佐々木到一少将『私記抄』改竄問題

 
 あまり有名ではないようですが、『偕行』1985年2月号に掲載された、「証言による「南京戦史」(11)」において、佐々木到一少将の『私記抄』が、改竄としか思えない引用をされていたという事件がありました。引用されていた期間は、1937年12月21日〜1月22日の部分で、ちょうど佐々木到一少将が南京地区西部警備司令官、城内粛正委員長、宣撫工作委員長とを兼務し、城内粛正を行っていた時期です。
  
南京戦史資料集Ⅱ(P381-382)に収録されている原本は次のとおり

12月21日
 全軍の配備を整理せられ各師団城内より退出、我師団は南京城を含む周囲地域を警備。予は南京地区西部(城内を包含)警備司令官を命ぜられ、城内警備に関しては派遣軍司令官の直轄となる。

12月22日
 城内粛正委員長を命ぜられ、直に会議を開催す。
 
12月23日
 会議。
 
12月24日
 同右、査問工作開始。
 
12月26日
 宣撫工作委員長命ぜらる、城内の粛正は土民を混ぜる敗兵を摘出して不穏分子の陰謀を封殺するに在ると共に我軍の軍紀風紀を粛正し民心を安んじ速に秩序と安寧を恢復するに在つた。予は峻烈なる統制と監察警防とに依つて概ね廿日間に所期の目的を達することができたのである。
 
1月2日
 敵機五機大校飛行場を空襲、損害無し。
 
1月5日
 査問会打切、此日迄に城内より摘出せし敗兵約二千、旧外交部に収容、外国宣教師の手中に在りし支那傷病兵を俘虜として収容。
 城外近郊に在つて不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関に於て処分せるもの数千に達す。
 南京攻略戦に於ける敵の損害は推定約七万にして、落城当日迄に守備に任ぜし敵兵力は約十万と推算せらる。
 
1月22日
 警備司令官の任を第十一師団の天谷少将と交代。その後再び北支へ転進す。

 
次に「証言による「南京戦史」(11)」(P10) における記述。誤記・追記は太字、削除個所は()で括り注記。

12月21日
 全軍の配宿を整理せられ、各師団は城内より退去。わが師団は南京城を含む周辺地域を警備。予は南京地区西部警備司令官を命ぜられる。城内警備に関しては派遣軍司令官の直轄となる。
 
12月22日
 城内粛正委員長を命ぜられ、直ちに会議を開催す。当時は難民区への出入は厳重に警戒し、将校といえども、許可された者以外は出入を禁止されていた。
 
12月23日
 会議。
 
12月24日
 会議*1、査問工作開始。
 支那兵は、軍服を脱いで便衣となって、難民区に潜入したことが明らかであった。難民区内の住民が、全部常民とは信じられなかったので、調査する必要を生じた。
 
12月26日
 宣撫工作委員長を命ぜられる。この査問工作の目的は*2、不穏分子の陰謀を封殺するとともに、わが軍の軍紀風紀を粛正して民心を安んじ、速やかに秩序と安寧を恢復するにあった。
 調査の方法は、日支合同の委員会を構成し、日支人立会のうえ一人ずつ審問し、検査し、委員が合議のうえで敗残兵なりや否やを判定し、常民には居住証明書を交付した。敗残兵と認定された者は、これを上海派遣軍司令部に引き渡した。
 予は、峻烈なる統制と監察・警防とによって、概ね二十日間に所期の目的を達することができた。
 
1月2日
 敵機五機、大校飛行場を空襲するも損害なし。
 
1月5日
 査問打ち切り。この日までに摘出した敗残兵は約二千。旧外交部に収容したが、外国宣教師の保護下に会った支那傷病兵を俘虜として収容した。
 城外近郊にあって不逞行動をつづける敗残兵も逐次捕縛、下関において処分せるもの数千に達す。
 ( 南京攻略戦に於ける敵の損害は推定約七万にして、落城当日迄に守備に任ぜし敵兵力は約十万と推算せらる。*3
 
1月22日
 警備司令官の任を第十三師団の天谷少将と交代。その後、再び北支へ転進す。

追記している部分はやけに説明調で、査問を行う正当性と、手続の適正性を印象づけている。また書換・削除された個所は、敗兵を摘出や敵兵犠牲者の規模といった都合の悪い個所で行われています。
 
本件には若干の続きがあります。
松井石根大将日誌改竄発覚(1985年11月)の翌月に発売された、『偕行』1986年1月号(P30)に「証言による「南京戦史」」の著者である畝本氏による、次の投稿が掲載されます。

佐々木到一少将の『私記抄』について
畝本正巳 46期

 私は、目下『南京戦史』全資料の見直し・再検討中ですが、60年2月号掲載の「佐々木到一少将の私記抄」(10ページ)を念のため防衛研究所戦史部所蔵の原典と照合したところ、左の通りゴシックの部分について相違正誤があります。
 その原因は、私が中沢三夫16D参謀長の証言等々、佐々木歩兵第30旅団長日記の説明にあたる部分を混同転写したことによるものが殆どで、意味するところは同じでも、<註>として区別すべきものでありました。
 訂正すると共に、読者会員諸賢にお詫び申します。
 なお、松井石根大将資料についても、いま再検討にとりかかったところで、その結果は追ってご報告申し上げます。
 「証言による南京戦史」の連載を始めた59年4月号冒頭にもありますように、私どもの立場は当時、南京で「何が行われたにせよ、その真相を究明する」のが目的であることを、再び確認しておきたいと思います。
(昭60・12・18)
 
 ( 以下に改竄個所の指摘 )

 『偕行』紙上に連載された「証言による「南京戦史」」は約1年前の85年2月で終了しており。タイミング的には、明らかに松井日誌改竄の余波が伺える。また、畝本氏は自身の転記ミスだと主張してますが、連載にも深く関わっていた田中某センセイがやらかしちゃったのでは......とついつい疑ってしまいます。

*1:原本では「同右」

*2:原本では「城内の粛正は土民を混ぜる敗兵を摘出して」

*3:削除されている。