょうね。摘出は日本の兵隊だけでやったのではなくて、中国人が通訳として立会っているんですよ。第七連隊の伊佐一男大佐の命令を見ると便衣隊の摘出は極めて慎重を期しています。


半藤
 中国軍は軍閥時代の名残りをうけている軍隊ですから、ゲリラというか便衣隊という戦術が確立されていたんでしょう。



 そうでしょうね。


田中
 国際法違反であるということを中国側は知らないわけはないですよ。こうした違法をあえてすれば、良民が巻きぞえを食うのは分りきったことです。



 だが、南京の「便衣兵」にかぎっていえば、ゲリラというような、ある意味では立派な兵隊じゃなかったんです。


鈴木
 ダーディンがいった中世という言葉にこだわるようですが、当時そういう国際法、といったような認識というのは、日本軍にも中国軍にもなかったと思うんですよ。軍服を脱げば直ちに平民なんだという意識があるんですね。中国軍隊は給料制ですから、本隊に帰ったときに自分が兵隊であることを証明しなければ給料はもらえない。したがって、靴の底に認識章を隠し持っていたりする。


田中
 「摘出者約二千名は捕虜として外交部に移す」と佐々木少将の回想記にあります。


鈴木
 さきほど、若い人は何でもいいから徹底的に連れ出せという話がありましたが、ここで一枚の写真をお見せしたいと思います。これは大変に情緒的な表現になるかもしれませんが、この写真(と一枚の写真をとりだす)を時々眺めてみるんです。

 この写真は、十二月十四日から十八日の間に安全区内で撮られたと撮影者の伊藤さんは言明しています。ここには五十人ほどの人間が映っていますが、適齢期と思われる男性も何人かいるわけです。もし、若者は徹底的に殺される、というものすごい恐怖が、この時期に蔓延していたとすれば、これだけの数の人間が日本の兵隊の間に混っているということは、ちょっと考えられないんです。
 このようなことから考えて、とにかく若い奴は全部殺してしまえというのではなくて、少数の乱暴な日本兵が、国際法規も常識もわきまえずに、勝者のおごりから、勝手に人足になりそうな男たちを連れ出した、ということではないでしょうか。われわれの経験からしても学校の一つのクラスに一人や二人の問題児がいますね。軍隊でも当然同じことで、そういったたぐいの連中が個々バラバラにいろいろなことをやった。いまの問題も全部システマチックに事件が行われたということは、どう拡大解釈してもあり得ないと思うんです。


半藤
 日本軍には、ゲリラ戦というか、便衣兵に近い戦術というのはないんですね。戦史をみても、日露戦争の時の敵中横断三百里、これは斥候でしたが、あとは横川沖の潜入、せいぜいこのくらいのことでして。後方撹乱という戦術がない。ですから、中国戦線でやたら便衣戦術をやられて本当に困りきったと思うんですね。



 その怖れはみんな持っていた。


田中
 常民や婦人に対してまで非常な疑いを持っていた。



 十七日の入城式というタイムリミットがあるでしょう。十三日から十七日までの間に便衣兵を全部処理しなければならない。これでは日本軍もあせりますよ。


半藤
 その上、軍司令官に朝香宮さんがいた。



 そうそう。もし撃たれでもしたら大変だと。


半藤
 それと、昭和陸軍の捕虜ということについての特殊な観念があった。



 日本軍は捕虜になることをタブーにしてきましたね。だから相手の捕虜を認めるという観念がなくなってくるのだと思います。それでも日露戦争の頃には、捕虜で生還した者でも金鵄勲章を受けています。ところが、そのあと徐々に捕虜がタブーになってしまいます。
 このタブーと捕虜虐殺を内面的に関連づけるデータがあります。昭和二十年、父島で捕虜を殺して人肉を師団長以下が食べた事件があるんですが、グアムの軍事裁判で死刑の判決を受けたある大尉が、見舞った堀江参謀に「捕虜になると、国賊扱いにする日本国家のあり方が外国人捕虜への残虐へと発展したのではないのか、捕虜の虐待は日本民族全体の責任なのですから、個人に罪をかぶせるのは間違っていませんか」(『歴史と人物』秘史太平洋戦争)と涙を流して訴えているんですよ。


田中
 しかし、その言い方はおかしいではないですか。



 日本軍が捕虜を認めないとなれば、兵隊が相手の捕虜を殺しても文句をいいにくい。私は、ここに捕虜虐待の基本的な構造があると思いますよ。便衣兵はもちろんのこと、投降兵や捕虜が試し斬りの材料にされたのも、ここに一因があると思います。


鈴木
 ちょっと話は飛びますが、日米戦争の時は、アメリカ兵を捕虜にして日本に連れてきていますね。連れてくるだけの輸送力なりメカニズムがちゃんとあったんですね。ところが、中国大陸の場合は、そういうメカニズムがまったくなかった。



 そうそう。


鈴木
 完全なポリシーなしに、中国大陸をズルズル南京まで行ってしまった。そこで問題となるのが、南京の地形です。ここは、後ろに揚子江という海に似た大河があって、これにニ方を囲まれている。しかも城壁がある。事件が起るための悪条件が重なっていた。ほかの所なら起きないような事件が、南京であるが故に起きてしまった。


田中
 たしかにそういう点はありますよね。


鈴木
 最初にレポートした西欧人の目から見れば、当然の常識というものがあって、アメリカ軍がドイツと戦争をすれば捕虜はこういうふうに扱うという国際的常識があったんでしょう。そういう人たちが日本の戦争を見て、「なんだ、これは中世の戦争じゃないか」となる。暴虐行為という点では、基本的に洞先生と全く同意見ですが、それが戦後の東京裁判という近世の次元で断罪され、国際的利害をはらむ場で報道された。こういう図式がぼくの考え方なんです。


半藤
 東京裁判のスローガンは「文明が裁く」ということですね。



■国民は知らされていなかった
田中
 私は、東京裁判以降の資料を後期資料と言っています。南京虐殺はこの時から始まるんです。これは全然信用できません。前期資料には大虐殺はないんです。



 そうでもありませんよ。私は、南京事件を関係者が敗戦になって知ったというのは、ウソだろうと思っています。それを裏づける新資料を紹介しますが、ひとつは阿南惟幾人事局長の日記です。阿南少将は一月二日に南京へ視察に行くんですが、出発前の十二月二十三日の陸軍省局長会報の内容として、「中島師団の不軍規は、国民的道義心の廃頽、戦況悲惨よりきたるものにして、言語に絶するものあり」というくだりがあります。ですから陸軍省の幹部はこの時点ですでに知っていると考えるべきでしょう。
 また上海派遣軍参謀副長上村利道大佐の日記には、十二年十月十九日の頃に「軍規上面白からざることを耳にすること多し」とあります。ですから、南京事件東京裁判でとりあげられた時、「ああ、あれか」と関係者は思いあたったはずです。国民は知らされていませんでしたから、びっくりしたでしょうが---。


鈴木
 戦後初めて知ったというのは、二つの意味があると思うんです。一つは、事件はあったけれど、自分の口からは言えないので隠したというのと、もう一つ、東京裁判で喧伝されるほどの大事件と受けとっていなかったという側面があったんではないでしょうか。ですから全然知らなかったというのはなかったのではないのか。たとえば、エドガー・スノーの『アジアの戦争』の英文版は南京事件の次の年に出ており、日本語訳が「部内極秘資料」として出されている。これなど、幹部の人間は相当読んでいるはずです。



 それに、極秘でティンパリーの著作も訳刊して、一部に配っていますね。当時、中国でも別に邦訳本を出していますが、誰に読ませるつもりだったんでしょうか。


鈴木
 スノーは、スミス、ティンパリー、あるいは直接難民区からの情報をもとに書いています。ただ、南京事件に関して、最初の本格的記事だったと思われるダーディンのレポートは、ニューヨーク・タイムズの第一面ではなく、三十何ページ目でした。ニューヨーク・タイムズのデスクは、アジアを蔑視というか軽視しているんですね。たかが、アジアの事件だ、ゲルニカのようにヨーロッパで起きたものではなかったという見方が、南京事件の場合ついてまわるんですね。この事件が西洋のインテリの目に入るのは、流行作家であったエドガー・スノーの文章が現われるまで時間がかかったということです。



■蛮行に走った原因は何か

 ちょっとコメントしますが、一月九日号のニューヨーク・タイムズが、ダーディン記者の報道を三十六面あたりに載せているのは、かならずしも南京アトロシティーズを軽視しての処置ではなく、まる一ページという長大記事のための特別扱いだったと、私は考えています。現にダーディン記者が送ったそのほかの南京事件関係の報道は、三回ともみんな第一面に載っているのです。ですから、ニューヨーク・タイムズ南京事件記事の扱いに関するかぎり、これは鈴木さんの説を支持する証拠にはならないように思われます。



 不思議なのは、下関で、捕虜の処刑をやりますよね。普通だと、こういう場合は立入り禁止にしてやるんでしょうが、誰でも見物できたし、写真も撮れる状態だったようです。実行者に国際的非難を受けるような状況をかくそうという意識がないんです。



 この事件は、中国人の間でも、当初から広く知られていたでしょう。上海のいくつかの英字新聞にも、漢口の新聞(大公報や新華日報)にも大きく扱われています。ただ、国民党の軍事報告や中共のそれには出てこないんです。これは、国民党としては士気の沮喪を恐れたからでしょうし、共産党側としても、国共合作の時代なので、あまり国民党軍の責任を責めるのはまずいと考えたのかもしれません。そのあたりの事情はよくわかりませんね。



 唐生智が部下をほったらかして逃げ出し、無秩序状態にしてしまったのは、中国側にとって大きな失点でした。それで中国共産党は戦後になってしばらく、この点をあげて国民党を非難していましたが。


鈴木
 資料的価値から見た場合、スミスにしてもベーツにしてもダーディンにしても、第三者が見た資料というのは、とにかく非常にささやかではありますが、われわれが頼りにできる数少ない一級資料だと思うんです。日本の将軍の手記と違いまして、彼らはリアリストですから、中世というより、わりあい近代に近い目で事件を見ています。ベーツは、スミスの序文で「ヒューマニズムの立場」ということを何回も書いている。当時の日本ではヒューマニズムという言葉は、ほとんど考えられない状態でした。
 ベーツの指摘で重要なのは、南京における被害を一○○%とすれば、直接戦闘の被害はわずか一%で、あとの九九%は人為的なものだというところです。日本と中国の軍隊がもう少ししっかりしていれば、あとの九九%の被害は防げたということを言っているんです。


半藤
 なるほど。


鈴木
 国民政府軍が作戦的に沢山の失策をした。焦土作戦によって住民にいらぬ恐怖と被害を与えています。これは、中国国民党の唐生智を中心とする人たちの責任です。しかし、そのあとの日本軍がやってきてからの事件については、占領軍であった日本が全部責任を負うべきなんですね。


半藤
 それで東京裁判でベーツ博士が強く日本を批判したんですね。


鈴木
 そうですね。さきほども申し上げた通り、西欧人のアジアに対する目がそもそも違います。ベーツは中国派なのです。過剰に中国を愛して、そうした極端な感情が日本非難の表現を過大にしていると思います。


田中
 日本に対しては悪感情を持ち、中国に対しては親近感を持っている一群の人たちが国際委員会をつくっていたのです。そのレポートの中でさえ虐殺事件はでてこない。


半藤
 それにしても軍規がなぜきちんと守れなかったのでしょう。



 なぜ日本軍が蛮行に走ったかという原因論ですが、南京戦の参戦者が久しく沈黙を守ってきたためにはっきりしなかった。最近になってやっと兵隊さんクラスから率直な発言が出てきた。もちろん、全部は信用はできないんですが。最近出版された曾根一夫氏の『私記南京虐殺』(正・続、彩流社)がいい手がかりになります。曾根氏は第三師団静岡連隊の分隊長(伍長)です。南京攻略戦では十二月十五日に入城して、そのあと主として城外の掃蕩戦に参加しているようです。
 ポイントを私なりに要約してみますと、第一に彼の部隊は、十三、十四日の虐殺事件には参加せず少しおくれて城外で強姦と強姦殺害を盛んにやっている点、第二に上官に対する部下の不服従がひどく、制止しても言うことを聞かない、一方末端の兵隊の質が悪かったというが、佐官、尉官クラスにも悪いのが沢山いたという点、第三に城内よりも城外掃蕩戦の被害者は多かったようだというのが、彼の体験にもとづく注目すべき見解です。


田中
 秦さんのいう曾根氏の本は私も読みました。曾根氏のいうような無法者は例外中の例外ですよ。一般の兵隊は、この南京戦が終ったら国へ帰れるんだ、晴れて凱旋できるんだと、みんなそう思っていました、軍隊は連帯責任ですから一人でも放火だの強姦だのがあったら、その部隊は残されるんだというので、お互い戒め合ってみんな真面目に一生懸命にやりましたよ。たしかに、一連隊にひとりやふたりの法外な人間はいますよ。しかしあとの九九%以上の兵隊は真面目に勤めて早く無事帰りたいという気持を持っていたと私は確信しています。


半藤
 議論はなおつきないと思いますが、一応これでとどめます。お話を通して感じられたことは、今日のわれわれもまた、武力こそ使っていませんが、世界の各地で経済的な「南京事件」をひき起こしているのではないか、ということです。その意味で、大変な歴史的教訓を本日は学んだといえると思うのです。本当に有難うございました。

*1:P68〜87