問題は「捕虜処断」をどう見るか


南京入城式70周年記念企画といった感じで、
『諸君!』 2001年2月号*1 においての行われた特集記事
  決定版「南京事件」最新報告
  問題は「捕虜処断」をどう見るか
  軍服を脱いで市民にまぎれ敵対行動に出た中国兵は、助命されるべき捕虜だったのか?
を丸写ししてみました。


■出席者
秦 郁彦 ・・・ 日本大学教授
東中野 修道 ・・・ 亜細亜大学教授
松本 健一 ・・・ 評論家・麗澤大学教授
 ※肩書きは当時のものです。

 

■「南京大虐殺」は五回あった?
松本
 二十世紀の懸案は二十世紀内に片づけるのが理想だったのでしょうが、どうも日本と中国との間の最大の懸案である、いわゆる「南京虐殺事件」に関しては、残念ながらしばらくは論争が続きそうな気配です。そもそも中国では、「南京大虐殺」(中国語では「南京大屠殺」)というのは一つの「固有名詞」であって、歴史的に定着している言葉なんです。
 先ず、漢民族国家の再興を目指した洪秀全による「太平天国の乱」が一八五○年に始まりましたが、彼が南京を占領して入城する五三年に弁髪の清国軍の兵士(満州族兵)をほぼ皆殺しにし、満州族の婦女子も焼殺して万単位の虐殺が行われました。さらに、その後、太平天国軍内部での権力闘争が激化して洪秀全が「東王」の楊秀清軍を「大屠殺」して、使者はますます増加し、おびただしい血が流れ、このために「南京大虐殺」とよばれるようになったわけです。
 次に一九一三年に、「辛亥革命」の後に行われた清朝復活を企図した張勲による「第二革命」への弾圧では、今度は逆に弁髪でない者がことごとく(数千)殺され、日本人三人も間違えられて殺害された事件まであったわけです。当時、北一輝が南京城に足を運んでいて、張勲による虐殺の実態を『支那革命外史』で詳しく記していますが、「太平天国の乱」の時同様の「南京大虐殺」が起きている。曹汝霖は張勲のことを「あの南京大虐殺をやった」男、とさえよんでいる。


東中野
 それに加えて一九ニ七年、蒋介石の北伐の国民革命軍が南京陥落後に、日英米の外国公館や領事館やキリスト教教会を襲撃したり、強姦や殺戮を行ってますね。



 だから、中国人にとっては、一九三七年に、今度は日本軍による四度目の「南京事件」が起ったということになる。


松本
 そうなんです。しかも、中国人にとって、「大虐殺」というのは、「大量の人々が惨たらしく殺された」というほどの意味であって、人数が三千であろうが、三十万であろうが、「大虐殺」にかわりないわけです。このあたりの中国人の無意識的な固定観念、言語感覚を我々日本人がよく認識していないと、幾ら議論をしていても平行線を辿るだけになってしまいかねない。


東中野
 ついでにもう一つ付け加えておきますと、侯景が五四九年に第一回目の「南京大虐殺」を引き起こしています。
 彼は漢民族ではなくて異民族ですが、梁の武帝南北朝時代に、南京を包囲し、陥落後「大虐殺」を行う。これは、司馬光の『資治通鑑』に出てくる話です。



 すると、日本軍による、いわゆる「南京虐殺事件」は、中国史上では四番目ではなく五番目というわけですね。松本さんの二つの発掘に次いで、侯景による「南京大虐殺」事件の存在を明らかにしたのは、「大発見」ですよ。


東中野
 いやいや、日本軍の「南京大虐殺」が五番目になるか、まだ不明です。しかし、松本さんのご指摘の通り、「南京大虐殺」というのは、中国人によってはもう「合成語」「熟語」であって、セット・フレーズと化した歴史用語になっているわけです。


松本
 ですから、日本側の研究者が、中国側の三十万人虐殺説に対して、そんなに死骸がないではないか、白骨死体が発掘されないではないかと論理的に反論しても駄目なんです。何しろ、過去の中国での「南京大虐殺」に於ける屍体・死骸は、侯景の例は知りませんが、太平天国の時も、張勲の時も、すべて揚子江に流されてしまったことになっているからです。つまり、「南京」では埋葬することは稀であるという前提ですから、虐殺の証拠は数日後には、水に流されて消滅してしまうことになっている。



 松井石根大将の副官であった角良晴大佐も、松井大将と一緒に揚子江の岸辺を巡視した時に、何万という死骸が流れていくのを見たと証言していましたね。


東中野
 太平天国の時などは、揚子江を流れる死体が多くて、船にごつんごつんと当たるとリンドレー『太平天国』(東洋文庫)には記されていますが、しかし今のお話からは中国と同じく日本軍も死体を揚子江に流したと連想させられます。ところが日本軍が占領した後で、揚子江には英米の船がいくらでも通航していましたが、そんな事実を記してるものは特にない。又、日本軍が死体を揚子江に流すという発想に立っていたなら、お金を払ってまでして埋葬させることもなかったはずです。
 それに秦さんの言われる角証言は、死体が河に流れていたとは言っていません。十二月十八日、市民の死体十万体が下関の陸上に広がっていたと言っています。
 ところが下関にいた秦山弘道海軍軍医の十七日から十九日の詳細な日記などは全くこの死体の存在に触れていません。仮に死体が流れていても上流からのものであり、日本軍の流した死体に結びつけるのは性急すぎます。


松本
 ただ、今でも揚子江に飛び込んで死ぬ人が毎年何百人かいる。それほど、中国人にとって揚子江というのは「死体が流れる場所」という認識が強いんですね。
 とにかく、そういう風に、中国人の意識の中には、「南京」と聞けば「大虐殺」、という刷り込みが歴史的に行われており、そういう神話的構造が存在している事実を日本人や欧米人も、日本軍のいわゆる「南京虐殺事件」を考える上で認識しておくことは必要だと思います。



■シンボルとしての「南京」

 そうした構造に加えて、中国人にとっても、また日本人の大虐殺派にとっても、自分たちの主張を世界に訴え浸透させるためにはシンボルが必要になってきます。ヒトラーユダヤ人虐殺にしても、強制収容所といえば、トレブリンカとかブーヘンワルトとか他にもいろいろあるんですが、何といっても大シンボルはアウシュビッツですよね。ここはもはや聖地扱いです。ホロコーストといえばアウシュビッツと誰でも連想するぐらい有名になっていますが、同様に日中戦争でもいろいろな激戦の地があって中国人もあちこちで残酷な目に遭っているのですが、その最大のシンボルとして南京が登場しているわけです。


東中野
 残酷と言えば、日本人も残酷な目に遭っています。通州の虐殺、第一次、第二次上海事変など。しかし日中戦争の残虐性の象徴と言われる南京市民三十万人虐殺は、実質をともなっていず、この説は、崩壊しつつあるのが現状ではないでしょうか。



 そのあたりは議論の分かれるところですが、戦争の場合、人名に対する価値観は時代とともに大きく変動しています。例えば、第二次世界大戦では各国とも何十万、何百万という死者を出しましたが、戦後はベトナム戦争アメリカは五万人死ぬとあきらめ撤退してしまった。その教訓から、湾岸戦争ではハイテク兵器を駆使して地上戦を可能な限り避けて百人単位の死者数に減らし、コソボ紛争では空爆だけで戦死者はゼロになってしまいます。攻撃する側が一人も死なない戦争が実際に起きたわけで、今や二十〜三十人死んだだけで「大虐殺」と言われるでしょう。


松本
 ソマリアなどでアメリカ兵士が少し死んだだけで撤退するような事態が起っていますね。



 その点、中国は人海戦術がお得意だし、毛沢東アメリカ帝国主義は「張り子の虎」で、恐くもなんともない、核兵器を中国に投下して半分死んでもまだ五億人残っていると豪語していたくらい人名は軽く見られていた。しかし、さすがの中国でも自由化が進み人命の価値はそれなりに高くなりつつある。かつては中レベルの数字だった「三十万人」は世界的にショック効果を与えるに十分な数字となっているのではないでしょうか。


東中野
 ただ、アウシュビッツナチスの犯罪を象徴する場として、長年、その死者の数がかなり誇張されていた。その数が客観的な研究によって四百万から八十万に下方修正されたのは、つい七年前のことです。中国共産党日中戦争の象徴として、三十万という数は死守するつもりでしょう。これを一人でも少なくカウントすることは許さないと見ているのではないか。「市民三十万人虐殺」は中国共産党の「政治的決定」なんですから、もちろん、増えることは歓迎でしょう。


松本
 一時は百万という説が出ていたこともあった。


東中野
 さすがにそれは消えましたね。


松本
 この南京論争に関しては、東京裁判で取り上げられたことがあるにせよ、実質的には、一九八○年代になってから始まったように思います。これは・・・・・・。


東中野
 論争に限って言えば、秦さんの『南京事件』(中公新書)が刊行された一九八六年前後からではないですか。



 いや、本多勝一『中国の旅』(朝日新聞社)が一九七ニ年に刊行されていますし、鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋)も翌年に上梓されています。何度かの改訂版を書いた洞富雄さんの最初の作品『南京事件』(新人物往来社)も一九七ニ年に出版されていますから、そのあたりからジャーナリスティックな議論が始まったといえますが、一般の感心はまだ薄かったし、洞さんの二十万人虐殺説に対してもあまり反論は出なかった。
 やがて一九八ニ年に、中国への侵略・進出表現を巡っての教科書誤報事件が起り、そのあたりから、その侵略戦争の象徴としての「南京虐殺事件」がクローズアップされるようになった。私も参加したのですが、「諸君!」が、一九八五年四月号で、「"虐殺派""中間派""まぼろし派"全員集合」(他の出席者は洞富雄氏、鈴木明氏、田中正明氏。司会は半藤一利氏)と銘打って座談会(「南京大虐殺」の核心)を開いたあたりがエポックだった気がします。


松本
 するとやはり一九八○年代半ばあたりから、論争が本格化したと言えますね。というのも、一九八三年にたまたま中国に滞在している時に、日本の新聞社から電話をもらって、「中国では南京大虐殺証拠写真集などが刊行されているのか」と聞かれたことがあったんです。ところが、中国の本屋にはそんな本は何もなかった。『抗日戦争』とかはありましたが、中身を見ても南京のことを取り上げているのではなく、外国人の撮った日清・日露戦争時代の写真などが収録されているものが多かったと記憶しています。一九八○年代前半は、中国でもその程度だったのです。



 ひところ、「ニ・ニ六産業」という用語が流行しました。「ニ・ニ六事件」の関係者や研究者が、プロ、アマの別なく手記やら著作を出していた時期があったんです。それを揶揄的に「ニ・ニ六産業」と呼んでいたのですが、今や「南京産業」とも言うべき現象が日本でも中国でも起こり、大量の「南京モノ」が盛んに出版されている。ユダヤ問題でも、最近フィンケルスタインというユダヤ人ジャーナリストが『ホロコースト・インダストリー』という本を書いていますが、お涙頂戴であれ告発物にせよ、「ニ・ニ六事件」や「南京」や「ホロコースト」をテーマにすれば、中身は別にして、そこそこ売れるんですね。


松本
 アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・ナンキン---忘れられたホロコースト』は、その両方とも入っているから、あれだけ売れたんでしょうね。「邪馬台国」論争も、一種の「邪馬台国産業」だったと言えますね(笑)。



 なるほど。しかし、これだけ関連本が続出すると、交通整理をするのも困難になってきます。



■南京の人口は増えたのか
松本
 そもそも、歴史的な事実が新たに発掘されたことによって論争が始まったのではなくて、政治的な動機から論争が始まったというのが不幸だったと思います。日本軍の南京戦に関する正式な記録もあまりないし、中国の主張を裏付ける、具体的な統計や資料もないままの三十万人説の路線を踏襲した洞さんの二十万人説などが登場し独り歩きしてしまった。その後も、いろんな説が出てきたわけですが、どうも初期の論争は実証的なものではなかったように思えます。日本軍による虐殺が酷かったというマギーの証言にしても、実際に目撃したのは一例だけであったりした。その後、偕行社や秦さんなどの研究成果が発表され、かなり客観的な論争になってきたといえますが、当時の南京城内の人口一つにしてもまだ確定的なことが言えない。
 だから、虐殺否定派が、南京には陥落当時二十万人しか人口がなかったのだから、二十万も三十万も虐殺できるはずがないとよく言いますが、これも中国側の主張同様にアバウトな議論ですね。


東中野
 たしかに、陥落後の人口が何十万であったか、確定する史料はありませんが、陥落半月前に南京の警察庁長官の王固磐が「南京には未だ二十万人が住んでいる」と発言しています。かつての百万都市は陥落前に人口二十万と推定され、陥落後もラーベたちの国際委員会はこの二十万という数字を踏襲しています。もし、中国側の言うような「大虐殺」が行われていたら、当然、人口は減少するわけで、陥落前後の人口が不変であったことは虐殺はなかったという有力な傍証になります。
 何しろ、翌一九三八年の一月十四日には国際委員会は、二十五万であると発表しています。この数字は二月三月と不変のまま推移します。そうなると、一九三七年十二月から翌年の二月まで南京城内の城門は厳重なコントロール下に置かれていたために、城内から城外、また城外から城内への大きな人口の移動はなかったわけで、また城外は事実上無人地帯であった。このあたりの史料は英語やドイツ語や日本語の文献でも一致しています。
 だから、南京城内の人口が陥落前後二十五万人で推移していたのは妥当な数字だし、一九三八年八月になると南京警察庁の報告で人口は三十万八千人となって数万人の増加になっている。



 ただ、城門がコントロールされていたはずなのに、そんなに増えるというのも奇妙な話ですね。


東中野
 そこなんです。なぜ人口が増えたのか?私の推測ですが、南京が陥落した直後、南京城内の安全地帯に潜っていた兵士たちが、戦闘が終ってしばらくしてからもう大丈夫だろうということで、市民登録にも応じたりしたために増加したのではないか。つまり、彼らは正規兵というより無理やり蒋介石によってかり出された市民の若者が多かった。そういう新兵たちが第二次兵民分離で市民として出頭し登録したから人口が増えたと思います。


松本
 ただ南京の人口といっても、南京城の城壁内にいる人口なのか、あるいは南京城壁外の、雨花台という処刑場のある集落付近も含まれるのか。


東中野
 中華門の南に雨花台がありますが、その周辺一帯は南京戦の前から立ち退きを中国軍に要求されていましたから、ほとんど無人地帯であったと見て間違いないと思います。結局、みんな城内の安全地帯に逃げ込んだわけです。そして十二月八日、陥落五日前には城門が封鎖され、それ以降は中国兵も中には入れなくなった。



 ちょっと異論があるんです。当時の朝日新聞特派員が幕府山下の収容所で撮影した一万四千人の中国人捕虜の写真がありますね。そのうちどれだけが兵士で、民間人だったのか、また、どれだけの人々が処刑されたのかという議論がつづいていますが、あそこは南京城外ですよ。陥落直後の十二月十四日にあそこに収容された人々は一体どこからきたのか。城内から逃げ出してきた人々かもしれない。一方、城外が全くの無人地帯であったとも思えない。
 城内でも二十万〜二十五万集った難民区以外の場所にも、かなりの市民が残っていたと思います。神戸大震災のときも、避難所に入らず、こわれた自宅に留まっていた市民がいましたから。また南京警察庁や国際委員会の人口推定にしても目分量ですから、信頼度は格段に落ちると思います。建前はともあれ、人の出入りはかなりあったのではないでしょうか。ですから、人口推計から虐殺の規模を推定するのは無理だと思います。


東中野
 人口統計だけを問題にしているのではないのです。南京にいた欧米人が人口変らずと述べた意味を問題にしているのです。むしろ人口が数万も増加した、その認識の意味です。


松本
 しかし、東中野さんの推論では、南京の人口が二十万から二十五万に増えたというデータがある以上、虐殺は大したことはなかったはずだというわけでしょうが、一方では、一九三六年に南京市が正式に行った人口調査では百ニ万という数字が出ていて、南京戦後の一九三八年の八月の調査で三十万八千となっている。この二つの数字は公的なもので信憑性が高いのですが、この間の七十万の人口減をとらえて、逃亡を別にして、二十万、三十万の虐殺があったと主張する推論もありうるわけです。



 だから、虐殺の人数に関して議論をする時には、日本側に残っている公式記録などを元にして、中国側の言い分と照合するといった形でオーソドックスにつめていくしかないと思います。
 一番信頼度が高いのは、日本軍各部隊の「戦闘詳報」ですが、例えば、歩兵第七連隊が難民区の掃討作戦の「戦果」を「掃討数約七千」と戦闘詳報に記録していますね。この詳報には「捕虜」の数字がありませんから、陥落後の十二月十四日から十六日にかけて、この七千人はほぼ全員が殺害されたと推定していいでしょう。殺害されたのは便衣兵(民間人の服装に着がえた兵士)と見なした連中ですが、「良民」と区別せず、取り調べや裁判を行うこともなくその場で殺害したのは国際法違反だと中国側に主張されたら、反論する余地は乏しい。



■捕虜の条件は満たしていたか
東中野
 いや、その点は複眼的に考察する必要があります。第一に中国軍は降伏勧告を拒否し、戦闘及び抵抗を継続していた。第二に「ハーグ陸戦法規」は「交戦者の資格」四条件(①指揮官が存在存在すること②軍服に階級を表す標識を身につけていること③公然と兵器を携帯していること④戦争の法規慣例を遵守すること)を規定しています。
 ところが、中国兵の場合①に関しては守備司令官の唐生智将軍が逃走しており指揮官不在であった。②は軍服を脱ぎ捨てて市民になりすましていた。③に関しては、武器をあちこちに隠匿していたことからも違反しているのは明白です。
 すると④についても、①②③といずれも違反しているわけですから、遵守していないことになる。東京帝国大学国際法の教授であった立作太郎も『戦時国際法論』の中で「正規の兵力を属する者が、是等の条件を欠くときは、交戦者たるの特権を失ふに至る」と明記しています。殺し合う交戦者が捕虜となれば、助命されますが、しかしこういう交戦者の資格四条件をことごとく踏みにじった正規兵は国際法上、捕虜とは認められず、助命されなくても仕方がなかったということになります。



 いや、捕虜としての権利がないから、裁判抜きで殺していいということにはならない。自然法に照らしても不法でしょう。古代の暴君ならともかく、こいつは悪い奴だから、その場で処刑していいというのは、文明国のやることではない。捕虜の扱いはお互い様ですから、それなりに尊重し、労働をさせれば一定の給与を与え、自国の兵士と同程度の食料を与えるのは交戦国の義務でした。


東中野
 もし中国兵が②の軍服を着用していたなら、捕虜とみなされたかも知れません。しかし軍服を脱いで私人に変装して敵対行動に出た交戦者は、田岡良一博士の『国際法学大綱』も言うように、「捕虜の待遇を受けることを得ない」のです。平時においては裁判ののち処刑されたでしょうが、中国の場合は戦時でした。


松本
 交戦者としての特権を失うのは事実でしょうが、捕虜でなければ、必ず殺されるというわけでもないはずです。
 「捕虜の資格」について、正式の裁判にかけられて取り調べの上で決定され、その判決によって死刑となるのならば合法でしょうが、捕虜ではないからという理由で捕まえた敵国兵士を戦場で裁判にもかけずに勝手に処刑することは国際法上からも容認されていないはずです。


東中野
 私も国際法の専門家ではありませんから、ある学者の説をもってして、これが全てだという気持ちはありませんが、この南京陥落においては、正規兵が軍服を脱いで抵抗するという、戦時国際法の全く予想していないことが起きた。それが重大問題と思います。
 南京陥落は十二月十三日ということになっていますが、その日から十六日にかけては城内に単純なる「敵地侵入」を行い、敵兵力の事実上の完全排除を達成し、実質的な占領が完成する。従って、入城式を行った十二月十七日からが本当の意味での南京占領の開始であり、それまでの間の戦闘は残敵の摘発であって、中国側が降伏勧告を拒否していた以上、戦闘及び抵抗の継続状態にあり、その結果、中国兵に死傷者が出たのは仕方のないことであったと思います。



 しかし、大本営が十二月十三日に南京を完全占領と発表し、日本国内では旗行列をしていたのですから、十三日以降十七日までの行動を戦闘行為というのは無理があります。松井大将が入城式を急ぎ部隊側から無理だと上申したのに、予定どおり十七日に強行します。そのさい、朝香宮軍司令官に万が一のことがあってはならぬという理由で、選別しないままに中国人の青壮年男子をすべて便衣兵と決めつけて勝手に処刑してしまったのはやはり問題です。


東中野
 でも、戦場の軍隊にとって、戦闘を停止するか否かは、両軍の「師団の指揮官」(マイヤーズ大百科事典)が降伏規約を締結するか否かにかかっているわけで、あの時点で、中国側は降伏勧告を拒否していた。だからたとえ、一時的に戦闘が膠着状態になっていたといっても、やらなければやられる状態にあったわけです。



 日本軍の論理はそうでしょうが・・・・・・。


東中野
 いや、国際法の論理からです。降伏規約を締結する権限は「師団の指揮官」以上の者にのみあるからです。



 第三者機関である国際司法裁判所などが、例えば、日中双方の意見を聞いて判断するとなると通らないでしょうね。もちろん、日本軍としては、作戦行動の一部として便衣兵を狩り出し、処刑しても不法行為をしたという意識がないから、「戦闘詳報」にも堂々と七千人やっつけたと書いているわけです。むしろ、それは誇るべき戦果とされている。だが、第三者はそうは判断しないのが問題なんです。


松本
 戦闘現場の中国兵がぞろぞろと両手を挙げて降伏してきているのに、国民党政府からの正式な降伏文書がないからまだ戦闘継続中だとして、日本軍がそうした両手を挙げている中国兵を片っ端から殺したりしたら、やっぱり国際法違反ですよ。


東中野
 便衣兵ではなく軍服を脱いで隠れている正規兵を摘発したのであって、安全地帯から両手を挙げて降伏してきたわけではない。そのうえ、南京の場合は武器を隠匿したりしていたわけで、やはり捕虜となり助命される資格はありません。



 隠匿しているといっても、その兵士たちが個々に隠していたわけではない場合もあったろうし、安全区の中で見つかったからといっても、ただ置き去りにしていただけかもしれない。すべてが犯行のために準備された兵器で、いざという時にその兵士たちが使える状態にあったと見なすのは無理がある。


東中野
 本当に抵抗しないという意思表示は、中国軍が師団長の降伏の申し出のあと、軍服を着用したまま、自ら兵備を差し出して行わねばなりません。それに反した彼らは「助命される捕虜」の資格に反すると言っているのです。



 気持は分りますが、だからといって、その事実をきちんと確認しないで一方的に処刑しては抗弁できません。



■削除されたベイツ・メモの謎
東中野
 確かに、南京にいた米国宣教師のベイツは、日本軍が不法に捕虜を処刑したという話をもとにして一九三八年一月二十五日に、いわゆるベイツ・メモ(「非武装の四万人近い人間が南京城内や城壁近くで殺された。三割は兵士ではなかった」云々)を書き上げて、英国の『マンチェスター・ガーディアン』の記者であるティンパーリーのもとに送って『戦争とは何か』という本に収録されています。これは、秦さんの考えとほぼ同じといってもいいかもしれません。


松本
 当時の感覚としても、それが普通の国際法感覚だったのであって、日本側に著しく国際法的感覚が欠如していたというしかない。


東中野
 いや、それは日本軍を精神分裂症的に見る考えです。なぜなら、十二月十日までに、中国に対して降伏を勧告していますが、これは無用の戦闘を避けようという国際法的感覚に基づいた行動であった。
 また、十一日、十二日に中山陵付近で激戦がありましたが、幾ら戦争とはいえ貴重な文化財を保護したいという国際法的配慮を日本軍が行っていた事実は『ニューヨーク・タイムズ』も報じた通りです。そんな日本軍が、十二月十四日以降、突如として国際法を全く無視して、何の落ち度もない中国兵士を無闇に殺害したというのは、日本軍が突然変質したというわけでしょうか。そうではないと思います。
 ベイツ・メモにしても、彼は当初四万人説を主張し、ティンパーリー編の『戦争とは何か』には四万人説が収録されていましたが、それ以降はその四万人説を全面的に削除している。また、中華民国の「公式資料」から成る『チャイニーズ・イヤーブック 一九三八−一九三九』の「捕虜殺害」の章に、ベイツ・メモが収録されていますが、「四万人」殺害のくだりは削除されていました。これは何を意味するのか。つまり、ベイツ自身も年鑑編集者も日本軍による中国兵処刑を不法と言えなかったから削除せざるを得なかったということです。


松本
 ベイツが削除したからといって、それは捕虜虐殺がなかったという証明にはならない。



 一九三八年四月三十日付けの八路軍機関紙の『抗敵報』には、ベイツ・メモと同じ数字ですが、四万二千人の「同胞」が「屠殺」されたと明記してあります。


東中野
 しかし、日本でも政治的に偏見を持っている団体の機関紙なら嘘八百のような話でも載るでしょうが、公的な刊行物にはあやふやな事実は掲載しないでしょう。秦さんも松本さんも多くの本をお出しになられています。著者は全記述に全責任を有しています。その一部分でも削除、ましてや核心部分の削除、ということには大きな意味がある。そのことはお分かりでしょう。ベイツは末尾にサインまでしていますので、削除を認めている。それは彼が根拠なしと判断したことを意味しています。しかも四回もです。
 毛沢東は、その後、五月二十六日から六月三日までの九日間、延安の抗日戦争研究会で連続して演説していますが、南京を包囲したにもかかわらず、日本軍は中国軍を殲滅しようとしなかったので我々は助かったと語っています。これも間接的に日本軍による「南京虐殺事件」がなかった証明になる。蒋介石にしても、南京虐殺に関しては発言していないし、ベイツ・メモを喧伝することもしていないのは何故ですか。



 中華民国としては、唐将軍が南京死守の司令を背き部下と市民を見捨てて敗走した不名誉な事実があったので、ことさら南京の被害を宣伝するわけにもいかず、「南京虐殺事件」を大宣伝するのをはばかったという側面がある。
 だから、『チャイニーズ・イヤーブック一九三八−一九三九』に死者数を明記するのも不名誉ということで削除しただけの話かもしれないし、ベイツはティンパーリーが三十万の虐殺を主張していることに対して、間違っているとも指摘していないわけで、なぜ削除したかは、もう今となっては誰にも分りません。
 それに、蒋介石にしてみれば、南京戦の後も、徐州や武漢での激戦があって、南京戦以上の戦死者を出しています。あるいはスペースの関係もあって消えただけかもしれないじゃないですか。


東中野
 私が何故ベイツ・メモの削除にこだわるかといえば、南京虐殺がなかったということを証明するのは実は難しい作業だからです。「透明人間がいないことを直接証明する」ことの困難さを考えると、それはよく理解されると思います。
 だから、さまざまな虐殺説を唱える人に、直接見たものなのか、何処で見たのか、写真を撮ったのかと細々と検証していくことによって反証するしかないのです。



 確かにいろんなアプローチの仕方はあるでしょうが、先述したように、日本軍の「戦闘詳報」から積み上げていくしかないと私は考えています。また、第三者である欧米人の証言やその矛盾に依拠するのではなくて、日本人が自分で記録したものをまず検証しておくべきだと思います。その意味で「ああ、これが皇軍か」と嘆いた石射猪太郎東亜局長の日記などは重要でしょう。


東中野
 私は日本軍の「戦闘詳報」や中国人の証言からもアプローチしているつもりです。石射の慨嘆は「強姦・放火・掠奪」についてであり、南京にいた欧米人の話が上海の日本大使館経由で東京に伝わり、それを真に受けた伝聞に基づくものであって、直接の目撃談による感想ではなかったはずです。



 だけど、外交官は自国の利害に関係してくることは、出先の大使館がチェックしますよ。その判断の上での記録でしょう。


東中野
 しかしその記録は伝聞の感想です。南京の日本大使館員が同じように記録していれば別ですが、福田篤泰書記官などは現地で欧米人の好加減な抗議に逆に抗議している程です。英国の外交官であったジェッフリー南京領事は、一九三八年一月二十八日に本国に陥落後の南京の報告書を提出していますが、そこで批判されている「残虐行為」というのは、掠奪やレイプのケースがほとんどなのです。どこにも中国兵を国際法違反で処刑したといった意味での「虐殺」云々の批判はない。何故、彼は日本軍の処刑を批判しなかったのか。その挙証責任は私にではなく、秦さんや松本さんの方にあると思います。


松本
 中国兵はあちこちで便衣兵になってしまっているから、彼らの処刑に関して、捕虜殺害であるとの具体的証拠をジェッフリーたちが集めるのは困難だったと思う。それに比べれば、掠奪やレイプは明白な形で国際法違反であると証明しやすかったから報告書に書いただけでしょう。



 外交官の報告書といっても、外国人の書いたものだから完全さを求めるのは無理でしょう。


東中野
 でも、事件発生当時、発生場所で関係者が直接見聞し記録したものは第一次史料であって、その点ではラーベにしても、ジェッフリーにしても、部分的には貴重なものがあるわけです。両者の史料をチェックし、南京の人口が増えていた、また日本軍による捕虜虐待の例が報告されていないということはそれなりに貴重なものだと言えます。



■松井大将の責任

 だったら、先述したように、歩兵第七連隊が二日間で七千人の中国人を摘発処分したのも疑いようのない第一次史料です。


東中野
 その事実を疑っているのではなく、その処分は国際法には違反しないと私は言っているだけです。ラーベにしても、中国人が連行されたことは知っており、全部殺されたであろうと日記で述懐していますが、日本には抗議していない。先ほどのベイツの四万人説の削除が事実であるように、これもまた事実なのです。日本軍兵士のレイプをあれだけ声高に批判しているラーベがこの問題ではさほど抗議していないのも、つまり、そうした処刑が国際法違反に相当するという認識がなかった間接的な証拠ではないか。



 レイプや掠奪を始めとするラーベのさまざまな抗議に対して、南京在住の日本大使館員はそのたびに謝罪しているんですよ。しかし、外交官も軍に対して無力であった。ベイツも「彼らはそれなりに努力したが軍に恐怖感を抱き、東京へ報告するだけだった」と東京裁判で証言しています。一部軍人の乱暴ではなく、軍の作戦行動として摘発処分をしている行為を、民間人のラーベがどうやって阻止できますか。電報を打って本国のヒトラーにその件を訴えようとしても日本軍に検閲されているし---。それに、こうした日本軍の非行については、松井大将が申し訳ないと謝罪しているじゃないですか。


東中野
 いや、当時南京にはラーベだけでなく、約三十名の欧米人がいたのです。そして陥落から四ヵ月後には東京のアメリカ大使間の武官が調査のため南京に入っています。コービル武官は六人の欧米人に面談しますが、そのとき誰ひとりとして「虐殺」に言及していません。欧米人同士の中で、黙っている必要がないでしょう。
 他方、松井大将は日露戦争にも従軍していたので、日露戦争のように模範的で完全無欠な戦い方をできなかったという意味で、南京の「兵の暴行」を謝罪しただけでしょう。



 東京裁判で、二十万人とか十万人の虐殺の責任を問われ、死刑の判決を受けても、抗弁することもなく、申し訳なかったと花山信勝教誨師に懺悔しています。


東中野
 それは秦さんの勝手な解釈であって、事実は違うのではないですか。そもそも東京裁判は不公正なものだったし、南京虐殺をでっちあげるために誰かを死刑にする必要があってスケープゴートにさせられただけで、松井は潔く判決に服したに過ぎないのです。彼にしても皇軍兵士がレイプや掠奪をしたことを詫びているだけで、虐殺を認めているわけではないのです。



 しかし、自身の有罪を認めたのは事実です。また南京戦の後に、彼は憲兵隊の報告に基づき陸軍省から軍法会議にかけられる寸前までいっていたし、戒告処分を受けて「申し訳ない」と泣いていますから、心当たりはあったといえましょう。出征軍司令官が天皇から叱られたのですから、これ以上の不名誉はないわけです。


松本
 例えば、南京戦では、京都第十六師団の中島今朝吾中将の陣中日記にしても、一九三七年十二月十三日付けで、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコト、ナシタル」と書いてありましたね。そして、佐々木部隊だけで「処理セシモノ約一万五千」。その後、「続々投降シ来ル」兵士が七千〜八千人あるとしている。そうすると、投降してきた時点で捕虜の資格はあるわけで、少なくともお前たちを捕虜と認めないとしても、一応裁判をする法的な処理をしなければならない。


東中野
 その地域のみを問題にする限りでは、おっしゃる通りです。


松本
 ところが、この七千〜八千人を、「之ヲ片ヅケルニハ相当大イナル壕ヲ要シ、ナカナカ見当タラズ」云々ということで、適当に「処理」してしまった。つまり、処刑したわけですね。


東中野
 同情すべき点としては、南京を守っていた中国軍との激戦を展開した第十六師団のある部隊は、上海戦以来の最大の死傷者を出しながら戦ったわけです。そこに、自分たちの軍勢より多い投降兵が出てきては、戸惑ったという事情もあったと思います。死闘を展開している最中に、彼らを庇護するために、監視兵を差し引いていては、自分たちがやられる恐れだってある。何しろ、中国兵は投降してきても武器や手榴弾を隠し持っていたりしますから、直ぐに寝返って反抗したりする。すると、勝者であっても、一分後には自分たちが死んでいるかもしれないという極限状況下で、大量の敵国の市民や兵士に取り囲まれているわけです。
 従って田岡良一博士は、我が軍が投降兵を収容することにより、自軍の進撃を一時中断させ、自軍の勝利を危うくする恐れがある場合には、「敵の降伏信号を黙殺して攻撃を継続することを許される」と言っています。国際法は遵守すべきだというのは机上の空論でしかない場合が戦場ではあると思います。



 そんな大量の投降兵の面倒など見ていられないからやっつけてしまったということに関しては、同情できます。リンドバーグ日記によると、米軍も似たようなことをやっています。しかし、違法と言われれば違法と認めざるをえない。


東中野
 しかし、そういう状況下であったということを考慮しつつ、第十六師団長だった中島中将の日記も見るべきでしょう。それに、「処理」というのを、「銃殺」のような響きで解釈するのもちょっとおかしい。参戦将校の話によると、あのあたりでは土を掘った壕があったので、「処理」というのは、その壕に捕虜を入れて監視保護するというニュアンスだったとのことです。



 当時の日本軍の「処理」とか「処分」と言えば、要するに「殺せ」ということでした。


東中野
 いや、中島日記には他にも「佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約一三○○」と記しているわけですが、この「処理」が「銃殺」であるとすれば、先ず大量の死体があるはずですが、そんなものは何もない。埋葬記録にも出てこない。ペストやコレラの発生原因になりうる万単位の死体が放置されるわけはないのです。また「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコト、ナシ」といっても、捕虜を認めず殺害せよなどという主旨の命令は「戦闘詳報」にも出てこないでしょう。つまり、そんな命令は正式に出されていないということになる。


松本
 東中野さんが言うように、戦場の切羽詰った状況下ですから、投降兵がいつ反撃するかもしれない、そんな騒擾が起きたら大変だということは、たしかに中島日記にも出てきます。そういう非常時に、上から捕虜銃殺命令などを正式に出すということは先ずないと思います。


東中野
 そうしたら、捕虜の銃殺は不可能じゃないですか。


松本
 だから日本軍は捕虜扱いしていないわけですよ。



■幕府山で虐殺はあったのか

 そもそも、第十六師団では「戦闘詳報」が一部の連隊のものしか残っていないから、正式の命令があったかどうかは水掛け論になってしまう。南京にいた憲兵の証言も今まで見つかっていませんし、日本側のデータは十分とは言えません。埋葬記録にしても、かなり杜撰なところがあって信頼できない。
 だからといって日本軍が推定無罪であるという理屈にはなりません、今から刑を執行するのなら、挙証責任の関係で大いに議論すべきところでしょうがねぇ。


東中野
 でも歴史学で過去の出来事を考えるならば、過去の問題はすべて記録に基づいて発言すべきではないですか。



 だとしたら、例えば、上海派遣軍兼中支那方面軍情報参謀の長勇中佐が、幕府山で捕らえた一万数千人の中国人捕虜の扱いに苦慮していた第十三師団の山田支隊に対して、「始末せよ」と指示した事実をどう考えますか。


東中野
 まず事実経過を考えると、一九三七年十二月十四日の段階で、捕虜を数えてみたら一万四千七百七十七だったという。中には女兵士や老兵士や市民も混じっていたから、そういうのを半分弱ぐらい逃がしてやった。残りの八千人ほどを収容していたら、十五日に放火があって、かなりの者が逃走し、残りは四千人ほどとなった。従って、日本軍の支配下に残った捕虜は四千人程度であったという認識でよろしいでしょうか。



 ちょっと留保したいですね。実数に関しては何とも言えません。


東中野
 概数はそんなところだと思いますが、山田旅団長は、十五日に本間少尉を司令部に派遣したところ、「始末せよ」と命令を受けて困惑したわけです。確かに、山田日記には「皆殺セトノコトナリ各隊食糧ナク困却ス」と書いてある。
 しかし、この本意は、"皆殺しせよとはいうものの、自分としてはしたくないから何とか戦場から追放する処置にしたい、しかし、捕虜のための食糧もなくて困窮している"というニュアンスだった。その証拠に、山田はそういう処刑をしたくなくて、わざと十七日夜に揚子江南岸に捕虜を集合させて、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り解放せよとの指令を出していたわけです。
 そこで、指令通り実行し、まず数百人の捕虜を乗せて揚子江中流まで行ったところ、向こう岸にいた中国兵が日本軍の渡航攻撃と勘違いして発砲してきたために、残っていた捕虜が、仲間は川中で銃殺されていると誤解して騒ぎだし混乱の極みとなり、日本軍もやむを得ずに制止のために射撃したりしたというのが真相だったわけです。これは投降兵の処刑を命じられた両角連隊長の手記からも明かです。この件については、拙書『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社)でも詳述していますが、幕府山での捕虜の扱いを日本軍の組織的な捕虜殺害命令だという虐殺派がいますが、とんでもない誤解というべきでしょう。



 ただ、本当に釈放するつもりだったら昼間やればよかった。ぐあいの悪いことは大体夜やるものですからね。


東中野
 まいったなぁ(笑)。



 わざわざ問い合わせをしてしまったために、軍司令部から殺せという指示が出たわけですが、そんなことをしなくても逃がしてやりたかったら、不注意で逃げられてしまったということにすればよかった。本当の事実経過に関しては、何しろ第十三師団の人達がみんな口をつぐんで言わないから困る。釈放しようとしたのかもしれないけど、結果として多数の捕虜を殺してしまったんですね。軍司令部は自分たちの命令通りに処理されたと思っていましたからね。長勇にしてもそう信じていた。ですから、そのあたりの枝葉末節をあれこれ議論しても詮もないことだと感じます。
 舟で逃がそうとしたということに関しても、舟の準備をした形跡はないし、広い揚子江の向こうから闇夜に鉄砲で中国兵が撃ってきたために捕虜が叛乱したという説明も変な話ですよ。殺されそうになっていたから彼らが反乱したと推定するのが無難でしょう。


東中野
 しかし、両角連隊長その他のそういう手記が残っているのに、それを信じないのですか。



 真実の部分もあるかもしれませんが、当事者の手記である以上、眉に唾しながら検分する必要はあります。自己弁護の要素も入ってくるでしょう。舟にしても、当時、あるのは数人乗り程度の漁船が数隻ですよ。そんなもので、どうやって四千人という捕虜を運べるんですか。日本海軍の船を頼んだ形跡もありません。私は、単に揚子江岸に連行して、そこで殺す計画だったと見るべきだと思います。死体も揚子江に流せばすむ。少なくとも、「殺せ」という命令があり、惨憺たる結果が生じたことを考えると、捕虜虐殺の責任は日本軍にあるというしかない。


東中野
 しかし、長勇中佐の命令があったなんて本当ですか。情報参謀が何でそんな命令を出せるんですか?



 権限は確かにない。しかし、当時の日本軍は下克上の風潮が高まっていました。石原莞爾だって、何の権限もない作戦参謀が満州事変を起こしたんですからね。それに比べれば、その種の越権行為はしょっちゅう起きていたと見てもいい。


東中野
 そういう類推の一般化も危険ではないですか。



 いや、それは『南京事件』にも書きましたが、裏付け証言が多々あるんです。そういう無茶苦茶な軍人がいて、松井大将も抑えることができなかった。しかし、そうした蛮行の最終的な責任はやはり彼にあったわけです。


松本
 松井大将が、良識的で人情家であったのは間違いないでしょうが、現地の一部指揮官が突出して独断専行で、現地調達という名の掠奪や捕虜殺害をやっていった事実は否定のしようがない。だから中島なり長勇がそういう非常識な命令であっても、出してしまうと、それが実行されていくという現実はあった。


■学問的追及を恐れる中国

 議論は尽きないわけですが、中国側の主張する三十万という数字は、上海・南京戦全体の軍人の戦死者を含めた死傷者数としてはまずまずの数字だと思いますが、それがいつの間にか、南京陥落後、無実の市民三十万が殺戮されたという数にすりかわっていった。途中で、中国側は、軍人も入れてしまった気配があります。今回の三派合同大アンケートを見ても、いわゆる「大虐殺派」の人たちも民間人だけの死者二十万というのが上限のようです。以前は「二十万人以上」という表現で中国側の「三十万」の主張を立てていたんですがね。これからは十万人の差がトラブルの種になるかもしれない(笑)。


松本
 中国側が当初、軍人も含めて三十万と言った場合、その算定の根拠となったのは国民党の資料ですかね。



 当時の中国側の「戦闘詳報」はほとんど台湾にありますから。


松本
 とすると、そうした具体的資料を持っていない共産党政権下の中国側が徐々に数字をつり上げてきて、南京のみならず日中戦争の死傷者が三千五百万人といった風にどんどん数字が膨らんできている。


東中野
 そういう非科学的な中国の主張に、日本側がどういう風に学問的に反論していくべきなのかが、これからの最大の課題でしょう。そのためにも、私たちは日本「南京」学会というものを作り、この事件をより深く研究していきたいと思っているのですが・・・・・・。



 学術的にというのは、なかなか難しいでしょうね。かつては南京論争といえば、日本人同士でやっていた。中国は高みの見物をしていればよかった。ところが、近年は日本の論調とくに教科書の南京に関する記述にも介入してくるようになった。アイリス・チャンという援軍もありましたし---。


松本
 そうした介入をすることが、中国の日本に対する政治的立場を強め、弱腰の日本に対して経済的、道義的要求をすることができると判断したからでしょうね。ただ、それをやりすぎると、日本のナショナリズムを刺激し拙いと判断する場合には、日中友好を強調し低姿勢になったりもする。つまり、そういう政治的な意図によって、被害の実態が変動する以上、学問的に対話するのは困難です。



 しかし、日本国内でも、アンケートの結果を見ても分るように、ゼロから二十万まで意見はバラバラですし、異なる見解を乱立している。中国側が介入しやすい事情は変わっていません。


松本
 冒頭で指摘したように、「南京大虐殺」は一つの固有名詞として中国では物語られている。極端なことを言えば、中国側は新しい史料や証言が出てきたからということで五十万人説を唱えることだって可能です。そういう神話的な構造に立脚した中国側の物語に対して、日本側がどういった歴史の物語を構築していくかが問題でしょう。我々日本人は泥沼化した日中戦争の中で、さまざまな戦争行為を通じて中国に深い傷を与えたのは事実であるけれども、「南京虐殺事件」にしても決して計画的なものではなく大きな戦争の流れの中で生じてしまった失敗であることを位置づける、日本人なりの歴史認識というか共通の戦争の物語を作っていく必要があると思います。


東中野
 日本軍は南京を落とせばもう終わりだと思っていたのでしょうが、そうはならず、軍服を脱ぐというタブーを冒した中国兵が非武装中立の安全地帯に潜伏するという偶発的な出来事が起こったのですが、中国やアイリス・チャンは、あたかも日本軍が南京城内で中国人三十万人を手当り次第に殺戮していたという主張をしていますが、そんな話はありえない。



 たしかに、南京で戦闘を主任務とする部隊が、中国兵士より多い数の民間人を殺すというのは論理上ありえない。


東中野
 千六百人の第七連隊が二十万人を殺せるわけがない。



 しかし、死者の疑問が解消しても、レイプの話が出てくる。被害者だと主張する女性相手に、それが事実かどうかを検証するのは許されないという空気が最近は強いですし---。


東中野
 ただ、通勤電車内の痴漢にしても、冤罪が起こりうるわけですからね。それはともかく、日本は情報戦に敗れているのは間違いない事実です。インターネット上にも、日本軍とは何の関係もないような残虐な写真が、あたかも南京の戦闘写真だとして流されている。そういう写真を欧米人が見て、"日本人はやっぱり残虐な民族だったんだ、原爆を投下されても仕方なかった"というイメージを定着させられているんです。
 私は日本軍の中にもレイプや掠奪を働いた者が十名近くいたことを否定できないと思っています。しかし、冷静に見ていかなくてはいけない。沖縄の米軍兵士が日本人少女を強姦したからといって、アメリカ人や米軍がすべて鬼畜というわけではないのです。


松本
 石原慎太郎氏が以前、日本側と中国側とが南京の真相を究明する政府委員会を作って、被害の実態について客観的な事実を解明していくべきだと提唱したことがありましたが、これも現実的には不可能でしょう。だから、南京戦にしても、被害が拡大した原因については、日本軍が計画性をもって虐殺したとはいえない以上、日本側の責任だけではなく、南京の民衆を放棄して逃亡した唐生智将軍の責任もある。そういう総合的な視野からの互いの責任論の比重を考えていくべきです。



 四年前にプリンストン大学で開かれた南京事件シンポジウム---ここでアイリス・チャンは初登場したんですが---で、私が事件の責任については唐生智にもあると指摘したら、会場内の中国系アメリカ人たちから激しいブーイングを受け、司会者があわてたのを思い出します。
 とにかく「南京虐殺事件」から、六十年以上の歳月を経て、戦争を直接体験した世代はほぼ交代しています。日中国交回復の時に賠償金を払わなかったものの、その後、かなり巨額な経済援助をしてきている。ざっと三兆円です。他に焦げついている民間債権が二十兆円という説もありますし、いわば実質的な賠償はしてきたわけで、南京論争に関しても、中国はもう少し大人の態度を示して、そろそろ打ち止めにする度量を見せたらいいんじゃないか。


東中野
 政治的カードとしての南京虐殺は、もう打ち止めに願いたいですね。しかし、学問的研究は、それこそ真実が判明するまで徹底追及されねばなりません。先程、秦さんが学問的には難しい、松本さんが事実の解明は現実的には不可能、とおっしゃいましたが、真実の学問的追究を一番恐れている国、されては困る国はどこなのか。
 私事で恐縮ですが、十一月二十八日「南京虐殺」の生き証人と言われる夏淑琴さんが、私(や松村俊夫氏)に「にせ証人」のように書かれて名誉を毀損されたとして、私(や松村氏、展転社)を訴えました。私(や松村氏)が著書の中で夏さんの証言に疑問を呈したからです。しかし「南京虐殺」の真実を示したいのであれば、訴えるのではなく、色々な疑問に答えるのが先決ではないでしょうか。
 その場合も真実を追求していくには、史料を発掘し、一つ一つ事実を積み上げて行くこと、これ以外にはありません。長い道のりかも知れませんが学問的研究は決して打ち止めにしてはなりません。それが日本では自由にできる。アンケートに見られるように、あらゆる論が出ているのを見て、改めて学問研究の自由を感じます。

*1:P128〜144