松井石根は花山信勝に何を語ったか

Jodorowsky2008-07-26


巣鴨拘置所教誨師として、処刑直前までA級戦犯らと過ごした花山信勝さん。
そんな花山さんがその体験をまとめ、処刑直後に出版された『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』。*1
この本は、A級戦犯最後の24時間を再現したというブル聯隊長水島総監督が製作した映画『南京の真実』のほぼ唯一のネタ本です。
その中から松井石根大将に関わる部分を書き出してみました。通読したのはかなり前なので、モレがあるかも知れない点はご容赦を。
映画は1/3くらいは寝ちゃったような気がするんで、正直どの程度(正確に)引用されてるかは覚えてません。因みに厳格に最後の24時間に限定するとP349〜352以降ということになります。
 
因みに映画『南京の真実』は8/1〜8/31の間、遊就館で上映予定です。まだの方はどうぞ♪
http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/news/whatsnew.php
 
参照:映画『南京の真実』が語らせた松井大将の科白
 
当然かなり長いです。

P277〜288

・・・・・・
松井石根

七十一歳。愛知県出身。元陸軍大将。陸士九期(安部信行、真崎甚三郎、荒木貞夫、本庄繁と同期)を主席で卒業、恩賜の銀時計をうけた。陸大卒業の時は二番の軍刀組参謀本部部員、歩兵第三十九体長、ウラヂオ派遣軍参謀、関東軍司令部附、歩兵三十五旅団長、参謀本部ニ部長、十一師団長、軍事参謀官、台湾軍司令官を歴補し、この間昭和六年ジュネーヴで開かれた軍縮会議には陸軍代表として松平恒雄永野修身両全権と共に出席、昭和十二年九月日華事変に際し、上海方面派遣軍最高指揮官として、呉淞上陸依頼南京攻略まで半ヵ年出征、同十三年二月帰国後は大日本興亜会総裁、興亜総本部統理、内閣参謀などを歴任した。現在静岡県熱海市伊豆山八ニ九に妻文子(五十六)が住み、実子でないが養女久江がいる。家の上の山の中腹に興亜観音を建てた。これは南京、上海等の土を持って来て焼き、その下に両国戦死者の遺骨を埋めた。高木陸郎氏が世話をしておられる。その観音さんの開眼には、増上寺の大島僧正をたのみ、その後今の増上寺の椎尾弁匡博士がニ、三回来て供養をした。また中山理々氏がいろいろ世話をしている。家は父の時代から神道、明治以前は禅宗である。

 第一回の面会は十一月十七日(水)午前十時から十一時まで。この日は、尾家元大佐の遺言を中心にお話をした。
 第二回は同二十三日、午前九時五十五分から十時三十五分まで。前には眼鏡をしておられなかったが、この日は眼鏡を許されてかけて来られた。
「この前差し入れておいた書物で、どういうものをお読みになっておられますか」
とたずねたところ、金子大栄の『月愛三昧』沼波政憲の『帰依道』の二冊を読んでいる、ということであった。
「あなたのお寺は・・・・・・」と、私の住所と名前をたずねられたので、私の寺は金沢にあること、現在は久留米村で、寺ではないことをいった。また、私は大谷光瑞師から、三年間六甲山の上で特別教育を受けたことなど、をお話した。ところが、松井さんは光瑞師が中央アジア探検旅行の際に北平に滞在しておられたとき、常に一しょであったと、又その後の関係についても申された。そこで、大谷光瑞師の入寂されたことを、お互いに話し合って、ともに感慨にふけった。
「何か、お書きになりましたか」
「今日、手紙を家内あてに、花山先生に連絡をするように、頭髪や爪なども取ってもらうから・・・・・と書いた」
「奥さんの御宗旨は」
「家内の里は浄土宗です。その父などは、増上寺さんのお世話になった。私は、すでに覚悟はしておるが、家内は気の立った女だから、自分の死後に、自決でもしないかと心配をしておる。子供がないから、三十年来使って来た女中を、私がここへ来る時、養女として世話をするようにはして来たけれども」
「そのことは、ぜひ御心配ないよう、微力をいたします。今朝も、実は、奥様の方へハガキを差し上げて、来週の日曜日には在宅しますから、おいで下さいますように、と書きました」
「どうか、お願いいたします。それだけが気にかかる。自分のことはもう何でもないので、あなたからそういうふうにしていただければ、まことに結構です」
といわれた。そして、私の久留米村の家への道のりや行き方などについてたずねられたが、そのことはすでにハガキの中にも帰しておいたことをつげた。後で、夫人にお会いしたとき、松井さんから聞かれた道筋の筆記が、私のいったこととすこしもまちがっていなかったのを見て、その記憶が確かであったことに驚いた。
 二十三日午後だったと思うが、松井文子、松井とり、信雄(甥)、久江(養女)、岡田尚の五人が面会に来られたことを知り、私は終連の事務室で帰りを待った。そこで松井夫人に初めてお会いしたのである。そして二十八日の日曜日に松井夫人は私の家においでになった。すでに午前中から土肥原実、武藤初子、広田正雄さんの三人がみえていたので、みなさん尾家さんの遺書や、土肥原さんとの問答、福原勲(元大尉死刑囚)の父に当てた手紙などを読んだ。
 やがて三人の方は帰られたが、特に松井夫人に残っていただき、大将の御心配になっている点について、念を入れてお話をしたところ、夫人は「決して早まったことはしない」といわれ、歌ニ首を示して帰られた。この時、夫人から依頼を受けたことはこういうことであった。
 一つは、観音さまをお守りして、そして自分が死んだら、今の屋敷を観音さまに寄付をするということ。第二には、現在の生活は少しも心配がない。自給自足の道を講じている。野菜を作ったり、鶏を養ったり、裁縫などをしたりしているから、決して心配をしてくれないように。第三には、主人の亡くなった後で、時を見て、これまで講演されたもの、あるいは東京裁判の記録なりを印刷して知人に分けたいということ。第四には思召に従って神道から仏教に帰るということ。第五には、どうか早くお浄土へ行けるように迎えに来てくれるように。第六には、これまでは神道であったために、十日目十日目のお祭りをして来たのであるが、これからは仏教の方式に従って七日目毎の法会を営みますということ。第七には、皆さんが亡くなられた後では、熱海の無畏庵に御家族の方に集ってもらい、私(花山)から直接いろいろの模様を聞くということ。第八には、現在耕している畑は、取られないで作ることになったから御心配されませんようにということであった。
 第三回の面会、十一月二十九日(月)午後一時から二時まで。
 この日は、松井さんは、広田さんとつれ立って仏間に出られた。
「広田君とは、明治四十年から中国公使館で一しょだったので、それ以来の因縁があるのです」
といわれた。私は夫人から受取った和歌を読んで上げた。
  はりつめし心も今はくづ折れてあやめわからぬ心地こそする
  色あせて梢に残る花よりは散りても香る蘭の花から
 この二首の歌は、夫人が私の家においでになる電車の途中で考えついたといわれたもので、私のところへ来るなりお書きになったものである。
「この蘭の花というのは、あなたのお気持ちを申されたのでしょうな」と私がたずねたところ「ああ、そうでしょう」と松井さんはいわれた。
「何か、後に遺される辞世か遺言のようなものを、どうか今晩までにお願いします」
というと、松井さんも、これが最後と思ってか、仏前でていねいに礼拝をし、あいさつをして出て行かれた。
 第四回、十二月九日(木)午後一時二十分から二時二十分まで。
 松井さんは、この日もいつものように、米兵が着る作業衣の上に、紫のガウンを着て、下駄ばきで飄々と入って来られた。いくらか中風気があると見えて、いつでも、少しふるえていられるようだ。私は礼拝を終って、向き直ってから、ふと気がついたことだったが、松井さんはガウンを脱いで坐っていられた。この寒いのにと、そのお気持ちを尊く感じた。
「御機嫌よろしゅう。新聞はいかがですが、ごらんになっていますか」
「昨日は新聞が入りました。アメリカの大審院でとりあげたというのですね。結局、同じことですよ。いっそ早ければ、よいと思いますがね」
「そうでしょうね」
「折角覚悟をしたところを・・・・・・」
「あなたへのお手紙が一通来ておりますが、長州の善光寺光永諦雄という方からです。御記憶がおありでしょうか」
「はい、それは、私の方の観音様の分身をまつっておられる人ですが・・・・・・」
「そうです、では読んで差上げましょう」
 その手紙は次のようなものだった。

 別紙松井氏へと認めたる要点を、御本人在命中に御伝言下さるをえば、有難き至極の因縁と存じ上げます。かつて上海方面から帰還された松井氏が、興亜観音を、発願建立し、彼我の英霊を永久に供養せんとする悲願に感激し、その分身を勧請して、拙寺供養塔の本尊といたして居るものでございます。松井氏には、唯一度御面会申上げたのみ、真に一期一会とはこの事でございました。弥陀の誓願に乗托して、私共は此度浄土の彼我にて倶会一処の果報に住せんのみ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

別紙には、親鸞御作の三首の和讃をかかげ、

 松井様、愚僧の生命のある限りあの観音様を礼拝し、あなたの悲願を憶念し、世界の平和を祈ります。観音音即阿弥陀仏阿弥陀仏即観世音、さらば事実報土にて御再開申上げましょう

「まことに、坊さんのお気持ちの通りでおるから、安心して下さいといってやって下さい」
「承知しました。なお、先日、あなたには特に関係の深い中山理々さんが、三七日間も断食して、斎戒沐浴をして三誓偈を極めて丹念に、大きな唐紙に立派な楷書で書き、それに長い手紙を添えて、七人の方に下さったが、渡されないとのことで、そのまま持ち帰り、御家族の方々へ差上げておきました」
「それはまた・・・・・・。どうぞよろしく」
「全国から、いろいろの方々のお手紙も来ています」
「未知の方の手紙も、三通みました」
「はあ?手紙を入れてくれますか」
「はい。最近は差入れてくれてます。・・・・・・処刑にあうのは、観音さまの御慈悲だと心得てるから。大審院終身刑にでもなったら、まことに困る」
「そうでしょうね。一度覚悟なさった以上は・・・・・・」
「ここの将校さんも大分同情的で、やさしく感ずるようになりました」
「そうでしょう」
「書いたものを、あなたに差上げることは、できないですかね。部屋の中に置いてあるが・・・・・・」
 オニロ大尉に頼むと、一枚の紙に、歌ニ首と詩を書いたのを持って来てくれた。
 ここで松井さんは、めずらしく長く、中国を中心とするアジア諸国の性格、について論じられた。*2それから、
「日本人の反省はむろんのことだが、こちらが少しやさしくいうと、媚びるというふうにとる向うの国民感情もよくない。お互いに反省しなければならぬ。張群という人は、旧友で、困っている時分ずい分世話をしたことがあり、家内も、向うの夫人をよく知っているので、家内からこの間ぜひ興亜観音に詣ってくれといったが、なかなか明答はしなかった。しまいには行きますといい、私のことについて「御同情にたえない」とも・・・・・・」
などと語られた。
 宗教を通じての精神的つながりによらねば、十年、二十年の間には、ほんとうの親善はむずかしいともいわれた。
 なお、法廷でものべておられたように、「こうなってみると、日本は大きな犠牲を払ったことになる」といい、また「私に生命があれば、仏印の安南へいってみたい」ともいわれた。
 それから、あの南京事件について、師団長級の道徳的堕落を痛烈に指摘して、つぎのような感慨をもらされた。
南京事件ではお恥ずかしい限りです。南京入場の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当たり前ですよ」とさえいった。従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。」
「まことに、尊いお言葉ですね・・・・・・」
「家内にもこの間、こうして往生できるのは、ほんとに観音さまのお慈悲だ、感謝せねばならんといっときました」
「あなたのお気持は、インド判事の気持と一しょですね」
「ああ、あのインド判事の書いたものを見せてくれたが、大へんよくいっておる。われわれのいわんとするところを、すっかりいっておる。さすがにインド人だけあって、哲学的見地から見ている。あの人たちは多年・・・・・・経験しているので・・・・・・」
「では、また来週・・・・・・。風邪などめさぬようにお気をつけ下さい」
 松井さんは、ガウンを将校から着せてもらい、仏に向って礼をして、下駄をカラカラ曳きずって、いつもの通りそろそろと去られた。戸口に出られる時「ご機嫌よう」と声をかけると、振り向いてあいさつされた。

 
P336*3

・・・・・・
 次に松井さんと武藤さんが出て見えた。松井さんは手紙三通ほどを持って、手には念珠をかけていられた。私は、明日お部屋の方へたずねるから、手紙は部屋に持ち帰られるようにといった。武藤さんは紫と少し赤味がかった例のガウン、それにはU・Sの印が小さく胸についていた。これはいつものように寒い時に着るガウンである。少し風邪を引いているのを用心されたらしい。下駄をはいて、手にはやはり念珠をかけていられた。
・・・・・・

 
P349〜352*4

・・・・・・
 松井石根。午前十一時から十一時五十分まで。
 大審院のことをたずねられ、それを説明すると。
「まあそうだろうと思います。この間の腰折の歌を受取られましたか」
「いただきました。あれは奥様にもお見せしました。写して帰られました」
「あなたも、大勢のお世話で、なかなかたいへんですね」
「いいえ、できるだけのことは・・・・・・」
 それから夫人と久江さんの手紙を読むと、しっかりと落着いて、いちいち聞いておられた。
「私の郷里のもので荒尾精という人がいた。中尉の時に陸軍をやめ貿易のことについたが、それが東亜同文会を興した。川上さんあたりの感化を受け、中国の同士と一苦労したのです。日清戦争の時には通訳として働き、日本人を養成していた。三十二、三歳の時台湾で殺された。この人が私の郷里の先輩である。それで私もその方に志すようになった。陸軍に入ると同時に、中国のことに注意するようになった。大陸問題を研究した川上、福島、青木、宇都宮等の先輩についてやった。軍国主義となった最近の陸軍のように、斬取強盗式のことは先輩にはなかったですよ。さすがに陸軍の先輩は、明治天皇の精神を体してやっておったから。国が変って、若い者が血気にはやって、とうとうこうなったと思うのです。中国では副総統の李宗仁という人が、蒋介石氏がやめたらなってもよいと言ったと新聞で見た。この人を私は知っているが、道徳的の人で衆望も高い。蒋氏が下野するなら、李氏が出て、共産党と一時的に妥協するのではないかと思っておったが、共産党には全く反対の人だ。むしろ日本的の人だ。中国国民の信望はあるし、この際国民党を代表して、共産党と提携するには、一番理想的な人と思う。全く中国のことは困ったことですが、今の中国の共産主義なら、ロシヤのものとはよほど違う。中国の道徳などに加えて、政治形式を整えればやってゆけると思うが、それだけの人がいないですね」
「そうですか。中国の共産党とロシヤの共産主義とは、よほど違いますかね」
「違います。実行したことは、土地を全部取上げて民衆に分配したということですが、やり方はロシヤよりもむしろ穏やかなやり方をしております。中国人の個人的な精神というものは根強いのですが、国民党といっても、共産党といっても、結局は個人のためにやっているから、心配がある。蒋介石氏は、南京を取って最初の一年くらいはよくやったけれども・・・・・・。どうしても思想、精神が指導しなければならん。これと相まって、仏教と提携して宗教家が助けてやらなければやって行けないですね。中国どころでない。日本がいま問題になっているのですからね」
 それから伊豆山の合掌観音の由来について語られ、それが終ってから、ガウンに手を通して出て行かれた。松井さんは、仏間に入るときは必ずガウンのソデを脱いで話をされ、終った時にガウンを着て帰られるのが習慣だった。洒脱だが、謹直な観音信者だった。観音の慈悲を、ひとしくアジヤの民衆に及ぼすことを信念とされていた。
・・・・・・

 
P367〜370*5

・・・・・・
 松井石根。午後七時半から八時まで。
 持って来られた手紙の内容、それも夫人宛のものであるが、それを読まれた。

 「昨二十一日夜、マッカーサー元帥の命令により、明二十三日午前零時当監獄内において絞首刑執行の旨、宣告せらる。かねて期せしところなれば、何ら驚くところなく、謹聴せり。余は武家に生れ、家職をついで陸軍武官となり、累進、大将に進み、正三位に叙せらる。更に勲一等功一級の栄勲を辱うし、一身の光栄にして、切に皇恩の無窮に感激しあり。今南京虐殺事件の犠牲となり、この責任を負つて連合軍の処刑に付せらる。いわんや余は先に上海、南京の戦いに多数の日華両国軍民を失いしものあなれば、その責任上、あま多の英霊のあとを追つて殉ずることは当然なり。
 太平洋戦争は直接余の責任の外にあれども、これまた日華事変の延長と見るべく、余の地位、経歴上責任を免れるべきに非ず。今や敗戦日本の醜態を暴露せることに関し、責任を自覚し、一死、謝することは、又自然なりというべし。顧みて思えば、余はこの度の死に関し、毫も未練あることなく、これ天地神仏に対しても罪を恥じることなし。ただ多年心と身を賭して志したる日華の提携とアジアの復興をとげず、却ってわが国家百年の基を動揺せしめたることは遺憾の極みにして、余の心霊は永く伊豆山の興亜観音山にとどまり、一心観音経に精進し、興亜の大業を奮守すべし。
 文子、久江はじめ、余と志を同じくするものはよくこの意を体し、相共に平等無畏の真理を信じ、安心立命、おもむろに後途をはからむことを希う。余の一家は現在の文子、久江の後断絶せしむべし。よって余及び余の家の後事については、かねて申し聞かせある通り、今において何らいうべきもなし。余の葬祭、遺品の処分、すべて文子の裁量に委ぬ。松井家の祖廟に関しても、既に申述べたるが如く処置すべく、名古屋の墓所は永代供養の方法を講ずることを望む。伊豆山の興亜観音堂は現在の奉讃会の外に、内外有志にはかりて一講社を設立して、永久に供養に弁ぜむことを希望す。なしうれば、一切を熱海市に寄付し、将来の保持を安全ならしむることを望む。但しその名は、あくまでも興亜観音と呼びたく、将来やむなき故障ありて改名することを要する時は、東亜観音と呼称すべし。右観音堂将来の方途については、高木陸郎、岡田尚、花山両師とはかり、何分の善処法を祈念す。

 天地も人もうらみず一すじに無畏を念じて安らけく逝く
 いきにえに尽くる命は惜しかれど国に捧げて残りし身なれば
 世の人に残さばやと思ふ言の葉は自他平等の誠の心
 衆生皆姑息 正気払神州
 無畏観音力 普明照亜洲 
遺品としては、五枚の手紙と入れ歯、眼鏡、爪、判決文、マッカーサー元帥の声明がある。子供もなく、財産もなし、今更ら何も・・・・・・」

といっておられた。
 このあとで、私は、この手紙以外は、全部受取って来たために夫人にお渡しした。
・・・・・・

 
P382〜385

・・・・・・
 三 往相から還相へ
 かくてもう十一時半にもなったので、私は大急ぎで一回にかけ降りて、再び仏間の用意をし、コップにブドー酒をつぎ、水を入れたりして七人の到来を待った。まもなく三回から処刑第一組として土肥原、松井、東条、武藤の四人の順で、列をつくって降りて来られた。それぞれ二人の看視につきそわれていた。両手には手錠がかけられ、さらにその手錠は褌バンドで股に引っかけられていた。極めて不自由な姿である。着物はいつも着ていられた米軍の作業衣であった。しかしシャツは見えた。クツは編み上げの日本クツであた。係官から時間が七分しかないということをいわれたので、取敢えず仏前のローソクの火に線香をつけて、一本ずつ手渡し、私が香炉を下げて手もとに近づけて立てていただき、それから仏前に重ねておいた奉書に署名してもらった。それからコップいっぱいのブドー酒を口につけてあげて飲んでもらう。さらに水のコップを私が少しずつ飲んでは、みなさんに飲んでいただいた。東条さんの「一ぱいやりたい」も、どうやらこれで果され、大変な御機嫌であった。
 その後、まだ二分あるというので、『三誓偈』の初めの三頌と、最後の一頌を声高らかに私は読んだ。四人は頭を下げて、静かに瞑目して聞いておられ、終った時、
「非常に有難うございました」
とお礼をいわれた。それから誰というとなく「万歳」という声が出て、たぶん東条さんと思うが
「松井さんに」
というので、松井さんが音頭をとって「天皇陛下万歳」を三唱、さらに「大日本帝国万歳」三唱を共に叫ばれた。
 ブドー酒のあとで「お菓子はどうですか」といったが、みな入れ歯を取っていられたので、歯がないからと遠慮されたが、松井さんに、やわらかいビスケットを一つ口の中に入れてあげたら、もぐもぐとたべられた。
 以上の行事は、仏間ではせまくて、すべて廊下で立ったまま行われた。この時、東条さんから、約束通り念珠を受取った。松井さんも、手にかけておられたので、
「これを、奥さんに差上げましょうか」
といったら、
「そうして下さい」
といわれ、受取った。他の二人は、部屋(独房)の袋に残して来られたという。やがてチャプレン・ウォルシュ師及びニ、三の将校にあいさつをして、それぞれしっかりと握手を交わされた。私も、いちいちみなの手を握って、最後のあいさつをかわした。いずれの方も非常に喜んで、長い間の労苦を感謝され、また、
「あとの家族のこともよろしく」
と頼まれた。時間は、刻々と迫ってきた。
 出口の鉄の扉が開いた。当番将校先導で、その後にチャプレンと私がつづき、そのうしとに土肥原、松井、東条、武藤の順で並び、両脇には看視、あとに将校がニ、三名つづいて、静かに中庭を歩んでゆく。その間、約二分ぐらいかかったが、念仏の声が絶えなかった。とくに東条さんの声が・・・・・・。
 刑場の入口(コンクリート塀)で、私は隊列を離れ、さらに四人とまた一人一人手を握って最後の「御機嫌よろしゅう」といったところ、
「いろいろ御世話になって、有難う。どうか、また家族によろしく願います」と、みなにこにこ微笑みながら、刑場に消えられた。あとで聞いたところ、台上では四人とも、最後の南無阿弥陀仏を称えていられたということだ。急いで仏間に帰る途中、ガタンという音をうしろに聞いた。時計をみると、午前零時一分だった。
・・・・・・

 
 

*1:本エントリーで使用したのは中央公論社から出された文庫版『巣鴨の生と死―ある教誨師の記録

*2:参照用

*3:12月21日午後

*4:12月22日午前

*5:12月22日午後