大将の直筆のもの

 
田中さんは上記1986年1月20日号の週刊『世界と日本』の反論で次のように述べております。

なお、松井大将の『支那事変抜萃』は、私の保管する大将の直筆のもの、早い時期にタイプされたとみられる外務省資料館に保存されあるもの等、原資料といえども幾種かあり、それぞれ若干の差異あるは当然であります。

 
また、改竄発覚直後の1985年(昭和60年)12月30日の『世界日報』でも同様に

 最後に同氏が調べたと称する松井大将の「支那事変日誌抜萃」はタイプ印書されたものであり、私が保管しているのは大将直筆のペン書きで、同じ原資料といえど幾種類もあるということを申しあげたい。

 
これらは、1985年(昭和60年)11月25日付朝日新聞における洞富雄さんの批判に反論したものと思われる。
田中さんの入手したであろう『支那事変(日誌)抜粋』に関しては、
『諸君』1983年9月号「"南京虐殺"・松井石根の陣中日誌 」に次のように記述されている。

 大将直筆の文献は、やはり久江さんの紹介で当時の自衛官であった高田昇氏(三島市つづじヶ丘団地)が保管していることがわかった。高田氏は松井家と板妻自衛隊の間をあっせんした人で、現在同自衛隊資料館には大将の軍服、勲章、軍刀天皇・皇后からのご下賜品等が陳列されている。
 高田氏が保管していた資料は次の通りである。
支那事変日誌抜粋』(昭和二十年十二月記)
『我等の興亜理念并に其の運動の回顧』(昭和二十一年一月記)
『検事の取調べの要旨』(昭和二十一年三月七日−四月五日)
『起訴状に対する意見』(同年五月記)
『キーナン主席検事の冒頭陳述に対する意見』(同年六月十五日記)
南京虐殺・暴行に関する検事側証言に対する抗議』(同年八月十二日)
『宣誓口供書=松井石根草稿』(法廷第三四九八号)

 
残念ながら、田中さんの一部無実を証明する、松井大将直筆の『支那事変日誌抜粋』はその後公開された様子はなく、田中さんの後に出版した著書や反論でも触れられていない。
 
1988年に出版された偕行社刊『南京戦史』では日誌抜萃の全文が掲載され、次のような解説*1がなされている。

支那事変日誌抜萃」について
 これは松井大将が昭和二十年十月十九日A級戦犯容疑者に指名され、翌年三月五日巣鴨に入所する前(病気のため入獄延期)に記したもので、いわば極東軍事裁判における訴追に対する対策としての覚え書きである。従って歴史的資料としての価値は低いが、最大の訴因と松井大将が予想した「南京事件」についての認識や、弁明の方向付けなどを探るには貴重な資料である。
 文中にはまず上海出兵、南京攻略戦の止むを得なかった事情が記されている。事変は「中国に対する愛情ゆえの、膺懲というよりも四億民衆の救済として行ったもので、東亜百年の平和に貢献せんとしたもの」と主張されている。
南京事件」は「外国権益の侵害、中国人民に対する暴行掠奪事件」と捉えられ、のちに問題とされたいわゆる「虐殺」についての認識は全く無い。
 最大の問題は「外国権益侵害」であり、そして、各国軍司令官や記者とのやりとりに十分スペースを割いている。
 次いで一般人民に対する暴行などに対してとった措置で、前記「涙の訓示」もその一つとして強調されている。ただしこの「抜粋」では、訓示は十二月十七日とされている。松井大将の記憶違いか、理由は不明である。
 いずれにしてもこの「抜粋」から推定すれば、執筆時の松井大将の念頭に「虐殺」の認識は全くなく、法廷での「数十万の大虐殺」告発は寝耳に水の驚きであったことと思われる。

 
ま、例によって誤記&改竄だったと考えるほうが自然でしょうね。
 

*1:南京戦史 P51